von_yosukeyan (3718)の日記

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オレンジは甘いだけじゃなくて酸っぱい

von_yosukeyan による 2004年11月27日 20時37分 の日記 (#266362)

オラニエ公ヴィレム三世は、ネーデルラントの名門貴族オラニエ=ナッサウ家の出である。父はネーデルラント連邦総督であるオラニエ公ヴィレム二世で、曽祖父にあたるディレンベルグ伯ヴィルヘルム一世の息子、ヴィレム一世がオラニエ家を、兄弟のディーツ伯ヤン一世がナッサウ家を創設した。このナッサウ家の十三代目が現オランダ王国のベアトリクス女王陛下である。

当時、ネーデルラントはイングランドと関係が深く、ヴィレム二世はイングランド国王チャールズ一世の娘メアリー(ヘンリエッテ・マリア)を后とした。ちなみに、妹のヘンリエッタ・アン(アンリエット・アンヌ)が嫁いだ先が、フランス国王ルイ十四世の弟オルレアン公フィリップ一世で、彼女の孫のオルレアン公ルイはフランス革命で第三身分派に付きながら処刑され、彼の息子オルレアン公ルイ・フィリップは7月王制で王位に付く。ヴェルム三世も、母ヘンリエッテ・マリアの弟であるイングランド国王ジェームス二世の娘メアリーと結婚してオラニエ家の家督を嗣ぐ

チャールズ一世の治世下に、清教徒革命(1642)が発生しオリバー・クロムェル、リチャード父子の独裁を経て、フランスからジェームス二世が帰国し再び絶対王政的政治をイングランドにもたらそうとした。これに反発した議会が、ジェームス二世を追放しネーデルラントからオラニエ公ヴェルム三世と后メアリーを共同国王として招いた事件が、いわゆる名誉革命(1688)である

オラニエ公ヴェルムは即位してウィルアム三世に、メアリーもメアリー二世となるが、オラニエ公ヴェルムを英語風に言うとオレンジ公ウィルアムとなる。名誉革命は、無血革命であったために平和的な政治解決の象徴としてオレンジ色が使われるようになったのはこれ以降である

実のところ、名誉革命が無血革命であったのはイングランドのみのことで、カトリック教徒であったジェームス二世の王党派と、プロテスタントの議会派・ウィルアム三世は1690年にジェームス二世の亡命先であるアイルランドで軍事衝突(ボイン川の戦い)し、最終的にカトリック教徒を一掃した。以後、アイルランドではイギリスの植民地支配の強化と同時に、カトリック教徒の大弾圧が行われる。その意味で、オレンジはカトリック教徒の象徴であり、北アイルランドの旗はアイルランド人(カトリック)を象徴する緑と、平和と中立を表現する白、そしてプロテスタントの象徴であるオレンジが描かれている

ウクライナの野党勢力が象徴に使っているのは、もちろん無血革命の象徴であるオレンジであって、大部分がギリシア正教系であるウクライナ人は後者の意味で使っていないのは当然である

ちなみに、ウィルアム三世とメアリー二世には子がなく、スチュワート朝はメアリー二世の妹アン女王の時代に断絶した。アン女王の後を嗣いだのがイングランド国王ジェームス一世の娘エリザベスが嫁いだボヘミア国王フリードリヒ五世の娘のハノーバー選定侯妃ソフィアの息子であるジョージ一世である。要は縁戚筋で、英語の話せなかったジョージ一世の下でイギリスは本格的な議会制民主主義時代を迎えることになる。ハノーバー朝が、現在のウィンザー朝と称せられるようになったのは、第一次世界大戦中に敵国ドイツ風の家名は問題があるとされてからである

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