taro-nishinoの日記: 虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その2
その1からの続き
虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その2
2004年10月 Allyn Jackson
新しい幾何学の誕生
30年間を振り返ると、1958年が2つの主要なツールの後に新しい幾何学のビジョンが実際に生まれた年であると今言える。2つの主要なツールとは、スキーム("代数多様体"の古い概念のメタ準同型を表現するもの)とトポス(空間の概念のメタ準同型を更に深大に表現するもの)だ。
―収穫と種子、ページ23
1958年8月、グロタンディークはエジンバラの国際数学者会議で本講演を行った。[Edin] そのトークは、注目すべき予見もあって、彼が次の12年間に研究する多くの主要テーマの概略を述べた。この時までに、彼がアンドレ・ヴェイユの有名な予想を証明しょうと目指していることは明らかだった。ヴェイユ予想は、代数多様体の離散的世界とトポロジーの連続的世界の壮大な統一性をほのめかしていた。
この時、代数幾何学は、多くの予備知識を要しない多くの未解決問題と共に、急激に進化していた。元々研究の主目標は複素数上の多様体だった。20世紀の初頭の間、この領域はGuido Castelnuovo、 Federigo Enriques、Francesco Severiなどのようなイタリア人数学者の専門だった。彼等は多くの独創的なアイデアを開発したけれども、彼等の結果のすべてが厳密に証明されたわけではなかった。1930年代と1940年代に、他の数学者、中でもB. L. van der Waerden、アンドレ・ヴェイユ、オスカー・ザリスキは、任意の体、特に標数p(数論で重要)の体上の多様体について研究したかった。だが、イタリア学派の代数幾何学の厳密性の不足のため、体について新しい基礎を構築する必要があった。これが、ヴェイユが1946年の彼の本Foundations of Algebraic Geometry [Weil1] の中でやったことだ。
ヴェイユ予想は彼の1949年の論文 [Weil2] で出現した。数論の問題に動機付けられてヴェイユは、特別な場合にEmil Artinによって導入された或るゼータ関数を研究した。リーマンゼータ関数のアナロジーで定義されたからゼータ関数と呼ばれている。標数pの有限体上で定義された代数多様体Vを与えられて、各有限拡大体に対する相当する数と同様に、Vの点の数(この体上で有理数)を数えられる。その時、これらの数は生成関数に含まれるが、生成関数はVのゼータ関数である。ヴェイユは曲線とアーベル多様体両方に対して、このゼータ関数に関する3つの事実を証明した。すなわち、有理型であり、関数方程式を満足し、その零点と極は或る特別な形を持つ。いったん変数変換されると、この形はまさしくリーマン仮説に相当する。更にヴェイユは、Vが標数ゼロの多様体Wの還元モジュロpから生じるなら、ゼータ関数が有理型関数として表現される時Wのベッチ数はVのゼータ関数から読める、と述べた。ヴェイユ予想は、射影非特異代数多様体に対してそんなゼータ関数を定義すれば、これら同じ事実が成り立つかを問うている。特に、ベッチ数のような位相的データがゼータ関数に出現するか? この代数幾何学とトポロジー間の連結の予想は、コホモロジー理論(当時、位相空間に対して開発されていた)のような新しいツールのいくつかが代数多様体での使用にも採用出来ることを仄めかす。古典的リーマン仮説との類似性のため、ヴェイユ予想の第3番目は時に"合同リーマン仮説"と呼ばれる。これは3つのうちで証明が最も難しいものとなった。
"ヴェイユ予想が作られるやいなや、それらは全く'ブラックボックス'のように信じられない声明だったためと、それらを解決するには相当に新しいツール(とにかくそれ自体でも相当な価値が無ければならない。相当な価値を持つことは全く正しかった)の開発が必要なことは明らかに思えたため、ヴェイユ予想がともかくも中心的役割を担っていることは明らかだった"とKatzは言った。
プリストン高等研究所のピエール・ドリーニュは、グロタンディークを惹きつけたのは代数幾何学とトポロジー間の連結の予想だったと言った。グロタンディークは"このヴェイユの夢をパワフルな仕組みに変える"というアイデアを好んだとドリーニュは注記した。
ヴェイユ予想は有名だったから、もしくは他の人々がヴェイユ予想を難しいと考えたから、グロタンディークはヴェイユ予想に興味を持たなかった。実際、彼は難しい問題の挑戦にはやる気がなかった。彼に興味を持たせたものは、大きく隠れた構造を指しているかも知れない問題だった。"彼は、問題の自然な生息地となる家を見つけ造ることを目指していた。それが問題を解くことよりもずっと彼に興味を持たせた部分だった"とドリーニュは注意した。このアプローチは、その時代の別の偉大な数学者、John Nashのアプローチと対照的だ。全盛期に、Nashは同僚が最も重要でやりがいがあると考えた特定の問題を探し出した。[Nasar] "Nashはオリンピック選手のようだった。彼はいろいろな個人的挑戦に興味を持った"とミシガン大学のHyman Bassは言った。Nashがプロブレムソルバーの好例なら、グロタンディークは理論構築者の好例である。グロタンディークは"数学とは何であろうかと広範囲に渡るビジョンを持っていた"とBassは言った。
1958年の秋、グロタンディークはハーバード大学数学科へ初めて訪問した。Tateがそこで教授で、主任教授はオスカー・ザリスキだった。この時までに、1940年代に証明されたザリスキの大きな結果の一つである連結定理をグロタンディークは最近開発されたコホモロジー理論によって再証明していた。ブラウン大学のデヴィッド・マンフォード(彼は当時ザリスキの学生だった)によれば、ザリスキは自分では新しい手法を取上げなかったが、それらのパワーを理解し彼の学生に慣れて欲しいと思った。これがグロタンディークをハーバードに招待した理由だった。
数学者としてザリスキとグロタンディークは非常に異なっていたけれども、彼等は非常に仲がよかったとマンフォードは注記した。ザリスキは行き詰まった時、黒板に行き交わる曲線をよく書いたものだと言われた。それはいろいろなアイデアの理解を新鮮にしたのであろう。"噂は彼が黒板の隅にこれを書き、そして消してから代数をやったということだ。幾何学的な絵を描き幾何から代数への連結を頭の中で復元することにより頭をクリアにしなければならなかった"とマンフォードは説明した。マンフォードによれば、これはグロタンディークは決してしなかったであろうことだ。極端に簡単で殆ど自明なものを除いて、彼は実例から研究をしなかったようだ。ホモロジーのダイアグラムを別にして、彼は殆ど絵も書かなかった。
グロタンディークが初めてハーバードに招待された時、訪問より前に彼はザリスキと文通していたとマンフォードは回想した。下院反米活動委員会の時代からまだ日も浅く、ビザを得るための必須事項は米国政府打倒に働かないという宣誓だった。グロタンディークはザリスキにそのような誓約を拒否すると言った。拘置所に入るかも知れないと言われた時、グロタンディークは学生が訪問出来る限り、そして彼が望むだけの多くの本を持てるなら、拘置所も結構だと言った。
グロタンディークのハーバードでの講義で、マンフォードは息を飲むほどの飛躍を抽象の中に見た。一度彼はグロタンディークに或る補題を証明する方法を尋ね、非常に抽象的な議論で答えを得た。そんな抽象的議論が非常に具体的な補題を証明出来るとマンフォードは最初信じなかった。"それから私は別れて数日間考えた。そして、まさに正解だと分かった。彼は私が会ったことのある他の誰よりも、この絶対にぎょっとさせる飛躍をものの中に非常な規模の抽象化で構成する能力を持っていた...彼はいつも問題を体系付け、すべてのものを剥ぎとり、そのため何かが残っていると人が思わないような方法を求めていた。それでも何かが残っていて、彼はこのうわべの真空の中に実際の構造を見つけられた"。
英雄的時代
IHÉSの英雄的時代の間、デュドネと私のみがメンバーで、IHÉSに威信と科学的世界の観客を与えている唯一のメンバーだった...デュドネと共に私が研究所(私は一研究員だったが)の"科学的"共同創始者のようにちょっと感じた。私は自分の寿命をそこで終えると予想した! 私は結局IHÉSを自分と重ね合わせるようになった。
―収穫と種子、ページ169
1958年6月、フランス高等科学研究所(IHÉS)がパリのソルボンヌでのスポンサー会議で正式に決定された。創設者Léon Motchane(物理学の学位を持つ起業家)はプリストン高等研究所と類似な独立した研究所をフランスに造るというビジョンを持っていた。IHÉSの元々の計画は3つの分野での基礎的研究に的を絞ることだった。すなわち、数学、理論物理学、人間科学論。3番目の分野が足掛かりを掴めなかったが、10年のうちにIHÉSは数学と理論物理学で少ないが一流の研究員と活発な交流プログラムを持つ、世界一流の中心の一つとなった。
科学史のDavid Aubinの学位論文 [Aubin] によれば、Motchaneがデュドネとグロタンディークを新しく設立されるIHÉSの教授職を受けるよう説得したのは、1958年のエジンバラ会議でか、又はおそらくそれ以前だった。Cartierは[Cartier2]の中で、Motchaneは元々デュドネを雇いたかったが、デュドネはグロタンディークにも申し入れすることが職を引き受ける条件にしたと書いた。IHÉSは最初から国とは無関係だから、無国籍なのにもかかわらずグロタンディークを雇うことに問題は無かった。2人の教授は正式に1959年3月に就任し、その年の5月にグロタンディークは代数幾何学のセミナーを始めた。1958年の会議でフィールズ賞を受賞したルネ・トムが1963年の10月に研究員に加わり、IHÉSの理論物理学部門は1962年にLouis Michel、1964年にDavid Ruelleの任命で始まった。
1962年まで、IHÉSは恒久的な場所を持たなかった。事務室はティエール財団から借り、セミナーはそこでやるか、又はパリ内の大学で行われた。IHÉSの初期ビジターArthur Wightmanは彼のホテルの部屋で研究することとされたとAubinは書いた。ビジターが不十分な図書を指摘すると、グロタンディークは"我々は本を読まない。それらを書くのだ!"と答えたと言われた。実際、初期時代において研究所の活動の大部分が"Publications mathématiques de l’IHÉS"に集中した。"Publications mathématiques de l’IHÉS"は、基本的研究Éléments de Géométrie Algébrique(一般的に頭字語EGAで知られる)の初巻から始まった。実を言うと、デュドネとグロタンディークがIHÉSの職に就任するより半年前にEGAの執筆が始まった。[Corr]の中の参照は執筆開始を1958年の秋と指定している。
EGAの原作者は"ジャン・デュドネの協力があって"グロタンディークとされる。グロタンディークがノートと草稿を書き、それをデュドネが肉付けし洗練した。Armand Borelが説明したように、グロタンディークがEGAのグローバルビジョンを持つ人で、一方デュドネは一行毎に理解した。"デュドネはこれをかなり重いスタイルに書いた"とBorelは注意した。と同時に"デュドネは勿論非常に有能だった。他の誰も自身の研究を犠牲にしないで、それを出来なかったであろう"。その当時、その分野に入りたい一部の人にとってEGAから学ぶことは大変な挑戦であっただろう。現在では他に多くの、もっとアプローチしやすいテキストがあるので、EGAは滅多に入門として使用されることはない。だが、それらのテキストはEGAが目指していること、すなわちスキームを調べるために必要なツールを十分かつ組織的に説明することをしていない。Gerd Faltings(現在、ボンのマックス・プランク研究所の数学部門にいる)がプリストン大学にいた時、博士課程の学生にEGAを読むように勧めた。そして、今日の多くの数学者にとってEGAは依然として有益であり総合的な参考書だ。現在のIHÉS所長Jean-Pierre Bourguignonは毎年EGAが100冊以上売れていると言う。
EGAは何をカバーするかグロタンディークの計画は広大だった。1959年8月からのセールへの手紙に彼は簡単な概略を与えたが、基本群、カテゴリ理論、剰余、双対、交叉、ヴェイユコホモロジー、"事情が許せば、少しのホモトピー"を含んだ。"予期しない困難がなければ、又は私が泥沼にはまらなければ、multiplodocusは3年、せいぜい4年で出来るはず"とグロタンディークは彼とセールのジョーク術語"multiplodocus"(非常に長い論文を意味する)を使い楽観的に書いた。"我々は代数幾何学を始められるだろう!"と彼は歓声を上げた。実のところ、指数的膨張の後にEGAは流れを枯渇した。1章と2章は其々1巻、3章は2巻、最後の4章は4巻を突破している。合計して、それらは1800ページからなる。グロタンディークの計画に達していないにもかかわらず、EGAは記念碑的作品である。
EGAのタイトルがニコラ・ブルバキによるÉléments de Mathématiqueを真似ているのは偶然ではなく、結局ユークリッドのElementsを真似ている。グロタンディークは1950年代末から数年間ブルバキのメンバーで、多くの他のメンバーと親しかった。ブルバキは数学の基礎的研究書のシリーズを協力して書く数学者(彼等の殆どはフランス人)の集団の筆名だった。
デュドネはアンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、アンドレ・ヴェイユと共にブルバキグループの創設者だった。通常約10名のメンバーがいて、グループの構成は数年に渡って進化した。最初のブルバキ本は1939年に出現し、グループの影響力は1950年代と1960年代の間絶頂だった。本の目的は、大部分の数学者に本が有用である普遍性のレベルで数学の中心分野の公理的処方を与えることだった。本は、グループのメンバーで活発な、時には激越した議論のるつぼの中で生まれた。メンバーの多くが強い個性と高度に個人的見解を持っていた。25年間ブルバキのメンバーだったBorelは、この共同制作は"数学史の中で唯一の出来事"だったかも知れぬと書いた。[Borel] ブルバキはその時代の若干の一流数学者の努力を分かち合った。彼等は無私かつ匿名で、その分野の広大な部分を利用しやすくするであろう本の執筆に相当な時間とエネルギーを費やした。テキストは大きなインパクトを持ち、1970年代と1980年代までに、ブルバキの影響が大きすぎたと不満があった。また、何人かは行き過ぎた抽象化と普遍化を持つとして本のスタイルを批判した。
ブルバキの研究とグロタンディークの研究は、普遍性と抽象性のレベルで、また根本的、徹底的、系統的なことを狙っている意味でいくらかの類似性を帯びている。大きな違いは、ブルバキは数学分野の範囲をカバーしたが、グロタンディークはヴェイユ予想を第1目標として、代数幾何学の新しいアイデアの開発に焦点を合わせた。その上に、グロタンディークの研究は彼自身の内面的ビジョンに集中したが、ブルバキはメンバーの見解の総合を築いた共同成果だった。
Borelは [Borel] の中で、1957年3月のブルバキ会議を、層理論に関するブルバキ草稿をもっとカテゴリ的見方からやり直すべきだというグロタンディークの提案のため、"頑固なファンクタの会議"と名付けた。基礎構築の無限サイクルに陥ると思われたので、ブルバキはこのアイデアを却下した。グロタンディークは"彼の大きな装置を持っており、ブルバキは彼にとっての全体ではなかったので、実際にはブルバキに協力出来なかった"とセールは回想した。その上に、"彼はブルバキのシステムを余り好きではなかったと思う。ブルバキで、私達は実際に草稿を細かく議論し批判したものだった...それは彼の数学のやり方ではなかった。彼は自分でやりたかった"とセールは述べた。多くのメンバーと親しいままだったけれども、グロタンディークは1960年にブルバキを去った。
ヴェイユとの衝突のためにグロタンディークはブルバキを去ったという話が伝わっているが、実のところ二人はちょっとだけオーバーラップしたに過ぎなかった。50歳でメンバーは引退しなければならぬという勅令を守って、ヴェイユは1956年にグループを去った。それでも、グロタンディークとヴェイユは数学者として非常に違った。ドリーニュが言ったように、"ヴェイユは、グロタンディークがイタリア人幾何学者のやったこと、古典的文献全体が何であったか、余りにも知らなさすぎるとちょっと感じた。そして、ヴェイユは大きな装置を構築するスタイル好まなかった...彼等のスタイルは非常に違った"。
EGAを別にして、グロタンディークの代数幾何学における全作品の別の大きな部分はSGAとして知られる、Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marieであり、それはIHÉSセミナーで行われた講義の筆記録を含む。それらは元々IHÉSにより配布された。SGA 2はNorth-HollandとMassonの共同で刊行され、残りの巻は Springer-Verlagによって刊行された。SGA 1は1960–1961年セミナーから始まり、シリーズ最後のSGA 7は1967–1969年から始まる。EGA(基礎を据える目的がある)と対照的に、SGAはグロタンディークのセミナーで展開した独自の研究を書いている。彼はパリのブルバキセミナーで多くの結果を発表したが、それらはFGA、Fondements de la Géométrie Algébriqueに集められ、1962年に出現した。EGA、SGA、FGA合わせて約7500ページにのぼる。
魔法の送風機
数学で他の何よりも私を魅了する(そして確かにいつも魅了して来た)一つのことがあるとすれば、それは"数"でも"数量"でもなく、いつも形式である。そして、形式自体が私達に見せる夥しい顔の中で、何よりも私を魅了し、魅了し続ける一つは数学的事柄に隠れている構造である。
―収穫と種子、ページ27
収穫と種子の最初の巻で、グロタンディークは非数学者が近づきやすいように彼の研究の概要の解説を行っている。(ページ25-48) そこで、彼はこの研究は2つの世界の統一を求めているとせいぜい基本的なレベルで書いている。すなわち、"算術的な世界、そこには連続の概念を持たない(いわゆる)'空間'が住み、そして連続的数量の世界、そこには言葉の真の意味での'空間'が住み、解析学者には近づきやすい"。ヴェイユ予想の解決が非常に待ち望まれていた理由はまさしく、この統一の手がかりを与えていたからである。ヴェイユ予想を直接に解こうとするよりも、グロタンディークはそれらの完全な観点を一般化した。そうすることは、予想が住んでいる大きな構造を彼に理解させ、その大きな構造の束の間の一瞬のみを与えた。収穫と種子のこの節で、グロタンディークはスキーム、層、トポスを含む彼の研究の主要アイデアのいくつかを説明した。
基本的に、スキームは代数多様体の概念の一般化である。素数標数の有限体の配列を与えられて、スキームは順次、各自異なる幾何を持つ多様体の配列を造る。"異なる標数の異なる多様体の配列は一種の'多様体の無限送風機'(各標数に対して一つ)として視覚化出来る。'スキーム'はこの魔法の送風機であり、異なる非常に多くの'枝'のような、すべての可能な標数の'アバター'又は'化身'を連結する"とグロタンディークは書いた。スキームに対する一般化は、多様体の異なる"化身"のすべてを統一的な方法で研究することを可能にする。グロタンディーク以前は、"人はそれが出来ると信じなかったと思う。余りにも急進的だった。これがうまく行く、完全な一般性でうまく行く方法かも知れぬと考えることすら勇気が無かった"とMichael Artinはコメントした。
19世紀のイタリア人数学者Enrico Bettiの洞察に始まって、位相空間の研究ツールとして、ホモロジーとその双対であるコホモロジーが開発された。基本的にコホモロジー理論は不変式を与えたが、その不変式は空間をいろいろな様相に測るための"尺度"と見なされる。ヴェイユ予想に内在している考察に掻き立てられて、大いなる希望は、位相空間に対するコホモロジー的手法が多様体とスキームとの使用に採用出来る可能性だった。この希望はグロタンディークと協力者の研究によってかなりな程度にまで実現した。"これらのコホモロジー手法を代数幾何学に持ち込むのは昼と夜に似ていた。その分野を完全にひっくり返した。フーリエ解析前後の解析学に似ている。いったんフーリエ手法を得ると、関数を考察する方法に突如広く深い考察を持つ。コホモロジーと似ていた"とマンフォードは注記した。
層の概念はジャン・ルレイによって考案され、アンリ・カルタンとジャン=ピエール・セールによって更に発展された。FAC("Faisceaux algébriques cohérents"[訳注:"代数的連接層"])として知られる画期的な論文 [FAC] で、セールは代数幾何学で層がどのように用いられるか示した。層とは何か正確に言わないで、グロタンディークは収穫と種子の中で、この概念がいかに風景を変えたか記述した。すなわち、層のアイデアがやって来た時、あたかも古き良きコホモロジー"尺度"が突然に新"尺度"の無限配列に増殖し、すべての数量と形式において、固有の測度作業に完全に適していた、かのようだった。更に、空間上のすべての層のカテゴリがとても多くの情報を伝播するので、その空間が何であるか実質的に"忘れ"られる。情報全体が層の中にある―グロタンディークが言うところの、発見への道に案内する"寡黙で確かなガイド"だった。
トポスの概念は"空間の概念のメタ準同型"だとグロタンディークは書いた。層の概念は、位相的背景(空間が住む)からカテゴリ的背景(層のカテゴリが住む)への変換の一つの方法を与える。その時トポスは、(通常の空間から生じる必要はない。それでも)層のカテゴリの"立派な"プロパティをすべて持つカテゴリとして記述出来る。トポスの概念は、"位相空間で重要なものは、'点'又は点の部分集合とそれらの近接関係などでは全然なく、むしろ空間に関する層とそれらが形作るカテゴリである"という事実を際立たせるとグロタンディークは書いた。
トポスのアイデアを考えつくために、グロタンディークは"空間の概念について非常に深く考えた"とドリーニュはコメントした。"ヴェイユ予想を理解するために彼が造った理論は、最初に(空間の概念の一般化である)トポスの概念を造り、次に問題に採用されるトポスを定義することだった"と説明した。グロタンディークも"人は実際にトポスと一緒に働ける。つまり、私達が通常の空間について持つ直感はトポスにおいても働く...これは実に深いアイデアだった"と明かした。
収穫と種子の中で、グロタンディークは、技術的な観点から彼の数学における研究の大部分は不足しているコホモロジーを開発することにあったとコメントした。エタール・コホモロジーがそのような理論の一つで、特にヴェイユ予想に適用するためにグロタンディーク、Michael Artin、その他の人によって開発された。実際、彼等の証明の中で重要な構成要素の一つだった。グロタンディークは更に進めモゥティブの概念を開発したが、これを"究極のメタコホモロジー的不変式"と表現し、モゥティブ以外のすべてがモゥティブの異なる実現又は化身である。モゥティブはまだ理解を超えたままであるが、その概念は多くの数学を生成した。例えば1970年代に、ドリーニュとIASのRobert Langlandsはモゥティブと保型表現の間の正確な関係を予想した。この予想は、今はいわゆるLanglandsプログラムの一部だが、[Langlands] の中で出現した。トロント大学のJames Arthurはこの予想を一般的に証明することは何十年先だと言った。しかし、彼は、フェルマーの最終定理の証明でAndrew Wilesがしたことは本質的に楕円曲線から来る2次元モゥティブの場合にこの予想を証明することだったと指摘した。別の例はモゥティブ的コホモロジーに関するVladimir Voevodskyの研究で、それに対して2002年に彼はフィールズ賞を受賞した。この研究はいくつかのグロタンディークのモゥティブに関するオリジナルのアイデアに基盤を置いている。
この数学研究の回顧的要約を振り返って、グロタンディークは本質とパワーを構成するものは結果又は大定理ではなく、"アイデア、いや夢想でさえも"と書いた。(ページ51)
グロタンディーク学派
1970年の最初の"目覚め"の瞬間まで、私の学生との関係は、私自身の研究に対する私の関係と同じく、満足と喜びの源であったし、私の人生での調和感の現実で非の打ち所が無い基盤の一つでもあり、引続き私の人生に意義を与えていた...。
―収穫と種子、ページ63
1961年秋のハーバード訪問の間に、グロタンディークはセールに"ハーバードでの数学的雰囲気は素晴らしく、パリに比べて実に新鮮だ。パリは毎年陰気になっている。ここでは、スキームの言葉に馴染み始め、興味ある問題について研究すること以外に何も要求しない多くの頭のいい学生がいて、彼等は明らかに無尽蔵だ"と書いた。[Corr] その時Michael Artinは1960年にザリスキの下で学位論文を終えた後に、ベンジャミン・パース インストラクタとしてハーバードにいた。学位論文の直後、Artinはスキームの新しい言葉の習得にとりかかり、エタール・コホモロジーのアイデアにも興味を持つようになった。グロタンディークが1961年ハーバードに来た時、"私はエタール・コホモロジーの定義を尋ねた"とArtinは笑いながら回想した。その定義はまだ構築されていなかった。"実際、私達は秋の間ずっと定義の議論をした"。
1962年マサチューセッツ工科大学へ移った後、Artinはエタール・コホモロジーについてセミナーをした。彼は次の2年間の大部分をIHÉSでグロタンディークとの研究に費やした。いったんエタール・コホモロジーの定義が得られると、理論を飼い慣らし、実際に役立つツールに変えるためにはすべき研究が多くあった。"その定義は素晴らしく思えたが、何かが有限、又は計算が可能なのかそうでないのかすら保証がなかった"とマンフォードはコメントした。これはArtinとグロタンディークが嵌った研究だった。一つの成果はArtinの表現可能性定理だった。Jean-Louis Verdierと共に、彼等はエタール・コホモロジーに的を絞った1963–64年セミナーを指揮した。そのセミナーはSGA 4の3巻の中に書き上げられ、合計ほぼ1600ページだった。
1960年代初期のパリっ子数学の現場についてグロタンディークの"陰気"評価に異論があるかも知れないが、彼が1961年にIHÉSへ戻りセミナーを再開した時に、いろいろな押し上げがあったことは間違いない。その雰囲気は"素晴らしかった"とArtinは回想した。そのセミナーは、他所から来ている数学者と同様にパリっ子数学の有力指導者に非常に人気があった。才気溢れ熱心な学生のグループはグロタンディークの周辺に集まり始め、彼の指導のもとで学位論文(IHÉSは学位を与えないので、公式的に彼等はパリ内外の大学の学生だった)を書き始めた。1962年までにIHÉSは、ビュール=シュリヴェットのパリ郊外にあるボアマリーと呼ばれる、落ち着いて木の多い公園の真ん中にある恒久的住居に移った。セミナーが開かれた望楼のような建物は大きな絵が書かれた窓、開放的で風通しの良い雰囲気を持ち、変わっていて劇的な背景を与えた。グロタンディークは活動のダイナミックな中心だった。"セミナーは非常にやり取りが活発だったが、グロタンディークは彼がスピーカーであろうがなかろうが君臨した"と、1960年代にIHÉSを訪問したHyman Bassは回想した。グロタンディークは非常に厳しく、人々には手ごわかったであろう。"彼は不親切ではなかったが、甘くもなかった"。
グロタンディークは学生と研究する或るパターンを開発した。典型的な実例は、1964年にグロタンディークの学生となった、パリシュッド大学のLuc Illusieだ。Illusieはパリでアンリ・カルタンとローラン・シュワルツのセミナーに参加し、Illusieはグロタンディークのもとで学位論文をした方がいいと勧めたのはカルタンだった。Illusieは、その時までトポロジーしか研究していなかったが、代数幾何学の"神"に会うことに不安だった。後で分かったことであるが、グロタンディークは非常に親切且つ友好的で、Illusieに何を研究して来たか尋ねた。Illusieが短く話した後、グロタンディークは黒板に行き、層、有限性条件、擬似コヒーレンスなどの議論を始めた。"海のようであり、黒板には数学の絶え間ない流れがあるかのようだった"とIllusieは回想した。それが終わってグロタンディークは、翌年のセミナーはL-関数とl-進コホモロジーにするが、Illusieはそのノート作成を手伝うべきだと言った。Illusieが代数幾何学について何も知らないと主張した時、グロタンディークは、それは問題ではない、"君はすぐに習得するだろう"と言った。
そしてIllusieはやった。"彼の講義は非常に明快で、必須事項、予備知識を思い出させるように多くの工夫をした"とIllusieは述べた。グロタンディークは秀でた教師であり、我慢強く、事を明快に説明することに熟練していた。"仕組みがどう動くかを示す非常に簡単な例を説明する時間を取った"とIllusieは言った。グロタンディークは、"自明"、従って余りにも明らかすぎて説明を要しないとよく誤魔化されて来た形式的属性を議論した。普通は"それを取上げないし、時間をかけない"とIllusieは言った。しかし、そういうことは教育学上非常に有益である。"時にはちょっとくどかったが、理解のためには非常によかった"。
グロタンディークはIllusieにセミナーの要約(SGA 5のexposés I, II, III)のためにノートを書き上げる任務を与えた。ノートを書き上げ、"それらを彼に渡す時、私は震えていた"とIllusieは回想した。数週間後、ノートを検討するために家に来ないかとグロタンディークはIllusieに言った。グロタンディークは同僚や学生とよく家で研究した。グロタンディークがノートを取出しテーブルに置いた時、Illusieはノートが鉛筆で書かれたコメントで真っ黒になっているのを見た。グロタンディークが各コメントを読み上げながら、二人は数時間座っていた。"彼はコンマ、ピリオドについて批判したであろう、アクセントについて批判したであろう、内容についても深く批判し、別の編成を提案したであろう、それがコメントの全種類だった。だが、彼のコメント全体が的を得ていた"とIllusieは言った。書かれたノートについて、この種の一行ごとの批判は学生と一緒に作業するグロタンディークの典型的方法だった。数人の学生がこの種の親密な批判に耐え切れず、他の人の下で学位論文を書くことになったとIllusieは回想した。一人はグロタンディークと会った後に殆ど泣かんばかりだった。"私が憶えている一部の人達はそれをあまり好まなかった。...だが、コメントはささいな批判ではなかった"とIllusieは言った。
Nicholas Katzも1968年にポストドクターとしてIHÉSを訪問した時、任務を与えられた。グロタンディークはKatzにレフシェッツペンシルに関してセミナーで講義出来るだろうと勧めた。"レフシェッツペンシルがあるのは知っていたが、それを除けば殆ど何も知らなかった。だが、年の終わりまでにセミナーで2,3のトークをした。それらは現在SGA 7の一部として存在する。そのことから私は非常に多くのことを学び、私の将来に大きな影響を与えた"とKatzは回想した。グロタンディークはたぶん一週間毎の一日をビジターに話すためにIHÉSへ来るのが常だったとKatzは言った。"本当に不思議だったことは、彼はその頃どういうわけか彼等を何かに興味を持たせ、彼等にすべきことを与えるのが常だった。だが、と同時に、そんな特別な人に考えさせる良い問題が何であるか、一種の不思議な洞察力だと私には思える。そして彼はとにかく数学的に信じられないほどカリスマ的だったから、未来へのグロタンディークの長期ビジョンの一部である何かをしないかと求められることに人々は特権だと感じたようだ"とKatzは説明した。
ハーバード大学のBarry Mazurは今でも、1960年代初期にIHÉSでの初めての会話中でグロタンディークが彼に提出した問題を憶えている。その問題はGerard Washnitzerが元々グロタンディークに尋ねたものだった。問題は、体上で定義された代数多様体が、体から複素数への2つの異なる埋込みによる2つの位相的に異なる多様体を与えられるか? セールが早くに2つの多様体が異なるだろうことを示している実例を与えた。Mazurはこの問題に刺激を受けたArtinと一緒にホモトピー理論の或る研究を続けた。だが、グロタンディークがこの問題を提出した時、Mazurは熱心な微分位相幾何学者だったし、そんな疑問は彼には思いもよらなかったであろう。"グロタンディークにとって、それは当然な疑問だった。だが私にとって、それは代数について考え始めさせる、まさに動機の類だった。グロタンディークは人々と未解決問題を組合せる才覚を持っていた。彼は人を見定め、人にとって世界の解明に繋がるかも知れぬ問題を提出したのだろう。それは、非常に素晴らしく稀な感知力からなる手段だ"とMazurは言った。
IHÉSでの学生や同僚との研究に加えて、グロタンディークはパリ外の大勢の数学者と文通を維持し、彼等の一部は他所で彼のプログラムの一部を研究していた。例えば、バークレー・カリフォルニア大学のRobin Hartshorneは1961年にハーバードにいて、グロタンディークのハーバードでの講義から彼の学位論文ためのトピックのアイデアを得たが、そのトピックはヒルベルトスキームについてであった。学位論文を書き上げてHartshorneはコピーをグロタンディーク(彼はその時までにパリに戻っていた)に送った。1962年9月17日付けの返信に、グロタンディークはその学位論文について簡単で肯定的な注意をした。"手紙の次の3ページ又は4ページは、私が展開出来るかもしれない更に進んだ定理やその分野で人が知りたい他の事柄に関する彼のアイデアがびっしり"とHartshorneは言った。その手紙が示した事柄の一部は"途方もなく難しい"とHartshorneは注記した。その他は注目すべき予見を示している。アイデアのほとばしりの後、グロタンディークは学位論文に戻り、詳細なコメントからなる3ページを費やした。
1958年エジンバラ会議での彼のトークの中で、双対性の理論に対する彼のアイデアの概要を述べたが、IHÉSセミナーでは他のトピックで忙しかったので、双対性の理論は取上げられなかった。そういうことで、Hartshorneは双対性に関するセミナーをハーバードで行い、ノートを書き上げることを申し出た。1963年の夏過ぎに、グロタンディークはHartshorneに約250ページの"プレノート"を供給した。その"プレノート"がセミナーの基礎となり、Hartshorneはセミナーを1963年の秋に始めた。聴衆からの質問はHartshorneが理論を展開し洗練するのに役立って、系統だった方法で理論を書き始めた。彼は各章を批評のためにグロタンディークに送るのが常だった。"いたるところ赤インクで覆われて戻って来るのが常だった。私は彼が言ったすべてを直し、新しいバージョンを彼に送ったものだ。そして、更に赤インクが増えて再度戻って来るのが常だった"とHartshorneは回想した。これは潜在的に終わりなきプロセスだと分かったので、Hartshorneは或る日原稿を刊行のために発送することにした。それは1966年にスプリンガー講義ノートシリーズに出現した。[Hartshorne]
グロタンディークは"とても多くのアイデアを持っていたので、その当時通しで彼は世界の真剣なすべての代数幾何学研究者を基本的に忙しくさせた"とHartshorneは述べた。どのように彼はそんなチャレンジ精神を保ったのか? "簡単な答えは無いと思う"とArtinは返答した。しかし、確かにグロタンディークのエネルギーと広さが要因だった。"彼は非常にダイナミックで、すべての領域をカバーした。注目すべきことの一つは、彼がその分野の完全なコントロールを握っていたこと。12年間前後の間、その分野には無精者は住まなかった"。
IHÉS時代の間がグロタンディークの数学専念のすべてだった。研究に対する彼の恐ろしいエネルギーとキャパシティは、彼の内なるビジョンへの執拗な忠誠と結合して、多くの人を流れの中へ押し流したアイデアの洪水を造った。彼は自分が立てた威圧感いっぱいのプログラムにひるまず、突入して大小の仕事を引受けた。"彼の数学予定はどんな人間が一人で出来るであろうものよりずっと多い"とBassはコメントした。彼は研究の大部分を彼の学生と同僚に分割し、一方でかなりなものを自分で引受けた。収穫と種子で説明したように、彼にモチベーションを与えたものは理解したい欲求だけであり、実際彼を知っていた人達は彼がどんな意味の競争によっても駆り立てられなかったと確証する。"当時、誰か他の人前で何かを証明する考えは無かった"とセールは説明した。そしていずれにせよ、"ある意味で、彼は自分自身の方法でものをやりたかったし、本質的に他の誰もが同じことをやりたくなかったので、彼は誰とも競争にならなかっただろう。仕事が多過ぎだった"。
グロタンディーク学派の権勢はいくらか有害な影響を持った。グロタンディークの著名なIHÉS同僚ルネ・トムでさえ圧力を感じた。[Fields] の中で、ルネ・トムはグロタンディークとの関係は他のIHÉS同僚よりも"好ましくない"と書いた。"彼の技術的優勢は圧倒的だった。彼のセミナーはパリっ子数学の全体を惹きつけたが、一方で私は何も新しいことを提供しなかった。それが私に厳密数学的世界を去らせ、形態形成のようなもっと一般的概念に取組ませた。その分野は私にもっと興味を持たせ、非常に一般的な形の'哲学的'生物学へ私を導いた"。
1988年のテキストUndergraduate Algebraic Geometryの終わりにある歴史的注意の中で、Miles Reidは"グロタンディーク個人信仰は深刻な副作用があった。ヴェイユのファンデーションをマスターすることに人生の大部分を費やした多くの人は拒絶され恥をかいた。...全世代の学生(主にフランス人)は、高性能抽象形式に盛装出来ない問題は研究に値しないという阿呆な信念へと洗脳された"と書いた。グロタンディーク自身は抽象化のための抽象化を決して追求しなかったけれども、そんな"洗脳"はおそらく時代の流行の不可避な副産物だった。"ペースを守り、生き残る"ことが出来た少数のグロタンディークの学生を別にして、彼のアイデアから最も恩恵を受けた人達は離れて影響を受けた人達、特にアメリカ人、日本人、ロシア人だった、ともReidは注記した。Pierre Cartierは、Vladimir Drinfeld、Maxim Kontsevich、Yuri Manin、Vladimir Voevodskyのようなロシア人数学者の研究にグロタンディークの遺産を見ている。"彼等はグロタンディークの真の精神を捉えているが、他のことにそれを結び付け出来ている"とCartierは言った。
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虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その2 More ログイン