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後者(百科事典だから内容はこうあるべき)という考え方の人が、「Wikipediaに書いたんだから他人に編集されても文句言うな」を錦の御旗にして気に入らない記事を消しまくる、という行為が横行しているのを何度か見かけて、それ以来あまり編集しようという気が起きなくなりました。
こういう記述は不要、というガイドラインがあるカテゴリーにおいても、それ以上の大幅な削除を一方的に行い、「気に食わなければまた書けよ、編集合戦にして管理者に裁定してもらおう」とか開き直ったりされると、流石に「もういいや、編集やめよう」ってなりますし。
Wikipediaの方針に「他人に敬意を払う」みたいなのがあったと思うのですが、これが一部のユーザーに守られてない上に、そういったユーザーの存在があまり問題とされていないのも人離れの原因の一端かなと。
あと、たとえガイドラインは守っていても、強圧的すぎるんじゃ?というユーザーが散見されます。「自分はガイドラインに従っているから」という大義名分で、「百科事典には不要」とか、その程度の否定的なコメントで、他人が書いた記述をごっそり削るとか。「ガイドラインを理解しないお前は悪、自分は正義」という態度を取られて、「よし次から気をつけよう」と思える積極的な人よりも、「もういいや」となる人が多いんじゃないかな、とか。この辺、海外のWikipediaと比べて日本人の気質によるものも大きいかもしれません。
記事の質とかにカリカリする人はいてもコミュニティとしての編集しやすさや空気をどうこうしよう、って動きが足りないと思う。新人のミスには優しく指導し、ベテランの自己中や勘違いには厳しく対処していかないと、どんどん閉鎖的なコミュニティになって縮小していくのは当然。
私もそれなりに記事を書いているものですが。
一応改善しようという動きはあるんですけどね。例えば、以前はちょっとでも駄記事と思われるとどんどん即時削除 [wikipedia.org]されていたんですが、基準を厳しくしてかなり残すようにし、むしろ記事の発展の努力が推奨されるようになりました。また、ルール上問題になるようなことをした人の会話ページに貼り付けられるテンプレートも、文面をもっと柔らかいものにしようと改善が検討されています。
ただ、やっぱりあまりに何度注意を受けても同じことを繰り返す人(出典がないどころか完全な主観的な評価を書く人とか)が多すぎて、常駐している人がうんざりしていて、ぞんざいな対応になってしまっているところは否めないかもしれませんね。
こうやって荒れがちなのは、Wikipediaで求められている執筆の基準が世の中の基準とずれていて、分かりづらいところに原因があるのかもしれません。一般には、掲示板であろうが直接の会話であろうが情報は正しければよいもので、結果として正しければソースが無くても気にしないものだと思います。そういう「常識」の人が、よしWikipediaとやらにちょっと協力してやろう、と大きな記事を書いても、たいていは出典が欠けているわけです。で、常連さんが「ちょっとちょっと、出典を明記しておいてくださいね」と言ってくると、「何だ俺の書くことが間違っているというのか、お前の知識不足だ」という対応になる人は少なくないという印象があります。実際書いてあることは正しいのだろうけど、出典を付加してくれよって思う記事は多々あるのですが、大抵の人は「正しければいいのだろう」で終わってしまって、なぜ出典が求められるのかを理解していないし、理解しようともしていないと。
私が書き始めた頃も、やっぱりこのあたりははっきりとはわかってなかったのですが、段々書いているうちに、人に注意される前に他人が書いている記事を見ながら「なるほど、参考文献欄を書くのが推奨されているのか」「refタグを使ってピンポイントで出典を示すわけね、なるほど」みたいにどんどん発展していって、やがて推奨されるスタイルに収斂してきています。結果として、初期に自分で書いた記事は今では決して書くことはないだろう出典欠如な状態なんですが、一応内容は正しいと思っているので消すのは忍びなく、文献を見つけ次第補記していく感じです。
Wikipedia執筆に求められているのは、知識よりも他人とうまく協調して作業をする能力、他人のよいところをどんどん吸収できる能力だと思う次第です。
Wikipedia執筆に求められているのは、知識よりも他人とうまく協調して作業をする能力、 他人のよいところをどんどん吸収できる能力だと思う次第です。
それって、普通に社会で求められる資質なわけで、 Wikipedia執筆陣にはそれが欠けている輩も多いということでFA?
見知らぬ知識に触れたら「証拠を出せ。出せないなら消す」ではなくて、まずは自分で調べてみてはどうか。見つかれば自分で加筆すればいいし、見つからなければ問いただしてみればいい。日本語版は「悪い物は直す」ではなくて「悪い物は消す」という方向で動きすぎ。
あ、そういう意味で「他人とうまく協調して作業をする能力、他人のよいところをどんどん吸収できる能力」が欠けているということか。
しかし現実は「記事は少ないし不正確」という最悪の状態。すぐ近くに要出典ツリーがあるけど、数が伸び悩んでから要出典率が改善されたのかというとぜんぜんそんなことはない。
規模は小さいけれどもアンサイクロペディアが前者に近いような気がするウィキペディアに書くと消されるような「根拠はないが正しそう」な記事を素直に書いている様に思う
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どうあるべきかの相違 (スコア:2, 参考になる)
前者にとっては、不正確でも記事の多いことの方が善だし、後者にとっては記事が少なくても正確なことの方が善だ
で、後者がドミナントなコミュニティになったってことで、前者はどっか別の場所を見つけるんじゃね?
Re:どうあるべきかの相違 (スコア:5, すばらしい洞察)
後者(百科事典だから内容はこうあるべき)という考え方の人が、「Wikipediaに書いたんだから他人に編集されても文句言うな」を錦の御旗にして気に入らない記事を消しまくる、という行為が横行しているのを何度か見かけて、それ以来あまり編集しようという気が起きなくなりました。
こういう記述は不要、というガイドラインがあるカテゴリーにおいても、それ以上の大幅な削除を一方的に行い、「気に食わなければまた書けよ、編集合戦にして管理者に裁定してもらおう」とか開き直ったりされると、流石に「もういいや、編集やめよう」ってなりますし。
Wikipediaの方針に「他人に敬意を払う」みたいなのがあったと思うのですが、これが一部のユーザーに守られてない上に、そういったユーザーの存在があまり問題とされていないのも人離れの原因の一端かなと。
あと、たとえガイドラインは守っていても、強圧的すぎるんじゃ?というユーザーが散見されます。「自分はガイドラインに従っているから」という大義名分で、「百科事典には不要」とか、その程度の否定的なコメントで、他人が書いた記述をごっそり削るとか。「ガイドラインを理解しないお前は悪、自分は正義」という態度を取られて、「よし次から気をつけよう」と思える積極的な人よりも、「もういいや」となる人が多いんじゃないかな、とか。この辺、海外のWikipediaと比べて日本人の気質によるものも大きいかもしれません。
Re:どうあるべきかの相違 (スコア:3, すばらしい洞察)
私もそれなりに記事を書いているものですが。
一応改善しようという動きはあるんですけどね。
例えば、以前はちょっとでも駄記事と思われるとどんどん即時削除 [wikipedia.org]されていたんですが、
基準を厳しくしてかなり残すようにし、むしろ記事の発展の努力が推奨されるようになりました。
また、ルール上問題になるようなことをした人の会話ページに貼り付けられるテンプレートも、
文面をもっと柔らかいものにしようと改善が検討されています。
ただ、やっぱりあまりに何度注意を受けても同じことを繰り返す人(出典がないどころか完全な主観的な評価を書く人とか)が多すぎて、
常駐している人がうんざりしていて、ぞんざいな対応になってしまっているところは否めないかもしれませんね。
こうやって荒れがちなのは、Wikipediaで求められている執筆の基準が世の中の基準とずれていて、分かりづらいところに原因があるのかもしれません。
一般には、掲示板であろうが直接の会話であろうが情報は正しければよいもので、結果として正しければソースが無くても気にしないものだと思います。
そういう「常識」の人が、よしWikipediaとやらにちょっと協力してやろう、と大きな記事を書いても、たいていは出典が欠けているわけです。
で、常連さんが「ちょっとちょっと、出典を明記しておいてくださいね」と言ってくると、
「何だ俺の書くことが間違っているというのか、お前の知識不足だ」という対応になる人は少なくないという印象があります。
実際書いてあることは正しいのだろうけど、出典を付加してくれよって思う記事は多々あるのですが、
大抵の人は「正しければいいのだろう」で終わってしまって、なぜ出典が求められるのかを理解していないし、理解しようともしていないと。
私が書き始めた頃も、やっぱりこのあたりははっきりとはわかってなかったのですが、
段々書いているうちに、人に注意される前に他人が書いている記事を見ながら
「なるほど、参考文献欄を書くのが推奨されているのか」「refタグを使ってピンポイントで出典を示すわけね、なるほど」
みたいにどんどん発展していって、やがて推奨されるスタイルに収斂してきています。
結果として、初期に自分で書いた記事は今では決して書くことはないだろう出典欠如な状態なんですが、
一応内容は正しいと思っているので消すのは忍びなく、文献を見つけ次第補記していく感じです。
Wikipedia執筆に求められているのは、知識よりも他人とうまく協調して作業をする能力、
他人のよいところをどんどん吸収できる能力だと思う次第です。
Re: (スコア:0)
それって、普通に社会で求められる資質なわけで、
Wikipedia執筆陣にはそれが欠けている輩も多いということでFA?
Re:どうあるべきかの相違 (スコア:3, すばらしい洞察)
見知らぬ知識に触れたら「証拠を出せ。出せないなら消す」ではなくて、まずは自分で調べてみてはどうか。
見つかれば自分で加筆すればいいし、見つからなければ問いただしてみればいい。
日本語版は「悪い物は直す」ではなくて「悪い物は消す」という方向で動きすぎ。
あ、そういう意味で「他人とうまく協調して作業をする能力、
他人のよいところをどんどん吸収できる能力」が欠けているということか。
Re:どうあるべきかの相違 (スコア:1, 興味深い)
しかし現実は「記事は少ないし不正確」という最悪の状態。
すぐ近くに要出典ツリーがあるけど、数が伸び悩んでから要出典率が改善されたのかというとぜんぜんそんなことはない。
Re:どうあるべきかの相違 (スコア:1)
規模は小さいけれどもアンサイクロペディアが前者に近いような気がする
ウィキペディアに書くと消されるような「根拠はないが正しそう」な記事を素直に書いている様に思う