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SS1の日記: 消えた「やおい」史 -やおいからBLへ- 5

日記 by SS1

「やおいって、ようするに少女マンガを男どおしに置き換えたように見える」という指摘は、これまでに何度かされていると思う。代表的なのだと、中島梓の『タナトスの子供たち』とか。

この話を最初に目にしたのが誰だったか、思い出せなくてずっとひっかかってたんだけど、ようやっとめっけたのでその話。

夜食をとりながら当時なんの気なしにリモコンをNHK教育に切り替えたら、いかにも学者さんという雰囲気の女性が、講義をしていたのだけども、その背景が・・・ 「高河ゆん」のポスターとかなのである。わたしはもうゴハン吹きそうになりながら、ええええーと驚く、でもってタイトルが「美少年誘拐事件*1」とか・・・

これは1993年のNHK教育テレビで、たぶん日本ではじめて放送された「やおい論」でもある。ちなみにBSマンガ夜話は、1996年から。

講師の本田和子は児童学,児童文化論のひとで,当時はお茶の水女子大学の教授。本田和子については,大塚英二の著作にも言及があるので,あーそうだったのか。という印象。これまで私は関西の社会学者だとおもってたので見つけられなかったようである。それと番組も「NHK人間大学」じゃなくて、「視点・論点」だと思ってたのだな。これじゃみつかるわけないし。

この講座は、本田和子の少女論で、さっそくネットで取り寄せたテキスト(*2)を読むと「萌え論」的にも興味深いものがあった。けどまあ,そっちはおいといて。

当時、なんでインパクトがあったのか。というと、やはりコミケに参加する「やおい」同人漫画が取り上げられていること。いわゆる『聖闘士星矢』の同人誌から初めて、大隆盛を誇った『キャプテン翼』の同人誌について考察しているわけである。ありえないっしょ。いまでも。

「同人誌では、漫画好きで漫画を描く技術を身につけた少女たちにより、人気作品のキャラクターが作品外へと連れ出されていて、それぞれに別のストーリーの主人公とされていた。『聖闘士聖矢』からは、聖矢と瞬と沙織と、それに誰某が‥‥、そして高橋陽一の『キャプテン翼』からは、翼や守が、それぞれに拉致されてきて、新しい物語を生き始めるのである。すなわち、「わたしだけの星矢」や「わたしの翼」の誕生である。」--テキスト P.110

彼女は、それに「少女による美少年キャラクターの誘拐」と名づけて分析している。

「とすれば、この現象は、少女による「少年誘拐事件」といえないだろうか。たとえば『聖闘士聖矢』では、女神を守るべく必死の戦いに挑み、また、『キャプテン翼』では、ワールドカップ制覇を目指して、作品世界を生きる彼らの運命なのだが、しかし、そんな彼らを、少女たちは、「かわいくて、いとおしくて、大好き」などと呟きつつ、作品世界から自分の世界へと拉致してきてしまう。すなわち、キャラクターたちは、恣意的な相手と組み合わされて、恣意的なドラマを演じさせられることになるのである。」 --同 PP.110-111

ここまで、みるとけっこう辛口に見えてしまうんですが、彼女はそれが昔は「シンデレラ」や「赤毛のアン」のために自家製の舞台を作ったように、少女たちのお家芸であって、また、そうして連れて行かれた世界が、これまでのいわゆる少女マンガと同じ世界であることをtvでは指摘していた。ようするに、男どおしにみえるけど、男女置き換えると普通の少女マンガになるってことで、この指摘は、じつに目からウロコであった。

男子からみると、その説にそって読むと「やおい」が読みやすくなるのだね。今風にいうと「こんなかわいい子が男の子のはずがない!」と、脳内変換しつつ読むわけだ。

私は、この放送がきっかけで、そういう少女マンガを男子×男子でやるマンガが一気に増えたように思う。でもって、見方をかえれば、これが「やおい」からBLへの転換点になったのではないかと。

この「やおい」とBLの違いというのも、中島梓ははっきり別物として認識しているのだが、男子からはわかりにくいところがある。たぶんこれは、関係性の違いで説明できると思う。

関係性が流動的で、それを構築していくことを目標とするのが、やおい。で、
関係性が固定的で、すでに構築された関係でいろいろするのが、BL。

というのは、ストレートに少女マンガ的な関係性を当てはめてしまうと、役割が固定してしまうのだね。んで、そもそもは、「攻め」とか「受け」とか、○○×□□ってのは、サッカーのホームチーム×アウェーチームから持ってきた用語なのだから、本来は入れ替え可能だったはず。ところがそれを固定してしまうと、男子にとっても実にわかりやすくなるわけで、たぶんそういう読みをすれば男性編集者にも編集しやすくなるわけで、そういう傾向から、やおいのBL化そしてハーレクイン化を起こしたんじゃないかと。

後から見ると、そういう影響もあったんじゃないかと思うのですが、それはおいといても、「やおい」の同人活動をあそこまで肯定的に見た論者、というのは、あれが、最初で最後だったかも。とか思うのであります。

ついでに蛇足だけど、そのTVの最後で彼女は、宮台真司のことだと思うんだけど「社会学者のミヤシロシンジ・・・」つってたのね。あれが、ちょっと気になってて、ビデオがあったら見たいなと。でまあ、NHKアーカイブス(*3)しらべたら、この回だけなぜか無かったり・・・・

うーむ。

*1 本田和子,第11回"漫画少女たちの変貌 ―美少年誘拐事件―",『NHK人間大学 少女へのまなざし』,1993.9.16 PM11:00~11:30 放送分,NHK教育

*2 本田和子,『NHK人間大学 少女へのまなざし』,1993年7月~9月期,日本放送出版協会,平成5年7月1日発行(ググってはじめに出てくるネット本屋のは、私が買っちゃったので売り切れです)

*3 リンク切れてたので、新しいの張っとく。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • 凄くまとまっていて良いですね。とても参考になります。
    キャプ翼後期~J9シリーズ時代にコミケ参加していた物としては忘却の彼方なのですが
    やおいとは「やまなし、オチなし、意味なし」の事で
    男キャラの同性愛(BoysLove)とは限らないんじゃなかったかと記憶します。

    キャラと世界観を共有しながらも、アナザーストーリーなりパロディなりを
    それなりに作っていた(真面目とは限らないがちゃんとオチを作る)層とは別に、
    「好きなキャラに好きな事させる(眺める)だけでいいじゃん」という開き直りが
    ライトな感じでウケて(特に女性だけのサークルを中心に)広まったような印象がありました。

    女性作家の同性愛志向も、ハード方向から来た人と、ソフトで良い人がいて
    ソフトな人はショタ属性が強いのは、俺の知り合いの影響だけかもしれません。
    # J9系はハードな人が多かったですね
    新・鉄人28号の金田正太郎に起因するショタ(金田正太郎コンプレックス)こそ、
    意識的な「美少年キャラクターの誘拐」と言えるのかなーなどと思いました。
    BLというのは、このハード系とソフト(≒ショタ)系の狭間に生まれた文化という認識です。

    以上、曖昧な記憶と偏った接点からくる、ひとつの意見でしかないので、
    間違っていましたらすいませんです。

    • by SS1 (6823) on 2010年01月10日 21時09分 (#1700712) ホームページ 日記

      少女文化は,それぞれの個別の少女時代で完結してしまっているというか,「やおい」に正史的な共通理解を作りにくいというのはあります。だからいきおい,それを語ろうとすれば自分史にならざるをえない。というか。

      本田和子のいう拉致・・・ というか「本歌取り」的な少女文化という説を拡張すると,「やおい」についても,それぞれに,本歌があるように見える。個別の作品もそうですし,あるいは,ロリコンとショタコン,やおいとおたくのような用語関係についてもそう。

      ・・・んで,「やおい」の語源とされる「やまなし、オチなし、意味なし」にも,時代的背景を調べると,いわゆる24年組の『風木』や『ポーの一族』などの作品が登場するにあたって,先行していた第二次三流劇画ブームが「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれていたこともあるので,私には「やまなし、オチなし、意味なし」という呼び名は,「エロ・グロ・ナンセンス」の言い換え(もしくは本歌取り)のように思えるわけです。

      ただ,そういう感想を持っても,裏を取る手段がひとっつもないのだな。これが。

      --
      斜点是不是先進的先端的鉄道部長的…有信心
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    • by Anonymous Coward

      やめて
      おしりが
      いたい

      限らなくはないけど実質それしかなかったも同然、だったように記憶しています

  • by WindKnight (1253) on 2010年01月12日 22時43分 (#1701670) 日記
    キャラの拉致ってのは、二次創作ではよくある話で、"やおい"に限ったことじゃないです。
    故に"二次"創作かと。

    ただ、"やおい"、BL に関しては、元キャラは男であっても、そこに描かれているのは"男"ではないのは、その通り。
    これが男性による二次創作だと、男女はそのまま男女として描かれますね。
    その差が面白いところです。
    • 彼女の言う「キャラクターの拉致」ってのは、オリジナルの「世界」や、ストーリーから切り離してしまうことに注目しているわけです。その意味で、それまでのパロディやパスティーシュと呼ばれるような作品とは異なっていたわけです。

      んで。ここでは主に男子から女子への影響を取り上げましたが、当然、逆パターンもあるわけで。キャラクターについていえば、現代的なキャラクター論は、21世紀に入って東と伊藤の登場をまたなければならない。もちろん、それに先行する論評対象があったわけですが。私は、女子から輸入された文化だと思う。

      たとえば、宮台真司は東との対談で

      【宮台】さっき本質的だと言ったのは、動物化した存在が実に管理しやすいことを含めて、スノッブと動物の違いをどう評価するかという問題なんです。最初に少し話しましたが、作品批評をしていく上でも、すごく重要なことだと思うんです。たとえば東さんは雑誌『小説トリッパー』で、『千と千尋の神隠し』と『A・I』には動物しか出てこないとおしゃっていた。なぜなら彼らは選択をしていないからだと。おかしいじゃないか、人間がいないじゃないかと。僕も同意見なんですね。『千と千尋』の世界にも、『A・I』の世界にも、迷いもなければ、リグレットもない。 http://www.miyadai.com/texts/animalize/03.php [miyadai.com]

      といっています。ここで宮台は、『制服少女たちの選択』(1994年)の問題意識を、東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)へとつないでいるわけです。

      まあ、まともな根拠とか示すのが難しいけど。「萌え」ってのは、少女的なキャラクター論がないと成立しないわけですし。

      --
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