nameforslashdot (12869) の日記

2003 年 09 月 13 日
午前 12:00

超心理学/科学哲学/トンデモ/これで卒論なんだからすごい

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/ ◆論文題名と作成者
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 ■論文題名:

 【超心理学/超能力を一言のもとに「科学とはあいいれない」「近代科学の
パラダイムから外れている」と切って捨てることが果たして本当に「科学的な態度」
であろうかという、考えてみれば単純素朴・原始的な疑問にもとづく「超心理学」に
関する一論文】

 ■作成者:松田新平 学生番号16286136

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/ ◆まえがき
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 ■論文の目的

 ○論文の第一次目的:

    超心理学(Parapsychology)は、科学者社会、特に日本のそれではほとんどまともに
相手をされていない。おおくの科学者は「超心理学はエセ科学・インチキだ。ユリ・
ゲラーを見ろ」「超能力現象はすべて錯誤ないしデータの捏造だ」と信じている。
また、一般人に「超能力」「超心理学」をどう思うかと尋ねてみると、「ああ例の
ユリ・ゲラーとかMr.マリックのインチキなやつね」などという否定的な答えが
帰って来ると思われる。たしかにユリ・ゲラーの経歴はいささかならず、うさん
くさい。プンプン臭う。

 彼は「1946年生まれのイスラエル人である。18歳でイスラエル陸軍に入隊し、
六日戦争で軽傷を受けて除隊したあと、しばらくファッションモデルをやったり、
キャンプ・カウンセラーをやったりしていた。このキャンプで彼はある少年と出会って
奇術の共同研究をはじめる。二人はチームを組み、超能力を主体としたショウを
はじめる。最初は友人たちのパーティやキブツでの余興から、やがてナイトクラブでの
ショウへと職場をひろげていく。二人のやりかたはごく幼稚で、劇場の支配人にも
みやぶられてしまうほどだった」

 「ふたりは奇術のトリックを使っているだけなのに、ESPとかサイコキネシスとか
パラサイコロジーといった言葉を使って人びとをだました、ということで裁判にかけ
られ、以後これらの言葉を宣伝につかうことを禁じられた」(松田道弘「超能力の
トリック」講談社 pp35-41の要約)

 ユリ・ゲラー氏は、もともとは奇術師(それもかなりオソマツな部類の)なのである。

 Mr.マリックも同様(オソマツではなくてもともと奇術師だと言う意味)である。
「株式会社テンヨー」という奇術用具の製造販売会社があるが(日本の本格的奇術用品
は、この会社と「トリックス販売株式会社」の二社でほぼ独占されている)、マリック
氏の名はテンヨーの発行した「1988年度版手品カタログ」に発見できる。

 ”1987年7月19日、日本橋三越の三越劇場にて開催された[第29回テンヨー
手品フェスティバル]にてMr.マリックは長年に渡ってつちかってきたエンター
テイナーとしての素養を遺憾なく”発揮したという。このカタログは、彼が超魔術を
売物にして華々しく登場する以前に発行されたものであるから中立性/信憑性が高い。

 PK能力(いわゆる念動力。サイコロの出目を意志の力で左右する、スプーンを手を
触れずに曲げる、などと称する能力)は、ショウ的要素が強いためにしばしばテレビ
番組、雑誌などで見かける。今はまたブームになっているようだ(UFOも同じく。
ただし騒いでいるのは矢追純一ほぼ一人である。氏は、SF作家でありポルノ小説家
でもあった)。

 松田道弘氏は「超能力のトリック」のまえがきで「この本の目的は、超能力が
あるか、ないかを論じることではありません。ちょっとみたところで人間わざでは
不可能だと思われるような超常現象が、ごく単純で人工的な欺瞞手段(トリック)で
簡単に演出できるものであることを、いくつかの実例で紹介してみたいと考えた
だけです」という。

 この態度はじつに厳正かつ公平なものである。彼は科学者ではない。科学者であった
こともない。筑摩書房「奇術のたのしみ」という著書が有名な、マジック/ミステリ
/パズル/ゲームの研究家である。彼は手品研究のプロなのだ。

 彼が「超能力のトリック」で述べたのは「降霊術/超能力/ポルターガイスト」など
のいわゆる超常現象を、トリックで装った実例である。

 蓋をした懐中時計の中の時刻を透視する
 目かくしをして指先の感触で色をみわける
 封筒の封を切らずになかの手紙の文字をよみとる
 ひとりが手に持った品物を、目かくしをして遠く離れた位置にいるもうひとりが
いいあてる
 部屋の外でえらばれた数字をあてる
 ふたりが一組ずつトランプをもち、それぞれ一枚のカードを覚える。ふたりのカード
が一致する
 数日後のスポーツ新聞の見出しを予告する
 うしろ向きのまま黒板に書かれた数字をよみとる
 釘・スプーンを念力で曲げる
 サイコロを振って出る目を、百発百中で予言する

 などの現象がトリックを使って説明できる、またかつてそのような手法で科学者が
だまされたことがある、という。

 論文作成者(以下松田)は、前述のとうり手品にも興味があった。小学生4,5年の
ときからいろいろ買いあつめ、いまでも少しは披露できるものがある。また知識も
いささかあるのだが、これら上記事例は実にまったく、手品と詐欺のトリックであると
判断する。
 少し書き変えればこの本は「手品のトリック」という題名で発表してなんらおかしく
ない。まあこれもあたりまえで、ふつう「トリックを使った超能力現象」も「手品」の
範疇に含まれる。前述のカタログを見ると上記の例に類似したを実現できる手品が
高くて数万、平均で数千円で入手できることがわかる。

(同カタログ8ページに掲載の「オカルトボード」、これは面白い。「”まず好きな
果物を心に思ってください。テレパシーで私に伝わってきます”といって手品師が
小さな黒板の左上ワクになにやら書いてフタをする。次に、その下の左下ワクに客が
思ったくだものを書く。つぎは好きな数字をテレパシーで送らせ、手品師が真中上ワク
に書きフタをし、また客がその下に好きな数字を書く。最後もなにやら手品師が書き
込んでフタをした右上ワクの下に、自由に選んだトランプの結果を書く。いま、上ワク
は全てフタで被われ下ワクには客の書き込みがある。さて、フタをとってみると全て
一致している」というもの。これがわずか900円である)

 だが、である。現象A(超能力現象)を方法A(トリック)で実現できたから、方法
B(超能力)で実現できない、という論理はまったく成り立たない。残念ながら、
というか、松田道弘氏はもともとそう言っているのだが、「トリックで超能力現象が
実現できることによって(このこと自体はまさにそのとうり)、すべての超能力を自動
的に否定することはできない」という結論しか導き出すことはできない。過去には
たくさんのニセ超能力者が存在した。「超能力のトリック」をみればわかる。それは
超心理学者たちもみとめている。だが、「過去にこういう欺瞞が行われた研究分野
だから現在もこれからも信用できない」というのは科学の態度ではない。

 松田は、この論文で「超能力は存在する/超心理学は立派な科学である」という論証
を始めるつもりは【まったく】ない。松田にできるくらいならばすでに100年の歴史
がある超心理学の学者がとっくにやっており、超心理学はもっと受容されている。

 そのかわりに、松田が超心理学を擁護/超能力の存在を証言する事実と判断したもの
を掲載する。その評価はおまかせする。

 ここでよくよく注意してもらいたいのは、「超能力は存在する/超心理学は立派な
科学である」という論証をおこなうことと、「超心理学を擁護/超能力の存在を証言
する事実と判断したものを掲載する」の二つは、似てはいるがおおきく異なる部分が
あるということである。

 前者が「超能力の存在を確信しなければ行いえない論議」であるのにたいし、後者は
「そのような立場をとらずとも可能」だからである。現に中立的・傍観者的な立場の
学者(社会学者/科学哲学者)がさまざまな研究を行っている。

 じつは松田は「超能力が存在するか否か」という疑問を、どちらとも判断しかねて
いる。「超心理学」という学問(学問である、と超心理学者たちはいう)が、クーンの
言う「パラダイム」に今だ足りない地位にあるのは確かでなのだが。

 だがしかし、なぜパラダイム未満なのだろうか?
 未だ科学者社会で広く認証されていないのはなぜか?

 その理由は、

 【超心理学実験の結果は嘘/錯覚だから】(通常の科学者の主張)か、それとも
 【地動説や進化論やそのほかあまたある、出生時にはほとんど注目されることの
なかった不幸な生い立ちの学説のように、いまの科学者社会がわに受け入れる余地/
用意がないから】(超心理学者の主張)だからか。

 論理的的には、超心理学/超能力の現状の説明としてはこの二つ以外にありえない。
だが残念ながら、「近代西洋科学」の次代のパラダイムとなりえるか、それとも科学史
上にいくらでもあった「エセ科学」に過ぎないのか、松田には判断できない。いや、
現時点では誰にも断定できないだろうというのが松田の考えである。というか、断言
しても無意味である。仮に存在する/しないを言ったとしても、それぞれ反対の立場に
ある学者から反論されるのは目に見えているから。それが現状である。

 この論文で松田が取る「超心理学に関する事実だけを述べ、その判断は評者に
任せる」というスタンスは、「超心理学/超能力に反対、または中立的態度をとる
ひと」に対しても受容される確率が比較的たかいと思われる。

 具体的には、林先生の「超心理学/超能力への態度」がこの論文の読前(←こういう
言葉はあるのだろうか?知らないが、なかったら造語。読む前、の意味)と読後でどの
ように変化するのか、を念頭に置いている。松田は今の林先生の立場/超心理学への
態度を「すべて嘘/錯誤だと信じる」と仮定するが、それが松田と同じ「現段階では
判断できない。よりいっそうの研究を、とくに超心理学者以外に求める」という態度に
変化することを期待して論文を構成している。用いる武器は「収集したささやかな
情報」である。取る戦術はこれを列挙し、それに関して論述することである。はなはだ
無骨で幼稚な論述方法である。

 もし先生がすでに松田と同じ態度をとっておられるとしたらムダではあるが、しかし
松田はそちらには賭けない(じつはその可能性は意外とあるのでないか、と考える
が......。いつか、合宿でピラミッド内部に入っていく過程を想像させるテープを、
部屋を暗くして聞かせてくださったことがあった。ああいう、精神世界の芳醇さを
信頼するタイプのひとは、超能力現象にも寛容 ( 過度に寛容でかえって困る場合も
多いが ) だと推察されるから。でも、ここでは松田とは違う態度である、とする)。
 
 以前、「マルサの女2に於ける説得場面を社会心理学的に解説する」というテーマを
先生に相談したさい、先生には以下のようなことを言われたと記憶と記録に残っている。
”未来に対して応用が利かないようなものでは意味が無い”
”この事例が解析されて、それでどういう意味があるか”
”「恥しくなるほど範囲を絞って、誇らしく思うほど深く掘り下げなさい」と、博士
論文の教官に言われたことがある”

 この「超心理学/超能力を一言のもとに......」という論文は、以前の「マルサの女
2における......」よりも価値が高いと信じる。その理由は、1)論文の結論とその
意義:結論の意義:に書いた。論文テーマの範囲が広いか狭いかは判断できない。が、
論述そのものは恥ずかしくなるほど広くなってしまった。恣意的に、さまざまな分野の
資料から引用されている。

 ○論文の第二次目的:単位取得のための卒論として認められること(笑)

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/ ◆本論目次
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 1)論文の結論とその意義
 2)事実の列挙ならびに論述
 3)参考文献/論文/資料一覧

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/ ◆本論
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 1)論文の結論とその意義
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 :結論:

 超心理学という学問の主張は、たしかに現在の科学のパラダイムに違反している。
だが、パラダイムに反しているということなら、科学史年表をたぐればいくらでも”
現在では妥当とされている学説が発表当時または発表からしばらくの期間は、当時の
科学常識からは考えられずほとんどの科学者には無視されるか冷笑された”事例が
発見できる。

 こんにち、大方の科学者たちはまともに検討・議論をしたことがないにもかかわらず
なかば反射的に超心理学を排除している。従って、「超心理学が科学かそうでないか/
超能力現象は存在するかしないか」を明確にするために、徹底的に追試をし(超心理学
では1950年代にすでに実験結果によりPK能力は存在しているとされているので、
追試、という表現になる)、論議を尽くす必要がある。

 :結論の意義:

 社会科学分野においては、たとえば資本主義経済理論と社会主義経済理論がどちらが
妥当・有用かは一義的にはきまらないように、同一の事象に対する異なった複数の説が
並列して存在しうる。さらにおそらく、この例ではどちらの主張もある程度正しく、
ある程度まちがっていよう。人文科学においても事情は同じである。このことは、
一般的にコンセンサスがとれていると思われる。だが一方、自然科学分野は「人の
主観から独立した真理」を積み重ねている、と一般に諒解されている。

 ところが実際は、自然科学の成果でさえも研究者の主観につよく依存している。この
ことはトーマス・クーンにより明らかにされている。

 この理解は自然科学に携わるひとであっても、認識にバイアスがかかっていることを
はっきりとさせる(蛇足ではあるが、学問の文化依存ということに関して実に面白い
事例があるので紹介する。”霊長類学のうちおもに社会/生態/行動をあつかう分野を
サル学、と称する。ここの分野は、欧米とくらべて遥かにサルの行動理解という点で
進んでいる面がある。それは、どうやら日本人の文化に依存する部分があるらしい”
詳説は、中公新書「科学的方法とはなにか」pp49-72, pp139-165 を参照のこと)。

 また、安易で安直でお手軽な「ぜったいの事実/真実/真相/推察」などといった
ものに飛びつく危険性をいくらかでも減少させる。科学者世界でさえも、ある学説が
定説・真理とされる過程は恣意的/非論理的なのである。

 また逆に、カンタンなトリックに化かされない知恵を得るという意味もある。はやく
言えば、Mr.マリックやエセ宗教やそのほかが行ってみせる「超常現象」にだまされ
ない、ということである。
 つまり、ひっくくって言えば ”より正しくあるためのこころがけ”を提示すると
考える。

 :感想:

 科学論や科学史、科学者の社会学(については一冊本をよんだだけだが)や哲学
(構造主義、論理実証主義、独我論)や超心理学や気功について調べてみた結果、
感じたのは、

 【西洋近代科学がどれほど研究者/科学者の独断と偏見と欺瞞と悪意と、また公平さ
と無垢な好奇心と真摯な態度と善意に強く依存した、きわめて人間くさいもの】

 であるか、ということである。なかでも、参考文献に上げてある「科学の罠」には、
科学者たちが「業績をあげんがために実験を捏造する課程」が克明に描かれていて一読
に値する。

 ほんとうに、認識をあらためた。

 また、普通、科学というと欧米の近代科学を連想することは自分(に限らずとも、
おおかたの日本人)の偏見であると感じた。東欧諸国にも、中国をはじめとする東洋に
も、インドにも「科学」としか称しえないさまざまな「知識体系」が存在しているので
あった。これを、なぜ今まで無視してきたのかという後悔の念がある。

 論文作成にあたっては、英語論文作成の授業で習った「10調べた内容を1だけ
書きなさい」を心がけた。こころがけただけ、かもしれないが。2調べたことを1に
書いたくらいである。お恥ずかしい。だが、読んだ資料の分量はおそらく誰にも負けて
はいないと信ずるものである。
>////////////////
2)事実の列挙ならびに論述。””でくくられた部分は参考文献からの引用または要約
である。
>////////////////

●”欧米には1987年の時点で、超心理学の講座などを持っている大学や研究施設が
47箇所”ある。超心理学で”修士号/博士号を取れるところもいくつか”ある。

●以下年表、全て引用:

 ・1930年「超心理学研究所がJ.Bラインによりデューク大学に設立された。彼
の研究管理方法は、アメリカ数理統計学会で審査を受け、さらに1983年アメリカ
心理学会の特別委員会に提出され審査を受けた結果、すくなくとも実験管理の方法には
問題がないこととされている」

 ・1969年「アメリカ超心理学会が全米科学振興会(AAAS.雑誌【Sciense】
の発行団体)に参加を許可される」

 ・1977年「アメリカ:ジョン・F・ケネディ大学に超心理学の修士課程が設置
される」

 以上。

 ●要約:”J.B.ラインは、1934年に刊行した、デューク大学で行われた研究
の報告の中で初めて「ESP」という用語を用いた。その中で彼は、実に様々な条件下
で実に様々な被験者を対象に行った総計8万5724試行のカード当て実験の結果を
報告している。その成績は全体として天文学的レベルで有意であった”

 「サイの戦場」には、この実験をかわきりにおびただしい量の「公的研究機関に所属
する研究者のESPを肯定する実験結果」が掲載されている。

    ●”メリーランド大学・社会学者ジェイムズ・マックレノン-「一番問題なのは、
100年以上も研究が継続されていながら、超常現象に関する問題を科学が解決して
いないのはなぜか、ということである。科学の枠内で革新的活動を続ける緊密な社会
集団が15年以上も存続することはまずないと言える。俎上に載せている問題が解決
されるか、さもなければその集団自体が消滅してしまうかのいずれかだからである。
なぜ超心理学は、科学の枠内で正当性を確立することも完全に拒絶されることもなく、
100年以上も生き存えてきたのだろうか」”

     そうなのである。一般人にはこの事実を認めてもらいたい。現在でも係争中なのだ。

 ●日本には、個々に研究をしている学者(”電気通信大学・佐々木茂美教授”や”
元電気通信大学教授/元ハワイ大学教授/元東海大学情報処理科教授/現日本サイ科学
会会長/現国際気功協会副会長・関英男”、”愛媛大学 中村雅彦助教授”)などは
現在も活動を続けているが、”教育組織としての大学学部/学科/修士課程/博士課程
などは存在しない(ただ、プレステージ、というTV番組によると、中村教授は19
90年度から超心理学の講義を開始し、以後も続けるつもりだという)”。

 ●日本での超心理学関係の学会は”日本超心理学会(1963年発足)””日本サイ
科学会(1976年設立)”がある。日本超心理学会への入会基準は大変厳しく、”
大学研究者かそれと同等の業績のあるもの”という。

 ●古典力学、なかんずく我々の日常知・常識は、物理学的極限世界には全く通用
しない。いくつか例をあげる。

”・光の速度だけが常に、いかなる速度で観測しても秒速30万kmという一定速度で
かつ最高速度である
    ・エネルギーと質量が等価で交換可能である
    ・物質を加速してゆくと、速度増大に従って時間の経過が遅くなり、質量が増大
する。光速度では無限大の質量を持つことになるので当然、そこまで物質を加速する
には無限のエネルギーが必要となる
    ・ある種の素粒子を光速度の数割まで加速してやると、外から観察した場合のみかけ
の寿命が延びる
    ・宇宙の膨張が最大限に達したとき、時間が逆に流れ出すというトーマス・ゴールド
の仮説
    ・空間の歪みこそが重力である
 
 ・上記の、これだけで充分に奇想な物理学的事実は、それでもまだ重力がある一定
以下の世界にしか通用しない。その圧倒的な重力のため光でさえも脱出できない
ブラックホールの底では、上記のようなものも含めて既知のあらゆる物理法則/定数が
崩壊すると予測されている。"

    一昔まえならば、SFか夢でしかなかった「事実」である。このような事実を認める
ことのできる人間が、超能力現象を認めることができないというのは、なぜだろう?

 ●「良い教師はその講義を聞いてみればすぐわかる、という見解の真偽を正す実験」

 ”プロの俳優を仕込んで、精力的かつカリスマ的に講義を行えるようにする。それに
ふさわしい称号(M.L. フォックス博士)や科学的業績証明書も与える。彼は前提と
関連のない不合理な推論を下し、不合理な新造語を用いては正反対の陳述をし、それに
ユーモアのあるコメントや逸話を散りばめて一見関連しているようにみえても実際には
まったく関わりのないことをただ意味もなく引用するなどして講演を進めるように訓練
された。彼の専門は人間の行動に数学を適用することとなっており、それを医師教育と
関連させながら講演をした。1時間の講義と30分の質疑応答のあと、聴衆(精神科
医、心理学者、精神病治療ソーシャルワーカー、教育専門家などが含まれる)は彼の
講義を評価するよう求められた”

 ”結果は、圧倒的な賞賛であった”

 ”存在するはずもないフォックス博士の他の業績を見たことがある、などと言い
出した人も1人いた”

 権威、それもこの実験ではまったく表層的なものにすぎないのだが、に人がいかに
弱いかという実例である。人の判断が、いかに権威に盲従するか。もちろん、アメリカ
人がスタンドプレーに弱い、という可能性もある。だが、ある程度の普遍的な妥当性が
あるはずだ。そうでなくては、心理学の実験結果を各国で参考にすることが間違って
いることになる。

   (このことは、「超心理学者に比較的、通常科学分野でまともな業績を上げた学者
が少なからずいる」ことで「そういう学者が言うことだから盲従するのだ」という
超心理学を認めない立場からの批判に使えるし、また有効である。だが、面白いことに
これは両刃の剣なのだ。この論法をつかうと、批判する立場も危うくなってしまう)

 この実験結果は、ある程度、「我々の日常知を越えた物理学的事実を認める人間が、
超心理学/超能力現象を認めない」ことの理由を説明すると考える。

 我々は、自分で物理学的事実/物理定数/法則を調べたりはしない。教科書に書いて
あるから、学校で教わったから、先生が言うから、みんなが言うから、それゆえに
正しいと思っているのではないか?なぜ正しいのだと聞かれてどれだけの人がこれこれ
こういう理由で正しいのだ、と説明できる?

●学説/理論というものは親や教師や牧師や裁判所や軍隊や国連が一義的に認めて
くれるような、「こちらが正しいとします」と決められるようなものではない。

 ”N・H・D・ボーア(デンマークの理論物理学者。1922年ノーベル物理学賞
受賞。集英社・imidas1988年版p378より)は、自ら専攻した量子論を巡って
「人々は根本的に新しい学説を受け入れることはない。古い学説を信じている人々が
死に絶えた時に、初めて新しい学説が認められる」と語っている。”(参考論文より。
p156)。

 ”トーマス・クーンによると、「理論は他の理論によってのみ倒されるのであり、
理論に反する証拠をいくら積み立ててもその理論が打倒されることはない。通常、
反証が出てきたときには、観測法の誤りが原因とされる。また、理論を構成する
概念は、その理論特有のもので、理論から独立のものではない。たとえば、ニュートン
力学における”質量”と相対性理論における”質量”は異なった概念であり、前者が
後者に包含されるわけではない」。またクーンは 理論、構成概念、観測法、解くべき
問題などの体系全体を「パラダイム」と呼び、「パラダイム」が人々に共有され安定
している期間を「通常科学」「パラダイムの交換」を「科学革命」と呼ぶ。クーン説
では、観測法および何を観察すべきかは、パラダイムが決定しているのであり、中立的
な観測というものはありえない。すなわち、パラダイムが見え方を規定している”
(参考論文より。p153 を要約)

 というのが科学学説の受容に関する科学論の立場からの回答である。もちろん、
さまざまな批判がるがしかし、科学論ではこれを越えまたは否定する論理は未だ認証
されていない。

 これは、企業の判断原理にも当てはまるという。

 ”鉄鉱業の対応を遅らせた原因は、ピーク以降の粗鋼生産量の推移を見れば一目瞭然
である。鉄鉱の需要は、いっきに低下したのではなく、一進一退の波動を示しながら、
低下しているのである。もし需要がいっきに減少したのであれば、人びとの気持ちは
もっとはやく変わっていたかもしれない。しかし、この間に、市場は、「まだ行けるの
ではないか」という期待を蘇らせるようなシグナルを何度も送っているのである”

 初期の段階で、鉄鉱業者たちに「鉄鋼需要のゆるやかとは言え減少傾向は、もしか
すると構造的なものではないか」と、「鉄は国家なり」のパラダイムを崩して想像する
ことができれば、あるいはいまの鉄鉱業の凋落はなかったかもしれない。

 ”アメリカの自動車メーカーが小型車への対応に遅れを取った”ことも、大型乗用車
のの需要が決定的な長期低落傾向を示すものではなかったから、という。

 このようなとき、一番の障害になるのはやはり「これまではうまくやってきた」
という反対・「この方向でなにがいけないのだ」という批判であろう。大多数の者が
そう考えるはずだ。既成のパラダイムは強力である。強力だからパラダイム
なのである。

 ●社会心理学の分野では、「まわりの者がすでに回答している場合には、たとい
それが自分の主観的回答と異なる場合でも、自説を曲げて同じ様に回答する」と要約
できる説は定説である。

 ●帰納法批判:

 帰納法は近代西洋科学論理の基本の一つでもあるが、じつは重大な欠陥がある。
それは、”ある仮定に添った事例が100例あつまったところで、101例目が添う
という保証はまったくない”という、考えてみれば当り前の事実である。”帰納法は
あきらかに、論理的に正しいのではなく経験則的に正しいとされているに過ぎない”。
”行動学での統計の有意水準が1ないし5%と、科学者集団のまったくの恣意で決定
されている”にもかかわらず、それで正しい・有意であるとされているのと同じである。

 そこで”帰納法論者は、たとえば確率論的帰納に後退”する。要約すると”多くの
事例を観察すればするほど、言明が真である確率が高まる”などということを主張
する。この主張はある程度妥当とは考えられるし、おおかたあてはまるのも確かで
あるが、帰納法の絶対的・公理的・独立的な正しさを保証するものではない。

 また、「帰納法の無限後退」というウィトゲンシュタインによる批判もある。要約す
ると、

 ”なぜ我々は帰納法という手法自体を妥当とみなすか。これは、経験から、と、
いわざるを得ない。全ての白鳥は白い、という仮説を立ててみたところやっぱり真
だった。このような例が沢山あつまって、この帰納法というやりかた自体も有用で
妥当だ、ということになったのである。

 だが、この過程では帰納法をメタに使っている。「帰納法Aは有用・妥当である」、
「帰納法Bは有用・妥当である」、「帰納法Cは」と続けていき、これらの言明から
帰納法によって帰納法一般は有用・妥当であるという普遍的言明をひきだしている。”

 というものである。つまり、かんたんにまとめると「ある手法の正しさを証明する
こと自体に、その手法を使ってしまう」ということである。たしかにそのとうりで、
全く反論の余地はない。一般常識的に言うと、「裁判官と被告が同一であってはなら
ない」ということになろう。帰納法の妥当性は、このような手法を使用することに
よって確認されたことになっている、とウィトゲンシュタインは言うのである。

 また、廣松渉による批判もある。

 ”「犬」という概念を形成しようとして集合をあつめるさいに、となりのミケや、
タマ、石や木を収集しようとはしない。なぜかというとそれらはまさに犬ではないから
なのだ”

 というものだ。結果、

 ”概念形成とは帰納的抽象の手続きによって行われるものと日常的に信じているが、
実態においてはそうではなさそうである”

 ということになる。

    さらに、グッドマンによる「帰納法の一意性への批判」がある。

     ”帰納法において、どんなサンプルを採用して帰納させるかが、恣意的に決定
されている”

     というのである。簡単に言えば、

     ”都合のわるいデータは無視/軽視することにより帰納法が成立している”

     ということになる。

   帰納法は、上記のように経験則であることはあきらかである。だが経験則だからと
いって軽視するのは大間違いなのも確かである。いつかゼミのディベートで言って
大笑いされたことを思い出すが、確率的には落下したものがまわりから音と熱を
集めてピョンと飛び上がることも可能なのだ。極めて低い、殆どゼロに等しい確率では
あるけれども。おなじく、混ぜた水とインキがひとりでに分離してしまうことも、
タイプライターのキーを滅茶苦茶に叩いているうちに自然にシェークスピアの全著作が
再現されることも。

   我々の日常知は、経験的・確率的なものであって絶対的真理・普遍的事実で構成
されているわけではない、ということをあらためて確認したい。

 ●要約:”地球上に存在する/存在したいかなる言語も相互に翻訳可能であるという
ことは、人の頭脳には言語の変形をすべて満足させるなんらかの普遍的条件が与えられ
ているということを意味する。さらに、全ての言語が5つの論理記号【そして/ならば
/あるいは/でない/必然である】だけを持っている。”

 つまり、全ての人間は5つの論理記号だけを使用して思考を行っていることになる。
また、

 ”人間の頭脳は7重以上に入り組んだ関係代名詞の連なりを理解することができない” 
 という。

 これらの事実は、人間の考えたものはその頭脳の理解能力範囲でしかない、という
ことを意味する。あたりまえだが。つまり、環境がすべて人間の理解力の範囲内に
あるという保証はないのであるから、人間の考案した科学がすべての環境を説明し
きれる保証もない。このあたりになると、論議の多いところだろう。

 人間に理解できないことが存在するか、しないか、ということになるのだ(哲学
には、「語り得ぬものについては、沈黙するべきだ」という言明がある。またブラック
ホール内部の物理法則については、光さえ脱出できないのだから必然的にその実態を
知る情報がなにもないという理由で、関知する必要がないのではないか、関知しようと
しても無意味ではないか、という論議がある)。

 中国における気功研究は、その原理を解明する方向へはあまり進んでいない。
まったくの憶測だが、もしかすると原理は解明できないのかもしれない。

 ●いわゆる東洋医学の「気功」については一般に入手しやすい書籍にいろいろ
書かれている。参考文献には以下のような近代西洋科学式の測定結果の記事があった。
要約すると、

 ”生命体はすべて、微量ではあるが発光しておりこれを生物光子という。仙台にある
新技術事業団・稲葉生物フォトンプロジェクトで気功師の人体計測を行ったことがある
(ここでつかわれる装置は一個のフォトンでもつかまえられる世界で最も優秀なものだ
という)。気功師ではない被験者も同時に測定された。気功師の手から出たフォトン量
は、もっとも出た気功師でない被験者の約半分の量でしかなかったが、独特なのは、
気功師は実験者の指示に従ってフォトンの量を増減させることができた、という点である”

 ”空間における気の伝播速度測定実験(NHK科学部)では、並べたローソクの火を
気で消してみた。風ならばローソクの火は一斉に倒れるが、気の場合は将棋倒しのよう
にゆっくりと伝わってゆく。伝播速度は秒速20-30cmという”

 ”気を発する時には経絡にそって 1-5 ミクロンの微細震動が発生する”

 ”気を発すると額の印堂という経絡から一般人からは検出できない静電気が測定された”
 ”シャーレの中のガン細胞の増殖量を増減させる”

 ”発効中は自らの血圧が最高血圧20・最低5まで下がることがある”

 ”発効中に、指先の毛細血管の血流が停止した”

 などなど、いくらでも続けられる。ぜひ、同書をご一読されることをお勧めする。
NHKブックスから出ていることで、いくらか信憑性も高まっていると思われる。
腰痛にも気功は著しい効果があるようだ。

 ちなみに著者は湯浅泰雄といい、”文学博士/経済学博士、山梨大学教授・大阪大学
教授・筑波大学教授を経て現在、桜美林大学国際学部教授。この間、インドネシア大学
・北京外国語学院日本学センター客員教授をつとめる”という経歴である。

 「気」という概念は長らく鍼灸などとともに西洋科学からは無視ないし極端に軽視
されてきた。だが、上記の例でわかるのは「気」を科学的に測定しようという試みが
やっとはじまったということである。いわゆる超心理学も、主に欧米で誕生・発展
した(超心理学自体の創始者が、J.B.ライン教授である)ために、これまでは
東洋医学などにはあまり関心がなかった。このことは超心理学以外の近代科学も同じで
あって、たとえば近代西洋医学もそうである。超心理学も外部から見た行動として、
この点では近代科学とそっくりなのだ。

 ●科学史上、一時期は支持されたが現在は誤っているとされている学説。エセ科学
ではなく、実際に当時の科学界で真剣に討議されたもの。

天動説
N腺観測問題
骨相発生学
反進化論
エーテル仮説(これは仮説であった。定説ではない。しかし、実は全く嘘っぱちだった
といまされているものをかつて真剣に論議したということにはかわりない)

 ●発表当時は誤っているとされたが、現在では正しいとされている学説

地動説
進化論(最新の進化論は議論百出で、宇宙論に劣らずやたらと面白い)
光の波動説
相対性理論
大陸移動説
メンデルの遺伝法則”発表されてから34年間に、わずか5回しか引用されていない”という。

 ●以上。

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参考文献一覧:
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 株式会社テンヨー「手品 1988カタログ」株式会社テンヨー、1988
 山田正紀「神狩り」早川書房、1976 
  加護野忠男「企業のパラダイム変革」講談社、1988
 監修・関英男「超能力最前線」学研、1988
 松田道弘「超能力のトリック」講談社、1985
 湯浅泰雄「気とはなにか」日本放送出版協会、1991
 村上陽一郎「新しい科学論」講談社、1979
 中原英臣/佐川俊「進化論がかわる」、1991
 都築卓司「マックスウェルの悪魔」講談社、1970」
 廣松渉「哲学入門一歩手前」講談社、1988
 今村仁司/編「現代思想を読む事典」講談社、1990
 橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社、1988
 中野収「気になるひとのための記号論入門」ごま書房、1984
 ハンス及びマイケル・アイゼンク「マインド・ウォッチング」新潮社、1986
 水原泰介ほか編「コミュニケーションの社会心理学」東京大学出版会、1984
 P.ジンバルド、E.B.エブセン「態度変容と行動の心理学」誠信書房、1979
 加藤義明・編「社会心理学」有斐閣、1987
 榊博文「説得を科学する」同文館、1989
 L・フェスティンガー「認知的不協和の理論」誠信書房、1965
 佐久間賢「交渉の戦略」実務教育出版、1987
 R・ラックマンほか「認知心理学と人間の情報処理 1情報処理パラダイム」サイエンス社、1988
 吉田敦也ほか「行動科学ハンドブック」福村出版、1989
 朝田彰ほか「科学的方法とは何か」中央公論社、1986
 アービング・M・クロッツ「幻の大発見」朝日新聞社、1989
 村上陽一郎他「神の意思の忖度に発す」朝日出版社、1985
 別冊宝島編集部「科学論争を楽しむ本」JICC出版局、1990
 P・チュイリエ「反=科学史」新評論、1984
 M・ドゥ・メイ「認知科学とパラダイム論」産業図書、1990
 アレクザンダー・コーン「科学の罠」工作社、1990
 ロイ・ウォリス「排除される知」青土社、1986
 河村仁也「ポパー」清水書院、1990
 P.K.ファイヤアーベント「方法への挑戦」新曜社、1981
 A.ブラニガン「科学的発見の現象学」紀伊国屋書店、1984
 B・バーンズ「社会現象としての科学」吉岡書店、1989
 笠原俊雄・編「サイの戦場」平凡社、1987
 
 参考論文:

 平野雅章「組織認知課程の動的モデル-組織知能研究の一局面として-」早稲田大学システム科学研究所紀要No.20(1989)pp149
-158

 参考資料:

 アスキーネットPCS/lab.science Note 3, 50, 57 での討論記録および個人的電子メールの交換(約40万2千バイト)。

(この一文は、己と、これまで長らくお世話になりまたこれからもなるであろう両親と家族、林吉郎先生とまわりの全てのひとのために書かれた)

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ナニゲにアレゲなのは、ナニゲなアレゲ -- アレゲ研究家

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