okdt (17) の日記

2003 年 01 月 17 日
午前 01:15

Earthquake.

1995年1/17午前5時46分、わたしは明石海峡の見えるアパート2Fの部屋にいた。祝日の翌朝ということもあり、いろいろと昼間にできなかったことをしていたので、徹夜に近い状態だったので、その時刻も当然起きていた。ちょうど、セミハイベッドに座って、それまでの一日の無事と、来たるべき一日の成功をふと祈った時のことだった。

聞きなれない音が近づいてきた。そのアパートの付近では時折、数百台の大暴走が繰り広げられたりもしたことがあるので(それはそれで大変な地響きがするのだが)、最初はそれなのかなと思った。ここあたりからは、すべて、思い出すと事故で車にぶつかる瞬間を思い出すときのように、一瞬を長い時間として記憶している。脳がエキサイトしているゆえのスローモーションメモリーというわけだ。

瞬間、アパートの床が大海原と化した。窓ガラスがうねり、寝室の6畳間の、向かいの壁においてある本棚から、水平に分厚い本が飛んできた。天井のサークラインは揺れすぎて引きちぎれんばかりとなった。台所で大音量と共に食器棚が倒れた音がする。大量のCDラック、カセットラック、オーディオセットがうれしくない鈍い金属音をたてている。さきほどシャットダウンしたマシンが気がかりだった、、、(当時のマシンのカーネルは1.1.80あたりからアップデートしたてだった)しかしそれどころではないシェイクに、船酔いする暇もない大海原となっていたのだ。ぼろいアパートごと、溺死するかと思った。まじでポルターガイストどころの騒ぎではない。まじでハルマゲドンかと思ったくらいだ。この間、実測ではわずか45秒。体験して覚えている内容は数時間分もあるような気がする。

あたりはまっくらであり、そしてすっかり静まり返っていた。しばらくの余震と共に、外からうめき声が聞こえる。家の中がめちゃくちゃやー、という絶句からふとこぼれたおっさんの声も聞こえる。わたしは運悪く寝巻きに着替えたところだったので、てさぐりで、ついさっきまで来ていたトレーナに着替える。ピーピー言っているUPSに電気スタンドをつけ、一時的に明るくした。電話は、、、ダメだ。とにかく部屋からでなければ、余震でつぶされてしまう。いやむしろ、このアパートはすでにつぶれているのか?1階に住んでいた老人が心配になった。ばりばりと本棚やCDやテーブルや食器棚や、その他もろもろの上を通り、玄関を蹴破る勢いで外に出た。

外に出ると、隣人たちが庭に出て、わたしが無事出てきたのを喜んでくれた。でもその30分後に1階の老人が着物をきちんと羽織って出てくるまでは、全員気が気でなかったのは後日談ならではのいい話だ。その後、およそ外が白んできて、みんなアパートから一歩離れたところでどうしようかあれやこれやと相談した。余震が怖い。何度も震度3、4で揺れた。とりあえず、車とバイクのキーは持っていた。身近な家族、友人の無事を確認するため、出かけることにした。そしてこの日から数週間、時間や日付を全く意識できない日々が始まったのだ。

同日、父は東京に出張に出ていた。騒がしさに目が覚めて見ると、戦争でもおきたのかと思ったのだそうだ。それが見慣れた神戸であり、しかも我が家があり、そこに嫁入り直前(本当に直前)の娘も含む家族がおり、電話もなにもつながらない絶望的な状況をどう考えたのだろうかと想像するだけで同情できる。会議をキャンセルし、羽田に向かうタクシーのおじさんに雑貨屋と靴屋を経由してもらい、スポーツシューズと雨具とポリ袋を調達したそうだ。

なんとか伊丹空港に降り立ったものの、身動きなんてできたものではない。地元のバスで数キロでも進み、陥没した伊丹駅の前で降り、タクシーを乗り継ぎ、尼崎から倒れた阪神高速を横目に東灘までまさに歩き、恩師の家を思い出して山に登り、自転車を借りた。恩師はまずは泊まっていきなさい、と無理やり寝かしつけてくれたそうだ。大局を見据えたすばらしいアドバイスである。コンビニ、自動販売機は略奪の被害にあっていた。三宮のセンター街は強盗の荒地と化した。その模様を父はどんな思いで、家族のこともどんなに心配してその道を進んだことだろう。とにかく知恵をしぼりまくって、電波少年さながらの大変な目をして自転車で帰ってきた父を思い出す。「おお、良太郎、つぶれてなかったか、ははは」と聞いた、あの父のことを思うと、今でも目頭が熱くなる。父とは、ああでなければならない。

# あ、まだ生きてるんですけどね(笑

この震災で得たものは真の友、失ったものはみせかけの友、というところか。それは私を取り囲む他の人間関係から言ってもそうだろうと思う。わたしにとって本当に大切な人たちのためにしか動けなかったし、わたしを本当に大切だと思ってくれる人からのみ、大切に守ってもらったように思う。東京から「どうせ家にも戻らないで走り回っているんだろう」とメモを入れて、オロナミンCと綿の靴下とチョコレートを送ってくれた友人は、ここまで私のことをわかっている人間だとは思っていなかった人だった。現在の私の妻は、その時にまだ早いうちに親に頼んで無事を確認しにわざわざ来てくれた何人もの友人の一人だ、、、。当時のマイカーのジムニーも、バイクのDTも、道なき道を行っては大勢の人の善意を受け、そしてそれを手から手に伝えていったものだ。

時がたって、いろいろな人と出会い、そしてなにがしかの理由で会えなくなったり、別れたりする。人間関係は増えた分だけいいことも多いし一方で傷もつくものだ。しかし、何にせよ、結局は人と人のすばらしい結びつきでしか人間は生きられないのだ。ふるいにかけられて道をはずした人もいれば、ぎりぎりで目を覚ます人もいる。その震災が多くの人の人生に影響を与えたように、その同じ記憶が、人の人生を補正するために良い作用をすることもあろう、と願うばかりだ。

温故知新、まさにそうかもしれない。家族も人も、大切にしよう。な、そう思わないか?おれはつくづくそう思うんだ。そうしてこそ、自分の人生といえると思うのだ。それが一人としてはつたないものであればこそ、人の歴史なのだと。な、わが兄弟よ。

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UNIXはただ死んだだけでなく、本当にひどい臭いを放ち始めている -- あるソフトウェアエンジニア

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