
OK,OK。中国語の部屋には、内部状態がない。規則の変更規則がない。ここらは致命的。プログラムのいいところは、書き換えができること。自分で自分を書き直すことができる。
意味論をプログラム的に記述できないなら、その内容を議論できるレベルで、意味論を記述することはできるのか。
フレーム問題で、人間はフレーム問題をある意味解決しているという。まあまあうまくやっているという。それはウソっぽい。普通の生活の中でやりなおしはあまりない。できもしないやり直し前提で行動を決めたり、どうしようもない過去をくどくど考えることはあまりしない。でも(1)する人もいる。(2)コンピュータゲームの中では時間のロールバックや、やりなおしは当たり前。うまくやっている/やっていないという評価があいまいだから。
コンピュータにけちつけるんじゃなくて、「これこそ心。これはプログラムできない。」という例を持ってきて欲しい。行動って(1)論理的(2)直感的(3)ランダム の3つくらい分類できるのでは?そのうちほとんどが論理的であってその部分がプログラムで実現可能であればそれは大体実現可能といっていいのでは?中国語の部屋の隣で心を持っている存在が答えをいちいちチェックする。こりゃ問題だな と思うときにのみ答えを書き換える。あるいは神様の部屋 っていうのはどう?神様の部屋にはしょぼいコンピュータがあって、fortuneを実行できる。まあサルが巨大なつぼからフォーチュンクッキーをひとつだけ取り出す。でもいいや。それを巫女さん(神主可)がそれらしく読んで人々に説明する。そこに神意はありそう?神様に心はありそう?これは信仰心が強い人には無理か。本当のおみくじには神意が感じられ、ウソのおみくじにはそれがない と簡単に言われそう。
たぶんそんな例は出ないよ。 (スコア:1)
ただし、既になされた個人の経験は不可能と言っていい程コピー困難ではあるので、これを以てプログラミング不可能と主張する事はできるかもしれない。