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AD (8507) の日記

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つれづれと書き直し

AD による 2005年02月27日 0時42分 の日記 (#283751)

先日のエントリが意味不明なので追記というか、書き直し。

HTMLに関する論争で、(主に仕様書的観点からみて)『正しいHTMLを支持する側』と『正しくないHTMLを支持する側』に分かれている場合、議論の答えとしてどちらかの主張を肯定するに至らない。それは両者が考える『問題の定義』が異なるからだ。(立場が違うともいえる。)

HTMLを如何に捉えるかという時点で、すでに両者の話はかみ合わない。ある人からすればHTMLは単なる公開文書フォーマットであって、それ以上のものではない。またある人からすれば、HTMLは映像を作り出すための道具であって、それ以外のものではない。

両者の作ろうとしているモノは、同じHTMLという道具を使っていても全く異なるものだ。自ずと道具に望む性質も異なってくる(問題の定義が異なる)。故に、両者はお互いの意見を認められない。この類の論争における参加者は、自分こそが『現実』にマッチした最も合理的な姿勢を執っていると考えがちだと思う。それゆえに、(主観的にみて)相手のチンケな合理性を認めることができない。

正しいHTMLを支持する人間が合理性に拘るのは、それが正しくHTMLを扱う最大の理由だからに他ならない。だけれども、その合理性を必要としない人間にとっては興味のない話だ。両者は必要としているモノが違うから、まともな話し合いにならない。

「特定のレイアウトを絶対に実現しなければならない」という命題が与えられているとき、正しいHTMLは何の価値も持たない。それは正しいHTMLがレイアウトを制御することはないからだ。ある人にとって、正しいHTMLは酷く非合理的で非現実的なものだ。

ただし、HTMLが特定のレイアウト機能を果たすのは、特定の環境下のみだ。数年でバージョンアップされ挙動の違うソフトを使う羽目になるPC業界において、正しくないHTMLは常に『意図した映像』として出力されるものではない。だから、当事者がどこで折り合いを付けるかという問題になる。その方法論で激突しているわけだから、意見の異なる相手と合意に達することなんてのは稀である。

単一にHTML的正しさのみが正義であるわけではなく、ある人には別の正義が存在する。例えば見栄え至上であったり、WAI至上であったりしてHTMLを蔑ろにするケースがある。そのいずれも正義である。正義を持つこと自体は悪ではないが、正義を押し付けることは悪となりうる。故に正しいHTMLを押し付けることはできないのではないか。

最初にウェブサイトを作る時間のに要した時間よりも、ページに手を加えたり流用したりしながらサイトを運用していく時間の方が多いものだ。そういった運用コストを考えると、ようやく正しいHTMLに一般的なメリットが発揮されるようになる。正しいHTMLを用いる場合は、最初に構造さえ決めてしまえば、(その構造に何らかの欠点がない限り)殆ど手直しの必要がないからだ。

個人的には、Tableでゴテゴテとソースを弄ってクールな映像を作り出す熱意をCSSや素材加工などのスキル習得に費やして欲しいと思う。それは偽りのない思いだ。だって、そんな太古の『ホームページ作成法』は合理的じゃない。(結局それかw)

というか、最近、私が正しいHTMLを支持するのはCSSのせいではないかと考えている。CSSをより楽に扱おうとすれば、ゴテゴテとHTMLを記述することは余り合理的ではない。テーブルレイアウトを筆頭にHTML3.2以前の思考のまま記述すると、CSSの意味がないのではないかと思うわけで。

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私はプログラマです。1040 formに私の職業としてそう書いています -- Ken Thompson

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