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言語は思考を決定するのか? 253

ストーリー by Oliver
脳内中間保存の形式 部門より

MIYU曰く、"Science Expressに「Numerical Cognition Without Words: Evidence from Amazonia」という論文が掲載されています。(サイエンス・ハイライト数のない生活論文[MS Word形式]論文のGoogleキャッシュNature Web News
論文の著者はコロンビア大学の研究者であるPeter Gordon氏で、ブラジル・アマゾンのピラハー族の数の概念に関して観察を行っています。数字をあらわす言葉として1と2しか持たない(それ以上はたくさんになる)この種族に対して数の違う電池、魚などが写っている画像を使う「マッチング課題」の試験を行ったところ、数が3以上になると物体が何であっても判定するのに苦労していたそうです。Gordon氏は、ピラハー族では数を表す言葉が無いために、数の認識に明白な影響が出ている、と結論づけています。
これは「数」に関する研究なので、他の言葉(概念)についても同様の事が有りうるのかどうかに関しては語っていないのですが、「言語が私たちが考える方法や、考える事が出来る範囲を決定することが出来るのか」、という「Sapir-Whorfの仮説(言語相対性仮説)」以来の議論に再び光を当てるものだという事です。"

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • 鶏と卵 (スコア:3, 興味深い)

    by boo (899) on 2004年08月20日 18時20分 (#608159) 日記
    むしろ数の操作を必要としない生活を続けているからこそ、「2」より大きい数を表す言葉が無いんじゃないでしょうかね。

    小学生のときに聞いた話に、どこかの国の昔の王様は12までしか数えることが出来なかったんだけど、
    この王様は1対1の対応を知っていたので多数の兵隊の出欠を取ることが出来た…てのがあった。

    この人たちに言葉を教えないまま、多数の物を扱う作業を継続的にさせたときに、
    やっぱり間違う率が高いままなのか、言葉を知らないまま数を扱う方法を習得するのか興味ありますね。

    ぼくらだって実は4Gバイトってどれくらい大きいか、分かってないんじゃないかな…
    --
    あぁ、「ン」が消えてるんですよ。「ビーフン・カレー」ね。
  • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 17時51分 (#608130)
    成功!
  • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 18時01分 (#608136)
    問題によって最適な言語を選ぶのが真のプログラマなのです。
  • by LightSpeed-J (4514) on 2004年08月20日 18時11分 (#608151) ホームページ
    認識が出来ないのでしょうね。

    5本のソーセージの皿と10本のソーセージの皿、
    どっちが欲しいと聞かれたら、
    なんとなく、10本の皿の方が欲しくなっちゃっても、
    それがなぜかを表現しきれないのかな。

    微妙~に色合いの違う2台の車があって、
    どっちか好きな方をあげます、っていわれたら、
    きちんとした理由に基づいて選ぶことが出来ないのと、
    根本的には同じことかも、って思うよ。
    --
    -- LightSpeed-J
    • by MIYU (17727) on 2004年08月20日 21時59分 (#608300)
      News@Nature.comが、すかさず「数をイメージする固有で非言語的な能力」が有る派と無い派双方のインタビュー [mypress.jp]を行っています。 非常に興味深いのですが、「双方ともこの結果を歓迎」しています。

      有る派:ラトガーズ大学の心理学者であるCharles・Gallistel氏
      彼等は一つのアイテムの量が正確に別のものと等しいという事が、単に認識出来ないだけかもしれないので、「パターンマッチング」課題への対応に問題が有るのだ、と主張しています。
      無い派:ハーバード大学の心理学者であるSusan・Careyhさん
      子供達(この場合ピラハー族が該当)と少数の動物達は2つタイプの基本的な「集計能力」(3つ位までの物体を記憶領域にイメージとして記録できる。多数に関する評価を作ることができる。)を生まれつき持っているが、それは制限されたものだ、と主張しています。

      人間にもメモリ・ボトルネック? [mypress.jp]で実験されていましたが、有色のドットを一瞥で記憶し、一秒後に示された物が同じかどうかの試験を行ったところ、4ドットが限界だったそうです。実験の状況は異なりますが、数を「数詞」に置き換えられない場合の記憶は、このドットと同じ状況(イメージとしての一時記憶)になるのだろうか?と今回の記事を読みながら考えていました。

         # 多言語を話す人達はどの言語で思考するのでしょうね
      親コメント
    • by kyle (3923) on 2004年08月20日 18時17分 (#608154) 日記
      > 微妙~に色合いの違う2台の車があって、

      虹の色はなん色? [fc2web.com]みたいな。
      親コメント
    • by chute (19365) on 2004年08月20日 18時43分 (#608191)
      私は,数えることをしないで,ソーセージ9本と10本を判別せよと言われたら,間違える自信あります.
      5と6くらいでも,整然と並んでいるのでなければ,ぱっと見では間違えることもあるだろうなぁ.
      逆に,数えて良ければ(数え間違えなければ)9と10でも999と1000でも,数へのマッピングという同じ方法で用いているように思える.

      我々が数を認識できていると考えること自体がおこがましいかもしれない.
      数にマッピングしないで把握できる数って意外と小さいのじゃないかな.
      親コメント
      • by chute (19365) on 2004年08月20日 19時00分 (#608203)
        う,変な文章書いた.

        >数にマッピングしないで把握できる数って意外と小さいのじゃないかな.

        頭の「数」は,1,2,3…と整数論でモデル化された数の概念.
        後の「数」は,物体の数としての実概念.
        うまく説明できん.

        ついでに,5~10くらいだと1つずつ数えなくても何とかなるけど,これも,上記マッピングが訓練されているに過ぎない気がする.
        素早く数字にマッピングした後で,「こっちが5個で,こっちが6個だから…」ってモデル化して考えてるような.
        親コメント
        • by mito-natto (12988) on 2004年08月20日 21時24分 (#608282)
          幼稚園のころ,ドーマン法の訓練で,多数の点が描かれた画用紙を一瞬見せ,何個か当てさせるというのをやった記憶(ぼんやりと)があります.

          母によると,僕はすでに「数」という概念を習得していたため,「1,2,・・・」と数えてしまい,訓練としては失敗だったとか.三つ位下の弟は,「数」という概念が無かったため,わりと訓練に成功したようです.

          これなんかは,まさに「数にマッピングしないで把握できる数」を大きくする訓練ですよね.とはいっても,なんのための訓練だったのかさっぱりわかりませんが.便利だとは思うんだけど.

          #そもそも,ドーマン法も,なんなのか知らないし・・・
          親コメント
  • 英語には日本語の「肩こり」に相当する語がないため、日本人ほど強く肩こりに悩まされることはないとか何とか。で、そういった人たちでも日本語の肩こりの概念を教えると、途端に日本人と同様に肩こりに関する悩みが現れる、という、本当なんだか与太なんだかよく分からない話がありますね。

    病は気からの体現例?
    • このお話は医療人類学系に研究があります。小林昌廣「肩凝り考」を参照のこと

      こっからは言語学とも関係してきますが、
      ようはある状態を表す単語が存在する/しないによって認識が変わるという例です。
      背中から首筋にかけての筋肉がこわばった状態を

      日本人→肩が凝る。(肩という一部分がメインとなる)
      英語→I have a pain on the back.(肩を含めた全体が意識される)

      と表現するので意識の重点が違うという論です。
      よって、肩凝りの概念を英語話者に教えると、
      日本人的感覚を持って筋肉の硬直状態を認識するようになるということです。

      親コメント
    • by Ryo.F (3896) on 2004年08月20日 18時42分 (#608190) 日記
      私は同じようなことを「胃もたれ」で経験しました。その昔、私はまったく「胃もたれしない人」でした。なぜなら、「胃もたれ」というのがどういうことか知らなかったから。でも、胃もたれしやすい女性と付き合ったときに、彼女が言う「胃もたれ」の意味が解ってきて、今ではすっかり「胃もたれする人」です。
      ただ、思い返してみると、「胃もたれしない人」だった頃も実は胃もたれしてて、ただそれを特別不快だと思ってなかったみたいです。
      親コメント
    • 英語には日本語の「肩こり」に相当する語がない

      Stiff shoulders

      という表現があります。
      --
      # For man might be free./人は自由になれるかもしれないから。
      親コメント
  • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 18時52分 (#608198)
    物を考えるときに頭の中で言語を使って考える。もし言語を習得していない人がいたらほとんど物を考えることができない。言語もそれぞれ性格があり、日本語は細かいニュアンスを伝えるのが得意、英語は論理的な表現が得意といったように言語によって考え方がちがうのかもしれません
    • > もし言語を習得していない人がいたらほとんど物を考えることができない。

      思考は音声言語だけではないので、思考できないことはないと思います。
      数学に長けている人が物事を考える時、日本語や英語で考えているとは思えません。
      または、プログラムに長けている人がプログラムの論理構造を考える時、日本語や英語で考えているとは思えません。
      実際、私は非音声言語で考えることが多いですし。

      他にも、そろばんに長けている人が計算をする時、日本語で計算はしないでしょ?
      親コメント
      • そういえば、むかしこんなテストがあったな。

        ある人に口頭で道順を教えて、その道順をメモしてもらう。
        で、そのメモが聞いたものをそのまま言葉で書いたものなら文系、聞いたものを図化してメモる人は理系って。

        #ソースないけどID
        親コメント
      • > 思考は音声言語だけではないので、思考できないことはないと思います。

        そのときはつまり、別の言語で思考しているのでは?例えば、

        > 数学に長けている人が物事を考える時、日本語や英語で考えているとは思えません。

        この場合は「数学言語」で思考してるとか。数式や図形を含む何かでしょうか。

        > 他にも、そろばんに長けている人が計算をする時、日本語で計算はしないでしょ?

        この場合は「そろばん言語」でしょうね。頭の中にそろばんを創造しながら計算するわけでしょ?そろばん言語には決まり、すなわち文法があって、天珠が5、地珠が1を表すとか、位取りとか、足し算の際の珠の動きだとか。少なくとも、トニー谷のそろばんの使い方はそろばん言語には入っていない(笑)。

        逆に言うと、思考の過程を記述できるものを「言語」と呼ぶ、と。
        親コメント
  • 言語は思考に従属する (スコア:2, すばらしい洞察)

    by NOBAX (21937) on 2004年08月20日 21時08分 (#608278)
    >「言語が私たちが考える方法や、考える事が出来る範囲を
    >決定することが出来るのか」
    は間違いで
    「私たちが考える方法や、考える事が出来る範囲で言語が
    決定される」
    のである。
  • デカルトが簡単な代数的記号法を考案してから、
    大きく数学が発展したというのは聞いたことがありますね。

    当時も未知数を求める代数学(コシスト代数学)はあったのだけど、
    それらは数値の「3乗まで」しか表す言葉が無かったのだとか。
    日本語で言えば、1次元の「長さ」、2次元の「面積」、
    3次元の「体積」までしか計算しなかったから、
    表す言葉もこれだけで、とりあえずは良かったんですね。

    ところが、未知数の肩に乗数となる数字を載せていく、
    現在のような表記方法を手に入れると、
    4乗だろうが5乗だろうが、それが何を表すかを厳密に考えずとも
    気軽に表現できるようになってしまう。

    こうして、新しい概念とそれを表す表記方法が作られたので、
    n次元の代数方程式だって扱えるようになって世界が広がったわけです。

    現在、信号処理の理論にこの概念は必須ですよね。
  • by espresso3389 (20549) on 2004年08月21日 5時58分 (#608497)
    汚い字ときれいな字の違いがわからないという話は聞いたことがあります。脳みそが、きれいな字というものがわからないらしいです。

    って、隣の字の汚い同僚に言ったら、どうでも良いじゃんっていわれました。本当にどうでも良いのか、どうでも良くないけど、脳が勝手にどうでも良いと認識してしまうのか・・・。
  • 以下は、ぐぐってきて適当に纏めた物です。適当なので、突っ込みも、お願いします。

    ピラハーとは?
    アマゾンに住む人口360人程(2000年)の小さな部族。彼らが話す言葉は、ムラ・ピラハー語とも呼ばれ、ムラ語系に属している。彼らは彼ら自身の言葉の事を、Apaitsiiso、「頭の中から出てくる物」と呼んでいる。最近ではポルトガル語を話す人も多いものの、全員が喋れる訳では無い。殆どの男性はポルトガルをしゃべる事が出来るものの、女性には喋れない人が多い様だ。(ピラハー・Instituto Socioambiental [socioambiental.org])

    その他、彼らの世界観「コスモス」と名付けの重要な関係、雨季と乾季の社会生活の違いから来る、彼らの時間・空間の感覚への影響等など、奥深いです。。。

    その他の関連リンク:
    ピラハー語の辞書(簡易版) [starmedia.com]

    「観念と概念」 [shinko-keirin.co.jp]
  • 「萌え」という言葉を知らない人は萌えを感じるんだろうか。
    • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 18時07分 (#608147)
      言語化できぬ苦しみに、畳の上で悶え転がるのみです。
      親コメント
    • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 18時52分 (#608199)
      ネタにマジレスになるけど、あるみたいだね、そういうことは。
      北杜夫が言うことにゃ
      「日本ではノイローゼという言葉が流行ったとたん、ノイローゼ患者が増えた」
      そうで。
      この言葉自体マア一種の諧謔でしょうが、事実は事実らしく、
      もやもやした感覚を言語化すると実体化しちゃうといういい例。
      「トラウマ」「癒し」「ノイローゼ」なんて言葉がなけりゃ、
      変な自己暗示にかかって欝になっちゃうか弱い人も、日本ではこんなに増えなかったかも?

      どうでもいいが、調べて明らかになったこと以外は変に拡大解釈して語らないのが学者の良心。
      「xxに関しては語っていないのですが、」とかケチつけるかね? >タレコミ文
      親コメント
      • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 20時00分 (#608249)
        >ネタにマジレスになるけど、あるみたいだね、そういうことは。
        北杜夫が言うことにゃ
        >「日本ではノイローゼという言葉が流行ったとたん、ノイローゼ患者が増えた」
        >そうで。

        それはまた別の話。
        その話において増えたのは、「ノイローゼの症状を示す人」ではなくて「ノイローゼ患者として医者にかかる人」に過ぎない。
        要は、ノイローゼと言う言葉を知るまでは、それが医者にかかることによって治る可能性のある「病気である」と気づく人が少なかっただけの話です。
        PTSDとかADHDとかも同じですね。
        親コメント
  • by hogefuga (8210) on 2004年08月20日 18時24分 (#608162)
    いつも不思議に思っているのですが,動物の言語(コミュニケーション)に関してはどういった研究がなされているんでしょうか?
    例えば
     ・アメリカで育った猫は日本で育った猫と会話できるのか
     ・あるいは猫はコミュニケーションとして人間ほど言語を用いず,
      代わりに匂い(マーキング)を用いるので,そちらに地域差があらわれるのではないか
    などなど知りたいことは山ほどあるんですが,
    そういった事を真面目に研究していらっしゃる方は存在するのでしょうか?
    ぜひ弟子入りさせていただきたいものです.

    P.S.ミャウリンガル買ったけど,認識させようとして近づけると匂いをスンスン嗅ぐだけで鳴いてくれません・・・
  • 英語圏の人は数学的な(論理的な?)思考が得意だとか、そう言う話を
    聞いた事がある様な気がするのですが、コレもそう言う事なんでしょうか。
  • by watanabe_aki (10227) on 2004年08月20日 18時49分 (#608195)
    例えば「魚が三匹ある」という考え方と「大中小の魚が一匹づつ」っていう考え方の違い、かな?自然界ではまったく同じ物が存在しないから、数学的に物を考える必要もないのかも?彼等は一つ一つの特徴を捉えて個々に記憶するんだと思う。ピラハー人だって四人家族がある日突然三人家族になっても気がつかない、ってことはないだろう。

    このテストで使った魚の絵っていうのは多分みんな同じ絵だったから、ピラハー人の方には難しかったんだろうねぇ。逆に視覚的認識力は都市の人間よりも高いだろうから、「ウォーリーを探せ」をやらせたらすごく早いかもしれない(笑)。

    • by Ryo.F (3896) on 2004年08月20日 18時55分 (#608201) 日記
      > 自然界ではまったく同じ物が存在しないから、数学的に物を考える必要もないのかも?
      > 彼等は一つ一つの特徴を捉えて個々に記憶するんだと思う。

      それはないよ。だって、「2」っていう概念はあるんだから。つまり、彼らは抽象化を知ってるんだよ。
      抽象化しなければ、すべて個々に捕らえるしかないのは正しいけどね。
      親コメント
      • by boo (899) on 2004年08月20日 19時26分 (#608227) 日記
        そうでもなさそうです。

        論文を読むと、ピラハー族の言葉には
        "1"を表す「ホイ(尻下がり)」、
        "2"を表す「ホイ(尻上がり)」、
        "たくさん"を表す「バアギ」「アイバイ」があるそうですが、
        「ホイ(尻下がり)」は強いて言えば「大体1」を表す言葉で、必ずしも1を表すわけではなく、
        ("1"を表したときと同じ文脈でも) 2~3個の数量を表すこともあるのだそうです。

        # 「ホイ(尻上がり)」は必ず「ホイ(尻下がり)」よりも大きい数を表すようです。

        ひょっとすると彼らが知っている数は「とても少ない」、「少ない」、「たくさん」なのかもしれません。
        --
        あぁ、「ン」が消えてるんですよ。「ビーフン・カレー」ね。
        親コメント
    • >例えば「魚が三匹ある」という考え方と「大中小の魚が一匹づつ」っていう考え方の違い、かな?自然界ではまったく同じ物が存在しないから、数学的に物を考える必要もないのかも?

      論文を検証したわけではないのであくまで私見ですが、自然と一体化したようないわゆる決まったサイズや重さの無い生活の上では「数」でなく「量」が重要なために数の概念が成り立ちにくいのではないでしょうか。小学生が算数を習うときによくつまづくものでは、物の数そのものはとりあえず理解できるもののサイズや性質の違うものを並べて計算させると混乱するようです。つまり「数」として同質のものとみなせず、「量」などの判断が加わるために混乱が起きると。お金の計算でもよく出てきますよね。100円玉1枚で60円の買い物をしたら40円おつりをもらった。買い物をしてお金が増えるなんて不思議だけど得したと☆

      #そう考えると数学の基本も実はオブジェクト指向になるのかな(笑)
      親コメント
  • 技術に疎い人間は、1KB = 1024B を理解できない。

    --
    むらちより/あい/をこめて。
  • by Anonymous Coward on 2004年08月20日 19時25分 (#608225)
    現代のような形で定着する以前は、
    「僕は彼女のことを愛しているんだろうか」
    なんて悩むやつもいなかったに違いない??まあ別にそれが楽園だったわけでもないのだろうが。

    100年後の人々は、今の我々が持たない、どんな新しい言葉に縛られているのだろうか。
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ研究家

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