von_yosukeyan (3718)の日記

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GPU

von_yosukeyan による 2004年09月26日 17時09分 の日記 (#253019)

よく誤解されるんだが、GPUというのは1922年に反革命サボタージュ非常取締委員会(VCHK:БЧК:ベーチェーカーと読む)が発展的に解散され、内務人民委員会部(NKVD)の一機関として新設されたに過ぎない。1924年には、さらに改組が行われ統合国家政治部(OGPU:オーゲーペーウーと読む)となっている。即ち、実質的な存続期間は2年に過ぎない

GPUは、その性格上過渡期的な存在だった。元々、チェーカが内戦期における反革命行為や物資隠匿にかかる犯罪行為を、即決裁判・即決処刑を行う機関であった。ある作家の言葉を借りれば、「チェキスト(チェーカの構成員)は、革命という銃から発射される弾丸である」という言葉に端的に示されるように、農村からの物資の強制徴収から、内戦において政治委員の命令に反して少しでも戦場から後退しようとする兵士を背後から射殺するための恐怖システムだった

チェーカが既存のNKVDの一機関になったのは、革命の混乱が集結し、単なるごろつきの集団であったチェーカを、革命の忠実な使徒としての統治システムに変革するための動きだった。このGPUへの改組によって、多くのチェキストが反革命の罪によって旧全ロシア保険会社ビルの地下室、または単に劣悪な環境の監獄で拷問の末処刑された。GPU(ГПУ)は任務的にはチェーカと大きな違いはなかったが、確実に統治システムとしての変革を遂げる

1924年のOGPU(ОГПУ)の創設は、GPUに消去システムとしてだけでなく流刑委員会を創設して、(革命における)犯罪者を労働力に転換し、または強制的に移住させることで民族主義運動を抑圧する統治システムとして完成するに到った。1926年に革命の父の一人であるフェリックス・エドムンドビッチ・ジェルジンスキーが死去したあと、1932年にNKVDの一部門となるまで、OGPUはスターリンによる権力掌握と、粛清による恐怖政治体制の確立に貢献していったという意味で、一般的に良く知られているGPUとなった。だが、この時代のことは正確にはOGPUのことである

ちなみに、軍の情報機関は参謀本部情報部(GRU)なんであんまり関係ない

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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家

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