okkyの日記: 今年の総覧「貧すれば鈍す」 2
日記 by
okky
全体を一言で表すと貧すれば鈍すとなるのではないかと思う。
この言葉は本来、
貧乏になると、たとえば衣類にお金が回らなくなる。結果としてあちらこちらが綻びた服を着る羽目になる。最初のうちは恥ずかしいと思っているが、徐々に慣れてくるとそれが当たり前になってしまい、結果として他の恥ずかしいことにも鈍感になってしまう。
事を言う。
しかし、貧というのは何も、お金がないことばかりを意味するわけではない。
契約と反している内容を、親会社だからというだけで押し付けられても「当然」とする倫理に対して貧相な会社は、社員に対しても同様のことをやることに対して鈍感であるとか。
日本語がどうみても意味不明な社内ルール文章を平然と適用するような説明能力が貧相な会社がお客様に対して出す文章は、やはり同じような傾向方向に鈍感であるとか。
私が勤めたすべての会社において、社則が持つ日本語としてのおかしさの方向性と、その会社がお客様に出す文章の日本語としてのおかしさの方向性が合致している。ということは、社内文書の日本語を直していくだけでも、少しは社外宛文書の内容もましになるんじゃないか、と思うんだが。
貧にはいろいろなバリエーションがあり、それに応じた鈍のありようがある。自社の鈍感な所をどうにかしたければ、自社が何に関して貧相なのかを良く調べなくてはいけない。
そこの段階に抵抗があるようでは、改善はおぼつかないだろう。
来年の目標は「貧相なポイントを探す」だな。
お手本となる日本語 (スコア:1)
高島俊男さんの「漱石の夏やすみ」や外山滋比古さんの「日本の文章」などを読みますと、日本には日本語の文章として模範とされる文章というものが確立されていないということが指摘されています。英語の文章なら欽定訳聖書、中国語の文章なら漢書あたりが模範とされる文章になるわけですが、日本語の場合、古語・雅語においてすら模範とされる文章がないのです。
いわゆる名文とされる文章にしても、義務教育を受けた日本人が「この文章は名文だ」と共通認識できる文章はありません。不幸なことに、法律文書や契約文書は日本語としては悪文としか言いようのないものがスタンダードになっているので、前例に従う限り、悪文にしないと不自然になってしまうのです。
外山さんは、現在の日本語の文章は、明治時代と戦後にそれぞれ国語改革が行われてそれ以前の蓄積を捨ててしまっているので、当分の間(おそらく数百年)試行錯誤しないと模範的な文章は確立されないと言っています。高島さんの指摘では、明治以前において文章を学ぶとは漢文を学ぶことだった(もっとも正式な文章は漢文で書く習わしだった)ということになり、日本語の正式な文章というものはとんと研究されずに来たということです。僕には、どちらもなるほど、と思えます。
Re:お手本となる日本語 (スコア:1)
しかし、おかしな文章を書きそれを流布して当然とする企業は、企業自体に淘汰圧がかかり消滅してしまいます。
社内規則が名文である必要はありませんし、お客様への説明文が名文である必要もありませんが、少なくとも何を言っているのかが判る明文にはなっている必要があります。その事が判らない経営陣は会社が傾く遠因を作っているのだ、という事実をまず認識するべきだと思いますね。
fjの教祖様