パスワードを忘れた? アカウント作成
154661 journal

nagajisの日記: 双頭レール(と堀田義次郎)

日記 by nagajis

滋賀へゆく時にいつも気になっていた物件へ立ち寄ってみたところ、それとは別件で双頭レールを発見してしまった。「やったぜイヤッホウ(AA略」と思ったものの、帰って調べると既知物件だった・・・という忙しい一夕を過ごした。

も少し詳しく浮き沈みを書く。場所は東山トンネルの西側に架かっている人道橋の北側たもと。境界柵に使われている。真っ暗な中予期せず発見してしまい、触診したら刻印がわかるかもと思って触った一本に見事に刻印があって、しかし真っ暗ゆえに何と刻されているのか確認できず、そこでふとOさんに教わった技を思い出し、ヒップバッグをガサゴソしたらLEDライトが出てきて……!

注記なし

注記あり(あ、Coのoが抜けてる(汗))

Oさんの言や違わず。刻印を調べる時は夜来て横からライトを当てて撮るといい。DARLINGTON IRON Co.,Ltd,の1873年もの。どこで使われてたんだろう?

--------------------

本来の要件は滋賀県民局で村田鶴関連の資料閲覧をすることにあったのだが、その成果物たるCFを県民局に置き忘れてきてしまった(馬鹿。送ってもらえるやろか・・・

梗概、一部書き直す必要があるかも知れない。村田の滋賀県着任は10月15日ではなく2日。その辞令と同日付けで初代隧道工営所主任・遠山貞吉は大津工区長になっている。したがって隧道工営所主任は常時2人体制ではなく、1人の主任が犬上郡坂田郡に駐在していたことになり(それはそれで佐和山隧道・横山隧道の設計者=村田鶴という保証になるのだけれど)、「隧道工営所2代目主任として」村田が滋賀県に呼ばれてきたことがはっきりした。

それから一つ面白いことを発見。堀田義次郎は大正4年〜6年にかけて滋賀県内務部長をしていたが、その前任地は三重県であった(滋賀県内務部長→愛知県内務部長を経て滋賀県知事)。両県の内部をつなぐキーパーソンがいたのではないかと想像していたのだが、その張本人が堀田だったとは。書をよくし、安来節普及の恩人でもあるらしい面白い人だとばかり思っていたが。侮れない。

大正13年、旧国道2号線鈴鹿峠に鈴鹿隧道が作られた。ここで採用された下見板張り風の意匠は滋賀県の百瀬川隧道(大正14年)、観音坂隧道(昭和8年)、谷坂隧道(昭和10年)に伝播した。一方、三重県内には鈴鹿隧道とうり二つの高尾谷隧道が作られている(昭和7年)。さらには鈴鹿隧道のゴチック三つ鉾ピラスターと同形のものが愛媛県の俵津隧道 高研隧道 土屋隧道に存在する。これだけの相似がなぜ起こったのか、どのような径路で伝わったのかは、いまだ解明されていない。そこに堀田というつながり、言い替えれれば滋賀〜三重のツテがわかったというわけで、解明の手掛かりの一つになりそうな塩梅だ。

しかも面白いことに(とは書くが面白がっているのは自分だけだろうが)、堀田が滋賀県知事である間に佐和山・横山・鈴鹿・百瀬川という初期意匠隧道群が立て続けに誕生しているわけで。堀田自身の働きかけではないことは間違いないと思う(堀田自身は文官であって技術者ではない)が、そういうのが推奨された/通りやすかった時代であったのかも知れない。そこに村田鶴は居たわけだ。

ついでなのでも一つ。大正14年(だったか?これはCFのほうに入っているのでいま確認できず)に内務部から内閣へ対し村田の叙勲内申が出され、却下されている。日露戦争従軍の戦功で勲八等を貰っていた村田だが、そこから「品行方正功績多数により七等に昇叙されたし」、みたいな申請。却下理由は「在任期間が短すぎるから」。当時の仕組み的には勤続●年で自動的に昇級するのが普通だったはずで、その流れで申請したのか、本当に「功績多数により」申請されたのか、非常に興味深い。

その後、昭和2年に改めて推薦がなされ勲七等を受取っている。その申請書類の隅に朱書きで「八等→七等は在任八年」(だったっけ?このへんはあとで訂正するかも)とかいう注釈がなされていたのも気になる気になる。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
typodupeerror

「科学者は100%安全だと保証できないものは動かしてはならない」、科学者「えっ」、プログラマ「えっ」

読み込み中...