von_yosukeyan (3718)の日記

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LBO

von_yosukeyan による 2005年03月20日 7時36分 の日記 (#287594)

米国のM&Aブームは、60年代後半から70年代にかけての時期と、80年代、90年代以降の三期に分けることができる。金融史的に見ると、第1期と第2期がとりわけ重要な意味を持っている

第二次世界大戦後のブレトンウッズ体制は、金融史的に見るとダイナミックな企業再編があまり起こらなかった時期である。大恐慌の反省から、商業銀行と投資銀行の分離が行われ、例えば名門金融財閥モルガン商会は投資銀行モルガンスタンレーと、商業銀行モルガン・ギャランティ・トラストに分離され以前の輝きを失った。金利は、中央銀行が制御する範囲内で動いていたし、一般個人が株式に投資することは希であった。債券といえば、現在のように活発に取引されるのではなく、発行されれば金庫に(多くは株券と一緒に)放り込まれ、償還期限がくるまで眠るだけの存在だった

この時代はアジアだけでなく、世界的に終身雇用が当たり前で、雇用市場の流動性は現在よりも低かった。ヨーロッパでは、多くの有力企業が国有化されていたし、日本では資本供給を大蔵省が強い影響力を持って監督する銀行を通じて行われていたので、市場を通じて直接資金を調達する企業は多くなかった。第二次世界大戦が終わった直後には、復員した天才たちがいくつかのパートナーシップ制の投資銀行を設立するが、これらの新興勢力の投資銀行は、限られた資本市場の中で比較的積極的にリスクを引き受けることで、旧来の巨大資本に対抗していくことになる

彼らが注目したのは、当時政府による公共需要によって急成長していた電子・航空・宇宙・自動車・石油・化学・製薬といった成長部門ではなく、比較的成熟(悪く言えば停滞)した、食品、小売、造船、軍事といった部門だった。これらの企業は、市場が安定しているために比較的多くの流動資産を保有しており、かつ配当が少ないために株価が低迷していた。70年代に入り、ドルショックとオイルショックのダブルパンチから、世界的な長期不況に入ると、株価の低迷によって投資銀行が大きな打撃を受ける。これをチャンスとみた投資銀行家がいた。彼こそが、LBOブームの立役者であるジェローム・コールバーグである

コールバーグは、当時は三流投資銀行に過ぎなかったベア・スターンズに所属していて、60年代から早くも成熟産業に対する負債を使ったM&Aを手がけていた。LBOとは、まさしく負債を使った企業買収を言うが、この頃にはそのような洒落た名前で呼ばれていたわけではない。広義のLBOは、自己資本に加えて借り入れによって調達した資金によって買収することを言うが、コールバーグは60年代から70年代初期にかけて、複雑な利害関係者によって経営が行き詰まった企業買収を仲介して、企業の経営再建を手助けしていた

この初期LBOは、当時よく知られていたブーツ・ストラップ・オペレーションと呼ばれる、買収相手の企業の保有資産を担保に資金を借り入れる手法をより洗練したものである。借り入れた資金で、買収相手の企業の経営陣を抱き込んだ上(ゴールデンパラシュートと呼ばれる)で企業を買収し、企業の経営を効率化した上で再売却するか、再上場する。借り入れた資金は、税制上経費算入できるので、配当と比べて有利になる。70年代の半ば、ベア・スターンズを辞したコールバーグは、ヘンリー・クラビスとジョージ・ロバーツと共に、パートナーシップ制のバイアウト専門の投資ファンドであるコールバーグ・クラビス・ロバーツ、通称KKRを設立する

KKRは、当初退職者年金基金やS&L(スリフト)から資金を調達し、女序に買収実績を積み上げ、やがてファースト・ナショナル(後のバンクワンで現在のJPモルガン・チェース)などの中規模の銀行から、マニュファクチャラーズ・ハノーバー・トラスト(ケミカル、チェース・マンハッタンを経て現在のJPモルガン・チェース)やバンカーズ・トラスト(現在のドイツ銀行)などの大手銀行を顧客とするようになった。当初のリターンは80%を越える高い投資効率を上げ、買収案件も大規模化していくが、資金調達の難易度も高まっていく

ここで、もう一つのLBOの立役者を紹介しなければならない。かの、ドレクセル・バーナム・ランベールのマイケル・ミルケンである。ミルケンに関する伝説は、現在でも語り草になっているし、その頃の熱気はミルケンをモデルにしたといわれるオリバー・ストーン監督の『ウォール街』で窺い知ることができる(ゴードン役のマイケル・ダグラスは、インタビューで今でもウォール街を歩くとゴードンと声をかけられるという)。ミルケンは、やはり弱小投資銀行だった、ドレクセル・バーナム・ランベールの高利回り債(ハイイールド債)部門で60年代から働いていた

ハイイールド債は、発行体の格付け(信用)が低いために比較的高利回りな債券である。ミルケンは、ハイイールド債の破綻率が3%程度であることに注目して、より有利な運用先を探している投資家に販売していた。ミルケンは、景気が回復して金利が低下しつつあった70年代後半に、新しいハイイールド債の発行体を探すようになった。その時に出会ったのが、コールバーグらバイアウト専門のファンドである

84年に、ミルケンのドレクセルはKKRに買収資金として1億ドルの資金を、格付けが極めて低いハイイールド債であるジャンク債によって調達した。このミルケンとKKRの出会いが、LBOに革命をもたらす。投資銀行や投資ファンドのような伝統的な期間投資家からの資金調達に比べ、ドレクセルなど新興の投資銀行殻の資金調達は調達金利が高く、投資銀行の仲介手数料も目玉が飛び出るほどの水準だったが、短期間に多額の資金調達を行うことができ、また資金用途に厳しい監視の目がないために、バイアウトファンドにとっては非常に都合がよかったからだ

一方で、ドレクセルら投資銀行側も、運用に困った少数の機関投資家に対して比較的リスクの低いジャンク債を売りまくることで、多額の仲介手数料を手にできた。ドレクセル以外にも、ファーストボストン(現在のクレディ・スイス・ファースト・ボストン)など、多数の投資銀行がLBOジャンク債市場に参入し、LBOが突如としてブームになった。これが第二次LBOブームである

第二次LBOブームは、第一次LBOブームがKKRなど少数の優れたバイアウトファンドが、買収先の企業の経営者と協調して企業再建を行う協調型買収であったのに対して、第二次ブームはジャンク債を発行すること自体が目的と化していった。84年に1億ドルの資金を調達したドレクセルは、わずか2年後にKKRに60億ドルの資金を調達して、自動車レンタルのベアトリスとサムソナイトの買収を支援した。この買収は、KKRが手がけたバイアウトとしては初めての敵対的買収となり、以降LBOにおいては敵対的買収が一般化するまでになる。コールバーグはこれに失望して、やがてKKRを去る

そして、ジャンク債そのものが買収先企業の資産を担保とするブーツ・ストラップ・オペレーションから大きくかけ離れるようになってきたこともこの時期の特徴である。投資銀行は、購入者に対して使途を説明しない条件の社債を発行しはじめ、やがて投資効率が悪化すると債務不履行を避けるため累積配当型社債を発行するようになった。つまり、企業買収によるキャッシュフローで利払いを元本の返済を行うのではなく、利払いそのものを元本の返済と同時に行うようになった

投資案件の質の低下と、ファンドや投資銀行の急増によって現在では考えられないほどの馬鹿げた買収が横行するようになった。1986年、奇行が目立つカナダの不動産王ロバート・キャンポーが企業の乗っ取りに乗り出した。キャンポーはいわゆる「酒でうがいをし、剃刀で歯をほじる手合いの人間」で、整形手術で顔の皺を取り、植毛を受け、羊の脳味噌の注射を欠かさないという異様な人物だった。丸裸で銀行家を召集した会議を開催したことすらある彼は、たかだか2億ドルの自己資本(しかも大半はカナダの不動産)で、20億ドルの流通大手アライドの買収に乗り出した

仲介したのは、数々の違法行為で知られる悪名高き投資銀行ファースト・ボストンで、中心となったのは、かのブルース・ワッサースタインだった。ワッサースタインのチームは、キャンポーに10億ドルをジャンク債で調達した上に、キャンポーの保有する株式を担保に6億ドル、ファースト・ボストンの自己資金で9億ドルの資金を貸し出し、キャンポーはそれらと3億ドルの自己資金(それ自体が借り入れ)と、アライドの資産を担保に優先株でさらに10億ドル以上を市場調達し、41億ドルもの巨費を投じてアライド買収を支援した。注意しなければならないのは、キャンポーは高々2億ドルの不動産企業を経営する経営者に過ぎないし、ファーストボストンとて10億ドルの自己資本しか持たない。ファーストボストンは自己資本の2倍近い資金を、それまで一度も取引関係になかった「頭がおかしいと評判」の2億ドルの資産しか持たない経営者に貸し出したのである

この馬鹿げた取引で、アライドは経営陣は(総額2000万ドル近いゴールデンパラシュートを受け取って)クビになり、ワッサースタイン率いるファーストボストンは数億ドルの手数料と金利を受け取った。さらに信じがたいことに、キャンポーはさらに2年後の88年、たった2億ドルの自己資金で流通複合企業フェアデレーデッドを110億ドルで買収。そしてKKRも翌年食品複合企業体RJRナビスコを260億ドルで買収し、LBO買収記録を塗り替えた。買収された企業は、いずれもジャンク債への利払いのために大幅な従業員の解雇と、事業の切り売りが行われ、巨額のPIK債(債券によって償還する社債)が市場に垂れ流された

こういったLBOブームの行き過ぎは、ジャンク債の主な買い手となったスリフトの経営問題が加わってレーガン政権の土台を揺るがすスキャンダルになった。M&Aそのものに対しての批判も高まる中、巨額のジャンク債を保有して業容を拡大した大手スリフト持株会社のアメリカン・コンチネンタルが経営破綻し、経営者のチャールズ・キーティングが相場操縦や不正会計で逮捕された。キーティングの支援者の中には、元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員、共和党の重鎮ジョン・マケイン上院議員といった議会の重要人物が名を連ね、キーティングに有利に計らっていたことから大スキャンダルに発展した

その半年前には、キーティングにジャンク債を売りまくっていたマイケル・ミルケンが、ニューヨーク連邦検察官ルドルフ・ジュリアーニ率いる検察当局に、相場操縦、脅迫など数ダースの罪で起訴され、懲役500年が求刑された。司法取引の結果、ミルケンは禁錮10年罰金6億ドルの実刑判決を受け入れ連邦刑務所に服役した。一方、ミルケンを解雇したドレクセルも、法人として6億ドルの罰金を課せられ、91年に経営破綻。そして、キャンポーの「流通業界のヒットラー」と恐れられたインテグレーテッド・リソーセーズ社も89年6月に多額の負債を抱えて倒産する

この89年から91年にかけての時期は、ジャンク債ブームの破綻に中南米危機と逆オイルショックによる石油探査企業の経営破綻が加わって、多くの金融機関が破綻した。名門銀行コンチネンタル・イリノイが破綻したばかりでなく、大手銀行シティー・コープが経営破綻寸前に追い込まれ11%もの高金利で優先株を発行した。89年だけで800行近いスリフトが破綻し、商業銀行も含まれば1600行の金融機関に公的資金が注入された

KKRは倒産は免れたものの、多額の負債を抱えたRJRナビスコの経営再建に90年代苦しみ続けた。結局、この期間のジャンク債利回りは投資利回りの低下で高々9%に過ぎず、バイアウトファンドの投資利回りも株式ファンドの利回りを30%以上下回る低い水準に止まった。

一方で、ミルケンを初めとする乗っ取り屋は、多額の給与所得を得ていて、例えばミルケンは数年間で10億ドルを越える収入を得ていたという。88年、ファースト・ボストンは、日本の暴力団や南米の独裁者の資金洗浄に使われることで有名なスイス系銀行クレディ・スイスに買収され投資銀行部門クレディ・スイス・ファースト・ボストン(CSFB)となった。キャンポーの案件や、KKRのRJRナビスコ買収を仲介したファースト・ボストンのブルース・ワッサースタインは、89年にジョー・ベネラ(現モルガン・スタンレーのパートナー)と共に投資銀行、ワッサースタイン・ベネラを設立し、その後もAOLとタイムワーナー合併や、投資銀行モルガン・スタンレーによるディーン・ウィッター買収などの大型案件を手がけた。2000年に、ドイツ系大手銀行のドレスナーに自社を身売りし、統合会社のドレスナー・クラインオート・ワッサースタイン(DKW)の会長となるが、現在は退任して他の投資銀行を経営している

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