taro-nishinoの日記: ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学 1
先日バナハの"Theory of Linear Operations"に触れましたが、私が後世の数学徒に残したい数学名著を3冊だけ選べと言われるならば、以下のようになります(順不同)。但し、論文集等と日本語の本は除きます。日本語の本を除くのは、そもそも後世の人々というのは地球人であって、日本人だけを対象にするのは後世に残す気持ちが始めから無いに等しいからです。勿論、日本語版の外国語訳があれば考慮しています。
1. Stefan Banach "Theory of Linear Operations"
2. Claude Chevalley "Theory of Lie Groups"
3. Henri Cartan, Samuel Eilenberg "Homological Algebra"
1.は前にも言いましたが、バナハが元々書いた仏語版の方がいいと思います。
上記は数学徒、つまり数学専攻者を対象にしています。一方で、数学愛好者、数学入門者、数学を応用する立場の人もいらっしゃるでしょうから、それらの一般向けに3冊を選ぶとするならば、以下のようになります。
4. G. H. Hardy "A Course of Pure Mathematics"
5. E. C. Titchmarsh "The Theory of Functions"
6. Robin Hartshorne "Foundation of Projective Geometry"
特に数学入門者には6.をお勧めします。若い人の幾何学的直感が余りにも弱すぎるのを補うためです。
話は飛びます。
バナハの人なりをちょっと調べてみてから私の心は悲しみでいっぱいになりました。何故悲しいのかと言いますと、バナハのような偉大なる数学者でさえも、愚かなる戦争によって人生を台無しにされる現実に無常を感じるからのようです。調べているうちに、ポーランドを徹底的に破壊した当事国のドイツ、ソ連の数学者は当時どうしていたのか疑問に思い、次いでに調べてみました。ソ連に関してはさすがにインターネット上では資料が少ないのですが、ドイツは結構ありました。そのうちでも、結構まとまっていると思ったのは、カテゴリ論で有名な故Saunders Mac Lane博士の"Mathematics at Göttingen under the Nazis"(PDF)でした。その私訳を以下に載せておきますが、本当に世界から戦争の無くなることを願って止みません。
ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学
1995年10月 Saunders Mac Lane
1931年のゲッチンゲンにある数学研究所は傑出した伝統があった。つまり、ガウス、リーマン、ディリクレ、フェリックス・クライン、ミンコフスキー、ヒルベルト。新しく広い建物(ロックフェラー財団のおかげで、数学のための、そのような建物はパリにもあった)の中にあった。図書館は広く、トランクいっぱいに重要な論文があって、事細かに利用事項が指示されていた。学部は小さい(現代の基準では)が、傑出した若い人々ともに、素晴らしかった。
私以前にも、多くの米国人数学者(最も最近ではH. B. Curry)がゲッチンゲンで勉強した。私が当時(1933年)に書いた手紙から詳しく引用して(困難な状況に対する私の反応が記録されているので)、ここに私自身の体験をまとめたいと思う。
1931年、エール大学を卒業し、シカゴ大学での大学院課程に非常に失望していた。数理論理学をも含む第一流の数学科を探していた。ゲッチンゲンが両方を満足することが分かった。
ヒルベルトが教授職を定年退官したが、それでも週に一回、"現代科学の基礎における哲学入門"を講義した。彼の後継者ヘルマン・ワイルは幅広く、微分幾何学、代数的トポロジ、数学の哲学(これについて、私は講義録を書き上げた)を講義した。ワイルの群表現についてのセミナーから、私は多くを(例えば、線型変換の使用について)学んだが、代数学者はリー代数の構造を勉強すべきだと言う彼の言明を聞きそびれた。また、集合論があまりにも脆いと言う言明も私は確信しなかった。エトムント・ランダウ(1909年より教授)は、彼の例の洗練された明晰さ(と、使用した黒板を消す助手を従えて)で大観衆に講義した。リチャード・クーラントは研究所の管理者だったが、多くの助手を講義し、クーラント-ヒルベルト本の原稿に従事させていた。Gustav Herglotzは、いろいろなトピックス(リー群、力学、幾何光学、正実部関数)について洞察の満ちた講義を雄弁に行った。Felix Bernsteinは統計学を教えたが、大変な事態になる前、1932年12月に去った。これらがその当時の常勤教授だった。
臨時教授(少し格が落ちる)は、パウル・ベルナイス、Paul Hertz、エミー・ネーターがいた。Hertzは因果関係と物理学(マックス・ボルン、Richard Pohl、ジェイムス・フランクを擁する有名な物理学研究所は隣だった)について講義した。パウル・ベルナイスはヒルベルトと論理学を研究し、刊行予定のヒルベルト-ベルナイスの本、数学基礎論を準備していた。彼はまた、有名なフェリックス・クラインの初等数学教程をより高度な視点(主に将来のギムナジウム教師を対象に)から教えた。エミー・ネーター(ワイルは彼女を同格と考えた)は熱心に教えたが、彼女の現在の研究対象(例えば、群の表現と多元環)について難解な教程だった。彼女に刺激を受けた学生に、エルンスト・ヴィット、Oswald Teichmüllerがいた。
Herbert Busemann、Werner Fenchel、Franz Rellich、Wilhelm Magnusと同じく、Hans Lewy(彼から私は偏微分方程式を習った)、Otto Neugebauer(数学史)、Arnold Schmidt(論理学)を含む、多くの若い員外講師と助手がいた。私達はよく駅前の結構なレストランへ美味しい食事と議論のために行った。ゲルハルト・ゲンツェン、Fritz John、Peter Scherk、Olga Taussky、エルンスト・ヴィットを含む多くの熱心な学生がいた。
社交では、かってワイル教授の家でダンスパーティがあった。日曜日に挨拶状を渡すために宮殿のようなエトムント・ランダウの家を訪問するなら、次に行われるランダウのパーティに招待され、刺激的なゲームを履行するであろう。或る時、ランダウがゴッドフレイ・ハロルド・ハーディを招待したことがあり、ハーディに会うため列車に向かった。トレンチコートと黒メガネのハーディが降り立った。ランダウは彼に突如詰め寄って、解析的数論で使用される"劣弧"について最新の結果を尋ねた。ハーディがその分野に関心を無くしたと答えると、ランダウは落胆した。結局黒眼鏡はハーディではなく、心配したランダウの一学生のトリックだった。
その他多くの訪問者があった。Paul Alexandroffは代数的トポロジの最新公式(彼の薄い本、簡単な基礎にあるように)を紹介するために来た。エミール・アルティンは類体論の難解な美しさを詳細に説明するためハンブルクから来た。オズワルド・ヴェブレンは(毎週のコロキウムの一つで)射影的相対論を講義した。いつもの通り、コロキウムに先立って、お茶と最新の新聞の見せ合いとなった。リヒャルト・フォン・ミーゼスは当時ベルリン大学(ゲッチンゲン数学の古くからの好敵手)の教授だった。彼は、コレクティブの概念について確率論の(やや曖昧な)基礎を夜に講義した。すべてのゲッチンゲン学派が聞いていて、ヒルベルト、ベルナイス、Bernsteinや他の人がミーゼスのアプローチに公然と批難した。簡単に言えば、新しいアイデアは強制的に紹介され、議論された。多くの個人的接触があった。例えば、クーラントは米国訪問を計画していたから、予め英語の使用を教えるため私はクーラントの家で生活した時期があった。
従って、1931-1932年のゲッチンゲンの数学研究所は、活気に満ちあふれ成功している一流の数学的中心のモデルだった。
1931年、ドイツは多くの経済的政治的問題に直面した。大恐慌はドイツで多数の失業者を生み、多くのドイツ人は尚更第一次大戦後の酷いインフレを明確に思い出した。ドイツ首相(ブリューニング)は国会で安定多数を持っておらず、緊急事態法令によって統治した。私の知っている人々はこれらの問題に関心を持っており、しばしばリベラル又は左翼に同情の傾向があったが、将来を予見した人はいなかったことを私は思い出す。私はドイツ語を学ぶためと文化(例えば、ベルトルト・ブレヒトと三文オペラ)を吸収するため、最初にドイツはベルリンに入った。ナチス突撃隊(SA)と競う共産主義者と社会民主主義者がいた。ドイツにおける27の政党というパンフレットを私は詳細に研究した。ワイマール共和国は政治を滅茶苦茶にした。私がゲッチンゲンで住居を構えると、毎日曜日、顔に包帯をした若い学生達に気づいた。彼等は色々な武闘団体の決闘から帰って来た。彼等はおそらく、決闘による印象的な傷跡を自慢する法律教授の感嘆を予期したのだった。冬には一度、武闘学生に愚かにも雪玉を投げた、いたずらっ子を擁護した。その学生はすぐさま私に"貴方の名刺を見せなさい"と挑発した。名刺を持っていなかったので断った。学生は"我々はそのような人と連帯しない"と言い、実際彼は何もせず、私を無言の侮蔑で以てよく通り過ぎた。おそらく私は幸運だった。1912年、George Polyaがゲッチンゲンにいたが、彼は一学生から挑戦され断ると、すぐに学長が大学を去りなさいとアドバイスしたと、Martin Kneserは私に語った。私はとどまる事が出来て得をした。
1932年、ベルリンやその他の場所でナチス突撃隊と共産主義者の街頭決闘でドイツ政治は荒れ狂っていた。そして、1933年1月にはナチスがドイツ国家人民党(フォン・パーペンに主導されて)と協力した選挙があった。これらの国家主義者はヒトラーをコントロール出来ると考えたようだ。協力投票はヒトラーを帝国首相にするには十分だった。彼の演説と写真はどこにも現れた。
1933年2月12日、私は研究休暇を取ってワイマールを訪問した。到着してオペラハウスへ行ったが、翌日のチケットが完売だった(ワグナーの50回忌記念)。幸いにも翌日オペラハウスの外で立っていて、チケットを入手出来た。オペラの前半(勿論、ワグナーだ)は素晴らしかった。中休みにロビーへ出た。24フィート先に、ヒトラーとゲーリング(新聞の写真から容易に認識出来た)が立っていた。その時は(数ヶ月後に考えたことだが)、邪悪な考えが十分でなかった。後年、ヒトラーの面影を生々しく思い出したが、1933年5月に考えたと思う。つまり、(武器を持てるなら)私が個人的に歴史を変えていたかもしれない一つの機会だったと後に思った。
1933年3月、先に広大な宣伝作戦を行って、連立政府は2回目の選挙を実施した。政府に圧倒的多数を生んだ。私が母に書いた2つの手紙(一つは1933年3月10日付、もう一つは日付が無い。著者は求めに応じて、これらの手紙のコピーを提示するであろう)に、その状況が書かれている。
最初の手紙(1933年3月10日付)はプロパガンダをからかっている。私は、公なプロパガンダが意見を変えさせることを以前には見たことがなかった。ドイツを去る8月まで延々と続くプロパガンダによって非常に惑わされたから、実際に世界で何が起こっていたのか私は知らなかった。
日付の無い2番目の手紙(住所も省略されている)には、検閲されるかも知れないことを心配しているらしい。今は、この心配は事実無根だったと思う。だが、私が持っている資本論には少し心配した。警戒してシャツ下のポケットに隠したのを思い出す。実際、1933年5月10日、ゲッチンゲンで焚書があった。その前後、母が私に送ってくれたThe Literary Digestが来なくなった。
それらの手紙を書いた後に、チロルのオーベルストドルフへ学生で組織された2週間のスキー旅行に行った。私達は(団体チケットで)列車に乗って帰ったが、ニュルンベルクで3時間停止した。ヒトラーがユダヤ系の店を平和的ボイコットする命令を出した日だった。列車にスキーと荷物を置いたまま、街を探検した。そこの大きな靴屋で見すぼらしい身なりの男が展示品をじっと眺めているのを見た。その店は閉まっていたにも拘らず、警官が男に目を付け、一度彼を押し退けた。私はボイコットは平和的に行われると思っていたから、好奇心でマネをした。直ぐに私も捕まった。熱心な警官は私を、ドイツ帝国について嘘を収集しているアングロサクソンのレポーターの一人だと決めてかかった。彼は私を責めた。レポーターでなくただ学生に過ぎないことを分からせようと努めた。彼はすぐに、自分が米国を訪れるなら警官の邪魔をしないであろうと述べた。私の証明となるものはすべて列車に置いたままだと頑張って説明した。やっとのことで列車出発に間に合った。私はゲッチンゲンのロイツェ通り28(数学研究所からは遠くない)にある下宿に戻った。そこでは、女性大家が定期的に夕べの茶とお喋りを私にくれた。2週間のプロパガンダが彼女を穏健な保守的意見から熱烈なナチス信奉徒へと変えたことがすぐに分かった。
ドイツでは、教授、員外講師、助手すべてが政府公務員である。1933年4月7日、そのような公務員についての新しい法律がユダヤ人を解雇した(但し、1914年以前に雇われた者と第一次世界大戦の兵役についた者を除く)。加えて、"ナチズムにいつでも完全に実行しない者"を解雇した。
数学研究所において、その影響は根本的だった。クーラント、ネーター、Bernsteinは即解雇(4月25日)だった。クーラントの場合、第一次大戦での彼の軍役は補填しなかった。明らかに、彼の初期の政治的見解と広い数学的影響(フェリックス・クラインから引継がれた)が嫌われた。クーラントが退いて、Neugebauerが研究所所長を務めたが、一日だけだった。彼も解雇された時、明らかに政治的同情のためであるが、おそらく芝生を刈らなかったからであった! 4月27日には、ベルナイス、Hertz、Lewyが解雇された。ランダウは来夏学期に講義しないようにアドバイスされ、それに従った。この結果として、母宛の私の5月3日の手紙は以下である。
とても多くの教授と教員が解雇されるか又は立ち去ったので、数学科は徹底的に骨抜きとなっている。それは数学上において非常に厳しいが、人々のためにはいい選択であるとただ慰めているばかりだ。
夏学期には、事態はどうにかして進んだ。可能な学生は学位取得に急いだ。私は論文アドバイザー(パウル・ベルナイス)を失った。ヘルマン・ワイルは地位を保ち、そして厳しい口頭試問を私に与えた。私は頑張って出来たが、ハウスドルフ空間の定義で分離公理を忘れた。しかし、ワイルが一度印刷物の中で忘れたという事実を敢えて言わなかった。別の口頭試問には、Moritz Geiger教授の数学哲学のコースを取った。ユダヤ人だけれども、彼は第一次大戦に軍務したので教室に残された。しかし、彼の講義のすべてに神経質に将来の心配(当然の心配だ)をしているのに私は気づいた。
7月14日、私は以下のように母に書いた。
ごく最近、ドイツ革命は今終わり、すべての事は厳しい統制のもとで発展を進めなければならないと宣言されている。どういうわけか、それが今日まで厳しい統制のもとで万事が進んでいない、又は突撃隊が警察の権利と特権を持つという印象を与える。それがどうして起こったのか、私はうまく説明出来ない。
私の婚約者Dorothy Jonesがニューヨークから私の学位論文を完了させるための手伝いにゲッチンゲンに来た。彼女は政治的状況をよく学んだ。彼女と私が結婚許可を得るため登録事務所へ行った時、私の学生仲間Fritz Johnと彼の恋人Charlotteがそこにいたことに私達は驚いた。私達が分かるほどに彼等の状況が困難だった。彼はユダヤ人で、彼女はそうではなかった。異人種間の結婚を禁じる法律を彼は予見し、怖れたので、すぐにでも結婚すべきと彼等は心配だった。私達密かに賛同した。彼等の結婚式の後、私達を祝宴の夕べに招待した。他の客の中で、ブロンドのドイツ人若者と彼の明らかにユダヤ人恋人がいた。Dorothyは私の母へ"そのような結婚には、ロマンスに囲まれた冒険がある"と書いた。
7月25日、私は母に以下のように書いた。
政治は今まで通り興味津々に持続している。金曜日の夜、Dorothyと私は、ドイツ諸大学の新しい秩序に関するナチスの演説会に行った。最も良識のある演説だった。演説者(ベルリンの著名なナチス教授)は、科学が政治によって縛られないと訴えた。科学は独立であるべきだが、勝手ではない....と言った。会合の後、私達は下町へ行き、友人のGebhardt(彼とは演説会で会った)と一緒にコーヒを飲んだ。私達はそこで再び政治、ヒトラー主義におけるカトリック信仰の(無盲目的な)影響等を夜遅くまで議論した。最近、ナチス運動の中で非常に様々な意見があると思うようになった。あたかも外面的には同じように見えても、すべてのナチスが同じようには考えていない!
(注意、1995年: もはやカトリック信仰の議論を思い出せない。私はその頃ドイツ人のカトリック信仰に無知で、祖父の寛容を好ましいとする力強い説教の崇拝者だった。)
私の口頭試問はまだ危機だった。一つは、尊敬すべきGustav Herglotz教授の幾何的函数論だった。何をすべきか、経験者の友人達に相談した。彼等は教授が講義するのが好きだと注意した。これを私は試験中に思い浮かべた。
Herglotz: エルランゲン・プログラムとは何か?
私: すべてが群に依存します。
Herglotz: 複素解析の群とは何かね?
私: 等角群です。
等角群による幾何的函数論についての素晴らしい講義をHerglotzが始めるのに十分だった。
私の学位論文は終わり、合格した。
だが、研究所は更に損失があった。ヘルマン・ワイルはユダヤ人でないが、彼の妻がそうだった。これは、彼等の2人の息子がユダヤ人と見なされることを意味する。1933年夏学期の終わりに、ワイルは研究所の教授職を去り、プリンストン高等研究所へと向かった。合計して、1933年は18人の数学者が去るか又はゲッチンゲンの数学研究所にある学部から弾き出された。これはランダウを含んだ。彼は公的には解雇されなかったが、1933年冬学期に再度講義を始めた時、学生達は講義の完全ボイコットを組織した。ランダウはすぐに職を辞し、ベルリンへと引退した。
ベルリン大学での数学も完全に混乱を極めた。23人の学部メンバー(Richard Brauer、マックス・デーン、Hans Freudental、B. H. Neumann、Hanna Neumann、リヒャルト・フォン・ミーゼスを含む)が去った。他のドイツの大学での特定の(且つ、しばしば殆ど拡張しない)効果が、Maximilian Pinlにより4つの色で図表化されている。ゲッチンゲンでの状況の詳細な分析は、ナチス支配下のゲッチンゲンについての本の一部としてSchappacherにより紹介されている。
一人の観察者が数学における効果を以下の言葉でまとめている。
数週間内のこの作用は、何十年に渡って造られたすべての風をバラバラにするのであろう。ルネサンス時代から人間文化が経験した最大の悲劇の一つが発生した。すなわち、20世紀という条件のもとで数年前には起こるはずがないと思われたであろう悲劇である。
ゲッチンゲンでの数学を再建する試みがあった。著名な代数学者ヘルムート・ハッセが教授と研究所所長となった。一時期、彼はナチスに熱狂的な多くの数学者達(Oswald Teichmüller、Werner Weber、Edward Tornier)を扱う困難を持った。Tornierはたんに共同所長だった。彼は或る時、ハッセから監督権を奪うことを望んだ。Tornierは党を好んだ。例えば、その当時新しい雑誌ドイツ数学の1936年第一巻の2ページ目に以下のように書いた(私の翻訳[訳注: 言うまでもないことですが、この"私"はMac Lane博士のことであり、この場合の"翻訳"は独語からの英訳のことです])。
純粋数学も実体を持つ。つまり、これを禁じたい者は誰でも、哲学的に高い教養の持ち主と同じく、ユダヤ的リベラル思考の代表である....純粋数学のすべての理論は、数字又は図形のような実体に関係する具体的な問題に実際的に解答するならば、又は少なくとも、そこに発生する事柄のための構築に役立つのであれば、存在する権利を持つ。そうでなければ、それは不完全か、又は、意味のない定義で誤魔化すことによって自身と思慮のない大衆を誤らせる根無し草の名人の頭脳から生じた、ユダヤ的リベラルで混乱したドキュメントである....将来、我々はドイツの数学を持つだろう。
結局、ゲッチンゲンでの4つの教授職はハッセ、Herglotz、Kaluza、ジーゲルによって占有されたが、カール・ルートヴィヒ・ジーゲルを持って来ても、先の栄光は復活しなかった。或る時、ハッセは当局に対する自分の影響力の増大を望み、彼の義理の息子Martin Kneserによれば、ナチス党員の資格を申請したが、祖母の一人がユダヤだったかも知れないと判明した。彼の申請は戦後まで据え置かれた。戦後、ハッセは反ナチス運動の一部として解雇された。その時以降、ゲッチンゲン数学研究所は、ドイツの他大学での多くのそんな研究所の一つとして徐々に再建された。だが、元々の輝ける権勢を取り戻すには至っていない。
Dorothyと私は1933年8月に去ってから、偉大なる数学科の唯一つのモデルとして初期ゲッチンゲンの光景を宝物のように私は持ち続けた。科学だけのためではなく、その損失を悲しんだ。私はホロコーストを予想しなかったが、政治的プロパガンダの力には気をつけ、制止は私の力を超えるけれども、世界大戦の可能性を心配した。今振り返ってみて、すべての展開は、ポピュリズム、政治的圧力、計画された政治原理に対して何らかの服従によってなされた、学界と数学的人生へのダメージの確固とした実証である。
文献
[1] S. Mac Lane (1981). Mathematics at the Univer-
sity of Göttingen, 1931–1933, in Emmy Noether,
A Tribute to Her Life and Work, (J. K. Brewer and
M. K. Smith, eds.), Marcel-Dekker, New York, 1981,
pp. 65–78.
[2]
— — —, Mathematics at the University of Chicago,
in A Century of Mathematics in America, Vol. II,
Amer. Math. Soc., Providence, RI, pp. 128–151.
[3] M. Pinl, Kollegen in einer dunklen Zeit, Jahresber.
Deutsch. Math.-Verein. 71 (1969), 167–288;
(1970/71), 165–189; 73 (1971/72), 153–208; 75
(1973/74), 160–208.
[4] N. Schappacher and E. Scholz, Oswald Teich-
müller—Leben und Werke, Jahresber. Deutsch.
Math.-Verein. 94 (1992), 1–35.
[5] N. Schappacher, Das Mathematische Institut der
Universität Göttingen 1929–1950, Die Universität
Göttingen unter dem Nationalsozialismus. Das
Bedrängte Kapital ihrer 250–Jährigen Geschichte,
Munich K. G. Saur, 1987, pp. 345–373.
地球人? (スコア:1)
> そもそも後世の人々というのは地球人であって、日本人だけを対象にするのは後世に残す気持ちが始めから無いに等しいからです。
地球人とやらが相手であれば、解読の手間なんて日本語でも英語でもエスペラントでもWhitespaceでもたいして変わらないでしょうに。