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数学

taro-nishinoの日記: ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー

日記 by taro-nishino

ブルバキが最もブルバキらしかったのは創設期の頃だと私は思います。何をブルバキらしいと思うのかは個人差がありますが、数学的なことを別にして、既製に対する反抗、もっと言えば反逆者だったことがブルバキの特徴だったのではないでしょうか。よく哲学や人文系の人達は構造主義を特徴に挙げる人が多いですが、数学出身の私はそうは考えていません。ブルバキの出現前に、既にファン・デル・ヴェルデンの"Moderne Algebra"があって、構造概念の青写真が出来ていたと言っても過言じゃないからです。それを深化させ、さらに位相や解析方面にも構造を持ち込んだのがブルバキですが、方法や手法はヒルベルトを中心とするゲッティンゲンに種があったのです。ですから、構造が特徴だと言われると変な気持ちになります。ブルバキのオリジナルな数学上の貢献だと思うのは(本当にオリジナルかどうか別にして)、強いて上げれば各自捉え方がバラバラだった写像の概念をきちんと整理して定着させたことにあると思います。
さて、ブルバキの中でも最もブルバキストらしいと私が思うのが故クロード・シュヴァレー博士です。ブルバキの内規によってヴェイユとともに50年代にグループから抜けた後、60年代後半から70年代にかけて突如シュヴァレー博士はブルバキを批判し、当時のブルバキ第3世代とはほぼ絶縁状態になりました。
フランス思想とかフランス政治とか全く無知の私ですが、最近どういうわけかシュヴァレー博士が批判的になった理由を気になりました。数学的業績以外の作品も全集に入るはずなのですが、まだ編纂中ですので目にすることが出来ません。で、非常に断片的ですが、少しでも事情を察せられる博士のインタビュー記事"Nicholas Bourbaki, Collective Mathematician An Interview with Claude Chevalley"(PDF)を読みまして、是非とも全集が刊行されたら購入し、他の思想的エッセイも読みたいという思いを強くしました。インタビュー記事の私訳を以下に載せておきます。

ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー
Denis Guedj
Jeremy Gray(仏語からの英訳)

編集者の注意: クロード・シュヴァレーは1984年6月28日にパリで死んだ。彼は並外れた数学者であると同時に、数学と一般世間について変わった見解を持つ並外れた人だった。数学コミュニティはシュヴァレーと彼の見解両方を無くして寂しく思うだろう。
以下は、Denis Guedjによる記事とインタビューの翻訳である。それは元々、Denis Guedj編集による短期間で終わった雑誌
Dédalesの1981年11月号に載った。この翻訳を公開することを許可したDédalesに感謝する。

当初ブルバキを囲んでいたミステリーはずっと前に払拭された。ニコラ・ブルバキは、7人の若いフランス人数学者(アンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネ、シュレーム・マンデルブロー、ルネ・ド・ポッセル、アンドレ・ヴェイユ)の閉鎖的な愛情から1935年に誕生した。これらの7人だけがグループの開祖と考えられ、彼等を団結させた友情の絆はプロジェクトの成功に対して重要だった。1930年代、ライン川の反対側では、数学において厳密は厳密だった…ドイツ学派は高く評価された(特にフランスで実施されていた手法をもう受入れない、それらの数学者により)。彼等は、不鮮明、概算、かなりな数の研究にはびこっているお粗末(又は、単に間違っている)な証明を終わらせようと決心した。
グルサーによる専門書、不足だらけの"Calcul différentiel"が火薬を燃やした。彼等はそれを書き直そうと決心した。すなわち、使われるオブジェクトを定義すること、証明を完全にすること、それらが嘆かわしいほど不足している時は、それらを確立すること―簡単に言えば、"本当の"数学テキストを書くこと。これは予期していたよりも、ずっと時間がかかった。この期間にブルバキグループは生まれた。最初の会議は1935年の7月にオーヴェルニュで開かれ、出席者だけがブルバキの栄誉メンバーだった。少しずつプロジェクトはより正確になった。大きく成長したが、そのユーモアといたずらっぽさを失わなかった。

完全厳密な地平線
数学の統一性への絶対的な信頼に元気づけられ、"普遍的数学者"にならんという願望によって、彼等は単一の出発点から数学的世界の全体を導くことに乗り出した。数学的世界の体系を築くためには堅固な基礎を必要とした。彼等はそれを集合論に見つけた。数学的論法の厳密な実践に必要なロジックの原理をそれに加え、そして、"公理的方法に従って準備し、一種の地平線として全形式化の可能性を維持し、我々の専門書は完全厳密を目標にする"(ブルバキ集合論の導入部より引用)。
そんなプロジェクトを持ったのは彼等が初めてではなかったが、それまでにその実現を前進させた唯一のものだった。それを実行するために、彼等は2つの強力な武器、公理化と数学構造の一般的概念を選んだ。第一のものはユークリッド、ヒルベルト等から引抜いたが、第二のものは彼等が発明しなければならず、20世紀数学の最も美しい宝石の一つとして重要である。

同等な人々の共同研究
次の公理が必ず編集作業にあった。"可能な方法すべてのうちで、各数学的問題に対して最もいい方法、最適な方法がある"。この最適条件に対する探求はブルバキ会議でのメニューの大部分を構成した(且つ、なおも構成している)―草稿が出席者の満場一致で認められなければならないのだから、なおさらである。一つの会議で承認されたテキストは、その間に新しい概念が定義されているなら翌年に問題に出来た。そして、これらのシシュフォスのような数学者達は再度作業を始めなかればならず、絶え間のない作業を宣告した神をおそらく罵った。
年齢制限は定まっていた。50歳以上で人はグループを卒業しなければならなかった。一人ずつ開祖は去り、ブルバキは自身を取替えはじめた(だが、女性は誰もブルバキ栄誉を冠しなかった)。
"モルモット"は会議に招待されたブルバキストでない数学者に与えられた名前だった。新しいメンバーが選ばれたのはこのグループからだった。選ばれた人は個性及び数学的優秀性によって、満場一致を得た人々だった。その時から、様々なモルモットがグループに入った。ブルバキストの命名法ではこうだ。最初に"開祖"、そして"中祖"、ブルバキ第三世代は"若者"、最後に"現代のブルバキ"。
メンバーのリストはいつも秘密(公然の秘密)とされて来た。ここで勿体ぶらずに言って、現在のブルバキの構成は(幾分おおよそだが)、Atiyah、Boutet de Monvel、Cartier、Demazure、Douady、Malgrange、Verdier…。我々は物語が始まる時を知っている…が、どれほど多くの世代をブルバキが楽しませるのか誰が知ろうか。

反逆から栄光へ
集合論、構造のアイデア、その他ブルバキに負うものは、殆どの現代数学者の原材料と兵器庫を形成している。だが、ブルバキストの見解は、その他の中の一つに満足するかわりに、多くの場所でフィルターとなって来ている―それ無くては救済がないような必然の言葉である。30年代の主流数学に対する反逆から始まって、おそらく開祖が思い描かなかった又は歓迎しなかった他の道にブルバキは着実に方向転換して来た。ブルバキスト彼等自身が有名数学者となり、彼等が30年前に糾弾したメダルや栄誉を受けて来た。必然的に、彼等はブルバキを権力となる道へ導いて来た。

ブルバキの開祖の一人、クロード・シュヴァレーのインタビュー
Dédales: 貴方はブルバキ開祖の7人の一人であり、間違いなく最も顕著な一人です。グループの誕生からほぼ50年、どういう見地ですか。

シュヴァレー: どのように始まったか? 私にとって、最初は当時の数学研究の理解不能への絶望によってだった。他方、いわば矛盾し間違っていると分かった、これらの研究を私(と同世代の他の数学者)が詳しく解説する必要性は耐えられない状況を作った。ヴェイユとの出会いは決定的だった。その時まで、私は数学で正しく理路整然と論じるのは不可能だと信じることが可能だった。だが、彼の中に、数学を理路整然と論じるのは良いことであり、実際に全く可能であることを示す実例を見た。私がその時に非常に進歩したとすれば、私が無意味なことを喋っていることをヴェイユが私に隠さなかったからだった(私がやったことが正しいと私に知らせることも彼は時間をかけなかった)。Freymanが仲裁したのはこの時だった。彼はある効率的な才能があった。彼は素晴らしい交渉人、素晴らしい仲裁人であり、その時から友人となっている。彼はヴェイユと私に私達が事柄を始める印象を与えた。それは明らかに私達がいつでも開始出来ることを示した。

Dédales: それは何の事柄だったのですか。

シュヴァレー: その事柄かい? その時のプロジェクトは非常に単純だった。微分法を教えるための基礎はグルサーの教程だったが、いろいろな点で非常に不十分だった。アイデアはそれを置換える別のものを書くことだった。これは一年もしくは二年の問題だろうと私達は思った。5年後私達はまだ何も刊行しなかった。プロジェクトは1933年に生まれた。私は24歳で、他の人も24歳から30歳の間だった。その時は誰も有名ではなかった。

Dédales: いつブルバキが生まれたのですか。

シュヴァレー: プロジェクトより前。ヴェイユがインドで2年間過ごし、教え子の一人の学位論文のために、彼が文献のどこにも見つけられなかった結果を必要とした。彼はその正しさを確信したが、怠けて証明を詳しく書かなかった。しかし、彼の教え子はページの下に"ニコラ・ブルバキ、ポルダヴィア王立学術院"と言及したノートを書いて満足した。私達が集団名で飾りたてる必要があった時、ヴェイユがこの大げさな話を復活させてはどうかと提案した。初期の間、ブルバキは遊び半分で秘密結社たらんとした。勿論私達は秘密のままに出来なかったのだから、それは全く滑稽だった。皆が分かっていたが、メンバーのリスト、ブルバキという言葉の起源、又は私達のプロジェクトについての質問に答えることを私達は拒否さえした。
シャンセの私の両親の家で2つの会議があった。ブルバキの面々がアンボワーズの駅に到着した。既にそこにいた人達はぎょっとする遠吠えを発声した。ブルバキ! ブルバキ! 皆が私達を狂人の集まりだと思っただろう。そこではそれがブルバキのスタイルだった!(逸話: 或る時私達は定義の選択に合意しなかった―私達は私の娘、非常に幼かったキャサリンに選んでくれと頼んだ)
私達の間には強い友情の絆があり、新しいメンバーを募る問題が発生した時、数学的優秀性と同様に集団での態度も重要視することに合意した。これは研究を満場一致のルールに従わせることを可能にした。誰もが拒否権を有した。原則として、引続きの7又は8草稿の終わりにテキストについて満場一致が起こった。草稿が却下された時、改善のために予想された手続きがあった。"連中"という、会議のレポートが議題に関する議論と判定に関係した。新しい草稿が進まなければならない一般的方針は新しい著者が何をしなければならないか知るように示唆された。著者はいつも次の草稿を義務付けられる誰か他の人だった。最初の草稿が受領された実際例は無かった。
判定は障害ではなかった。ブルバキ会議では一人が草稿を朗読した。各行で提案があり、変更の申入れは黒板に書かれた。このように新しい版はテキストの単純な拒否から生まれず、むしろ共同で提案された十分に重要な改善の連続から生まれた。
ブルバキは大きな利点があった。つまり、人はいつも意見の急な変更の可能性を受入れた。これは数理論理の容認に関する最終的合意で非常にはっきりした。最初、人は反対した。彼等は論理は面白く無いと思った。私は論理を押し付け、論理に関する本の第一版を書いた一人だった。ブルバキは見地を変えられた。論理の拒否(確かに多くのメンバーの考え方の一部であったが)は結局減った。ブルバキの誰もが壁と話している感じを持たなかった。この意味でコラボレーションの大変注目すべき出来事だった。

Dédales: 絶え間無く増大し、未実現なプロジェクトに乗り出せると最初は思ったのですか。

シュヴァレー: 最初の分冊、集合論の成果に関するものを出版するのに約4年かかった。集合論の完全なテキストを書くことは先送りされた。ブルバキによって常に採用された理論のアイデアを読者が理解するように最初の分冊が出版された。最初は、私達の野心はとても慎みやかだった。2回目の会議中にだけ、私達はプロジェクトの大きさを意識するようになった。私達が採用した原則、一般から特殊へ進むことに従って、応用に行く前に最初に一般論を作ることが目的だった。

Dédales: プロジェクトの巨大さを分かった時、貴方は誇らしいと感じたのですか。

シュヴァレー: 勿論だ。世界(分かっているだろうが、数学界だ)に灯りを点した印象を確実に私は持った。他の数学者に対する私達の優越性の絶対的確信と共に進んだ。当時の他の数学よりもハイレベルなものを私達が所持したという確信だ。例えば、一般的に広まった(なおも広まりつつある)ブルバキ的にという言葉がある。これは、入組んでいると人が感じるテキストを取り、それをアレンジ、改善することを意味する。それはただ改善することより以上のことだ。ブルバキが数学に入れたかった規範(本質的には集合論と構造の概念)に従って取扱うことなのだ。本当にブルバキ的なのは構造の概念である。しかし、ものすごく大きい仕事を完成するという考えについて、私達は達成するのは不可能だろうという確信に至った。

Dédales: 一種のバイブルを書いていると感じたのですか。

シュヴァレー: 誰もブルバキを読むことを強制されていないことは明らかだったろう。私達に成功が訪れるなら、テキストの真実の価値のおかげであり、今日のような"義務"ではないと信じていた。だが、数学のバイブルは他の分野のバイブルと似ていない。数学のバイブルは美しく並んでいる墓標のある整然とした墓地だ。そのことは宗教的な意味合いでバイブルの圧倒的な意味を持たない。私達全員に反撃することがあった。つまり、私達の書いたすべてが教育には無益であろうと。私達の内で、これを今まで議論した記憶が無い。当時の数学はとても脆弱だったので数学的権威と結果的に起こる権力を私達は滑稽のように思った。従って、これは議論のネタにならなかったし、権力がある日ブルバキ的になるだろうなんて絶対に思わなかった。

Dédales: そこに来る前に、ブルバキ内部での闘争は何だったのですか。

シュヴァレー: 真に迫る不和があったことは確かだ。例えば積分論について、8巻からなる科目だが、数年間ヴェイユとド・ポッセルの間に恐ろしい闘いがあった。私は少しド・ポッセルの側に気持ちがあった。ヴェイユの意味合いで結論づけられたが、彼はそうは思っていない(彼のアイデアは幾分去勢されていると彼は今軽く考えているので)。

Dédales: ややアナキストな貴方自身にとって、今から振り返って結局権力となる仕事に参加したことをどのように感じますか。

シュヴァレー: この堕落を起こした或る他メンバーに対する大いなる怒りがある。この堕落は不可避だったと言うだろう。私はそう思わない。例えばSamuelは決してそのように転向しなかった(実は、彼が草稿に拒否権を使用した唯一のメンバーだった)。Samuelの存在は、この権力への堕落が不可避なものではなかったという証明だ。

Dédales: やむを得ず権力のツール、支配的イデオロギーのツールに変換されないで、そんな仕事に命を与えられると考えているのですか。参加する人を"支配者"に変換させる、このタイプのプロジェクト固有のロジックは無いのですか。例えば、貴方は逸脱に反対しようとはしなかったのですか。

シュヴァレー: それが起こるだろうと確信していたなら、聡明さを持っていたなら、問題を自分に問わないほど私が弱くなければ、出来ただろうと思うが....

Dédales: しかし、公平に言えば人は先のことを知らない....

シュヴァレー: 将来について私は疑問を持たなかった。誕生した時と同様に続くだろうと信じた。しかし、分かっていたとしても、それに対抗して闘えなかっただろうと思う。権力にならない方向を示そうとしなかったことに自責の念を持っている。だが、努力しなかった。

Dédales: ブルバキでは政治的な人だったのですか。

シュヴァレー: エコール入試を準備していた時にアナキストを読んだ。ブルバキの頃は、"新秩序の自由主義"と自称したアナキストグループにいた。

Dédales: 政治はブルバキから排除されたと思います。外での政治参加とブルバキでの完全没頭の2分割を、特にドイツでナチスが気持よく謳歌し始めた時、貴方はどのように生きたのですか。

シュヴァレー: 何を言うべきか分からない。誤解だ。私が政治分野で書いたことは完全には満足しなかった。書いて満足したのはブルバキの中だけだ。ブルバキで満足出来たのは、世界で起きていることに関係のない活動だったからだと思う。殆どすべての人が私の"新秩序"への参加を嘲笑った。彼等にとって真剣な精神に値しない活動らしかった。そのことは非常に私を傷つけた。アンドレ・ヴェイユは"新秩序"を水に浮かぶ理性と呼んだ。その時に誰かが私に疑問を問いただしたら答えたであろうことを今考えようとしている。答えたであろうことは、私の政治的願望はすべての人に可能なベストな生活をさせることだったが、それは私にとって可能なことだったし、反対しようとは思わなかった。今もそのように答えるだろう。

Dédales: その後、ブルバキグループはどのように進化したのですか。

シュヴァレー: 私達は最初自分達のポケットから会議の費用を払った。そして、相当な著作権料があった。それらをブルバキの共同支出のために使い始めた。共同活動の意味からは確かにかけ離れていた。堕落の一つの要因だった。他にもあった。最初の会議の期間中戦争まで、大学のキャリアに関する問題について言わないことが暗黙の了解だった。簡単なことではなかった。誰かが始めたら、彼を止めて他のことを話した。残念ながら、戦後その問題は面白くなった。これはおそらく、私達が若い人達を呼入れ始めた時に彼等のキャリアに関心を持ったためだろう。私達はしんどい作業に陥った。少しずつ、すべての人のキャリアを話した。それは完全な堕落だった。
戦争前、数学界は毎年一人のフランス人数学者に賞を与えようと決心した。ブルバキは熱心に参加し、メダルに宣戦布告した。メダルは造られなかった。どのメンバーもアカデミーに引き合わされまいと私達の間で合意した(その議題に関する会話を私は完全に思い出す)。今や彼等の殆がアカデミーにいる。私自身が誰も私の意見を聞かずに同等メンバーにノミネートされた。そのようなものに入るのをいつも私は拒否して来ている。

Dédales: 貴方はきっぱりとブルバキから離れました。これはどのように起こったのですか。

シュヴァレー: 私のブルバキとの別れは段階的だった。最後の原因は1968年にデュドネが取った地位だった。その時私が受けまいと判断した地位に彼は座った。彼は大学を片付けて、真の大学を作ること等々に本命とした。私は世間知らずだが、ブルバキのメンバーがそんな地位を手に入れようとは想像しなかった。

Dédales: そして、数学の分野では?

シュヴァレー: 私はまだブルバキストの本質を強く支持している。誰かが言っているように、差し引きは非常に肯定的だ。フランスに公理化を導入したのはブルバキだったことを人は忘れてならない。私は他のことも主張したい。数学のすべての事実は説明を持つはずだという原理だ。これは因果関係とは関係が無い。例えば、完全に微積分の結果だったものがいい証明だと私達は考えなかった。

Dédales: いい証明? それは意味につながることなのですか。人はよく意味に対するフォーマリズムを反対するので、私は質問しています。

シュヴァレー: 意味が実在の反映として理解されているなら、反対するのは正しい。だが、私の言っていることの意味は一つの意味であり、個人によって会得され、それはもう一人の個人とは全くことなるだろう。

Dédales: それでは一つのフォーマリズムの主観的意味合いは何ですか。

シュヴァレー: 言うのは非常に難しい。ヴェイユは次の格言を言った。"困難がある時、グループを探せ"(数学的!)。それは私を吹き飛ばした。私はこれを米国人の優れた確率論者に話したが、意味が無いと言った。私がもはやどうしても賛成しないことは説明の方法だ。例えば初心者にとっては無意味だ。
数理論理のレベルで私が彼等と完全に別れている点がある。奇妙にも、私の主唱に負う大部分の形式化のテーマのアイデアに関係する。それがブルバキ内で地平線と呼んだものである。形式的ルールを書くが、余りにも多い空間を取り上げるのだから系統だって形式的ルールを適用出来るはずがない。しかし、厳密性の立場から、これらのルールは少なくとも理論的に"地平線"、完全なテキストを描ける。今や私の意見では、それは可能ではない。この不可能性を理解したのはカストリアディスを読んでいるうちだった。例えば、異なる場所で異なる時代に書かれているけれども"同じ"というシンボルの概念はそれ自身を意味する概念では全くない。だが、人がこの数学概念をもっと理論的に持つなら、それ自身を意味しなければならない。この考えは実現可能でないばかりでなく、その内容も馬鹿げている。意味のオーラを持たなければ、シンボルが"同じ"であることは出来ない。そこに、完璧な"地平線"の考えを否定する人間的な何かにアピールがある。

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数学

taro-nishinoの日記: 虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その2

日記 by taro-nishino

その1からの続き
虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その2
2004年10月 Allyn Jackson

新しい幾何学の誕生

30年間を振り返ると、1958年が2つの主要なツールの後に新しい幾何学のビジョンが実際に生まれた年であると今言える。2つの主要なツールとは、スキーム("代数多様体"の古い概念のメタ準同型を表現するもの)とトポス(空間の概念のメタ準同型を更に深大に表現するもの)だ。

収穫と種蒔き、ページ23

1958年8月、グロタンディークはエジンバラの国際数学者会議で本講演を行った。[Edin] そのトークは、注目すべき予見もあって、彼が次の12年間に研究する多くの主要テーマの概略を述べた。この時までに、彼がアンドレ・ヴェイユの有名な予想を証明しょうと目指していることは明らかだった。ヴェイユ予想は、代数多様体の離散的世界とトポロジーの連続的世界の壮大な統一性をほのめかしていた。
この時、代数幾何学は、多くの予備知識を要しない多くの未解決問題と共に、急激に進化していた。元々研究の主目標は複素数上の多様体だった。20世紀の初頭の間、この領域はGuido Castelnuovo、 Federigo Enriques、Francesco Severiなどのようなイタリア人数学者の専門だった。彼等は多くの独創的なアイデアを開発したけれども、彼等の結果のすべてが厳密に証明されたわけではなかった。1930年代と1940年代に、他の数学者、中でもB. L. van der Waerden、アンドレ・ヴェイユ、オスカー・ザリスキは、任意の体、特に標数p(数論で重要)の体上の多様体について研究したかった。だが、イタリア学派の代数幾何学の厳密性の不足のため、体について新しい基礎を構築する必要があった。これが、ヴェイユが1946年の彼の本Foundations of Algebraic Geometry [Weil1] の中でやったことだ。
ヴェイユ予想は彼の1949年の論文 [Weil2] で出現した。数論の問題に動機付けられてヴェイユは、特別な場合にEmil Artinによって導入された或るゼータ関数を研究した。リーマンゼータ関数のアナロジーで定義されたからゼータ関数と呼ばれている。標数pの有限体上で定義された代数多様体Vを与えられて、各有限拡大体に対する相当する数と同様に、Vの点の数(この体上で有理数)を数えられる。その時、これらの数は生成関数に含まれるが、生成関数はVのゼータ関数である。ヴェイユは曲線とアーベル多様体両方に対して、このゼータ関数に関する3つの事実を証明した。すなわち、有理型であり、関数方程式を満足し、その零点と極は或る特別な形を持つ。いったん変数変換されると、この形はまさしくリーマン仮説に相当する。更にヴェイユは、Vが標数ゼロの多様体Wの還元モジュロpから生じるなら、ゼータ関数が有理型関数として表現される時Wのベッチ数はVのゼータ関数から読める、と述べた。ヴェイユ予想は、射影非特異代数多様体に対してそんなゼータ関数を定義すれば、これら同じ事実が成り立つかを問うている。特に、ベッチ数のような位相的データがゼータ関数に出現するか? この代数幾何学とトポロジー間の連結の予想は、コホモロジー理論(当時、位相空間に対して開発されていた)のような新しいツールのいくつかが代数多様体での使用にも採用出来ることを仄めかす。古典的リーマン仮説との類似性のため、ヴェイユ予想の第3番目は時に"合同リーマン仮説"と呼ばれる。これは3つのうちで証明が最も難しいものとなった。
"ヴェイユ予想が作られるやいなや、それらは全く'ブラックボックス'のように信じられない声明だったためと、それらを解決するには相当に新しいツール(とにかくそれ自体でも相当な価値が無ければならない。相当な価値を持つことは全く正しかった)の開発が必要なことは明らかに思えたため、ヴェイユ予想がともかくも中心的役割を担っていることは明らかだった"とKatzは言った。
プリストン高等研究所のピエール・ドリーニュは、グロタンディークを惹きつけたのは代数幾何学とトポロジー間の連結の予想だったと言った。グロタンディークは"このヴェイユの夢をパワフルな仕組みに変える"というアイデアを好んだとドリーニュは注記した。
ヴェイユ予想は有名だったから、もしくは他の人々がヴェイユ予想を難しいと考えたから、グロタンディークはヴェイユ予想に興味を持たなかった。実際、彼は難しい問題の挑戦にはやる気がなかった。彼に興味を持たせたものは、大きく隠れた構造を指しているかも知れない問題だった。"彼は、問題の自然な生息地となる家を見つけ造ることを目指していた。それが問題を解くことよりもずっと彼に興味を持たせた部分だった"とドリーニュは注意した。このアプローチは、その時代の別の偉大な数学者、John Nashのアプローチと対照的だ。全盛期に、Nashは同僚が最も重要でやりがいがあると考えた特定の問題を探し出した。[Nasar] "Nashはオリンピック選手のようだった。彼はいろいろな個人的挑戦に興味を持った"とミシガン大学のHyman Bassは言った。Nashがプロブレムソルバーの好例なら、グロタンディークは理論構築者の好例である。グロタンディークは"数学とは何であろうかと広範囲に渡るビジョンを持っていた"とBassは言った。
1958年の秋、グロタンディークはハーバード大学数学科へ初めて訪問した。Tateがそこで教授で、主任教授はオスカー・ザリスキだった。この時までに、1940年代に証明されたザリスキの大きな結果の一つである連結定理をグロタンディークは最近開発されたコホモロジー理論によって再証明していた。ブラウン大学のデヴィッド・マンフォード(彼は当時ザリスキの学生だった)によれば、ザリスキは自分では新しい手法を取上げなかったが、それらのパワーを理解し彼の学生に慣れて欲しいと思った。これがグロタンディークをハーバードに招待した理由だった。
数学者としてザリスキとグロタンディークは非常に異なっていたけれども、彼等は非常に仲がよかったとマンフォードは注記した。ザリスキは行き詰まった時、黒板に行き交わる曲線をよく書いたものだと言われた。それはいろいろなアイデアの理解を新鮮にしたのであろう。"噂は彼が黒板の隅にこれを書き、そして消してから代数をやったということだ。幾何学的な絵を描き幾何から代数への連結を頭の中で復元することにより頭をクリアにしなければならなかった"とマンフォードは説明した。マンフォードによれば、これはグロタンディークは決してしなかったであろうことだ。極端に簡単で殆ど自明なものを除いて、彼は実例から研究をしなかったようだ。ホモロジーのダイアグラムを別にして、彼は殆ど絵も書かなかった。
グロタンディークが初めてハーバードに招待された時、訪問より前に彼はザリスキと文通していたとマンフォードは回想した。下院反米活動委員会の時代からまだ日も浅く、ビザを得るための必須事項は米国政府打倒に働かないという宣誓だった。グロタンディークはザリスキにそのような誓約を拒否すると言った。拘置所に入るかも知れないと言われた時、グロタンディークは学生が訪問出来る限り、そして彼が望むだけの多くの本を持てるなら、拘置所も結構だと言った。
グロタンディークのハーバードでの講義で、マンフォードは息を飲むほどの飛躍を抽象の中に見た。一度彼はグロタンディークに或る補題を証明する方法を尋ね、非常に抽象的な議論で答えを得た。そんな抽象的議論が非常に具体的な補題を証明出来るとマンフォードは最初信じなかった。"それから私は別れて数日間考えた。そして、まさに正解だと分かった。彼は私が会ったことのある他の誰よりも、この絶対にぎょっとさせる飛躍をものの中に非常な規模の抽象化で構成する能力を持っていた...彼はいつも問題を体系付け、すべてのものを剥ぎとり、そのため何かが残っていると人が思わないような方法を求めていた。それでも何かが残っていて、彼はこのうわべの真空の中に実際の構造を見つけられた"。

英雄的時代

IHÉSの英雄的時代の間、デュドネと私のみがメンバーで、IHÉSに威信と科学的世界の観客を与えている唯一のメンバーだった...デュドネと共に私が研究所(私は一研究員だったが)の"科学的"共同創始者のようにちょっと感じた。私は自分の寿命をそこで終えると予想した! 私は結局IHÉSを自分と重ね合わせるようになった。

収穫と種蒔き、ページ169

1958年6月、フランス高等科学研究所(IHÉS)がパリのソルボンヌでのスポンサー会議で正式に決定された。創設者Léon Motchane(物理学の学位を持つ起業家)はプリストン高等研究所と類似な独立した研究所をフランスに造るというビジョンを持っていた。IHÉSの元々の計画は3つの分野での基礎的研究に的を絞ることだった。すなわち、数学、理論物理学、人間科学論。3番目の分野が足掛かりを掴めなかったが、10年のうちにIHÉSは数学と理論物理学で少ないが一流の研究員と活発な交流プログラムを持つ、世界一流の中心の一つとなった。
科学史のDavid Aubinの学位論文 [Aubin] によれば、Motchaneがデュドネとグロタンディークを新しく設立されるIHÉSの教授職を受けるよう説得したのは、1958年のエジンバラ会議でか、又はおそらくそれ以前だった。Cartierは[Cartier2]の中で、Motchaneは元々デュドネを雇いたかったが、デュドネはグロタンディークにも申し入れすることが職を引き受ける条件にしたと書いた。IHÉSは最初から国とは無関係だから、無国籍なのにもかかわらずグロタンディークを雇うことに問題は無かった。2人の教授は正式に1959年3月に就任し、その年の5月にグロタンディークは代数幾何学のセミナーを始めた。1958年の会議でフィールズ賞を受賞したルネ・トムが1963年の10月に研究員に加わり、IHÉSの理論物理学部門は1962年にLouis Michel、1964年にDavid Ruelleの任命で始まった。
1962年まで、IHÉSは恒久的な場所を持たなかった。事務室はティエール財団から借り、セミナーはそこでやるか、又はパリ内の大学で行われた。IHÉSの初期ビジターArthur Wightmanは彼のホテルの部屋で研究することとされたとAubinは書いた。ビジターが不十分な図書を指摘すると、グロタンディークは"我々は本を読まない。それらを書くのだ!"と答えたと言われた。実際、初期時代において研究所の活動の大部分が"Publications mathématiques de l’IHÉS"に集中した。"Publications mathématiques de l’IHÉS"は、基本的研究Éléments de Géométrie Algébrique(一般的に頭字語EGAで知られる)の初巻から始まった。実を言うと、デュドネとグロタンディークがIHÉSの職に就任するより半年前にEGAの執筆が始まった。[Corr]の中の参照は執筆開始を1958年の秋と指定している。
EGAの原作者は"ジャン・デュドネの協力があって"グロタンディークとされる。グロタンディークがノートと草稿を書き、それをデュドネが肉付けし洗練した。Armand Borelが説明したように、グロタンディークがEGAのグローバルビジョンを持つ人で、一方デュドネは一行毎に理解した。"デュドネはこれをかなり重いスタイルに書いた"とBorelは注意した。と同時に"デュドネは勿論非常に有能だった。他の誰も自身の研究を犠牲にしないで、それを出来なかったであろう"。その当時、その分野に入りたい一部の人にとってEGAから学ぶことは大変な挑戦であっただろう。現在では他に多くの、もっとアプローチしやすいテキストがあるので、EGAは滅多に入門として使用されることはない。だが、それらのテキストはEGAが目指していること、すなわちスキームを調べるために必要なツールを十分かつ組織的に説明することをしていない。Gerd Faltings(現在、ボンのマックス・プランク研究所の数学部門にいる)がプリストン大学にいた時、博士課程の学生にEGAを読むように勧めた。そして、今日の多くの数学者にとってEGAは依然として有益であり総合的な参考書だ。現在のIHÉS所長Jean-Pierre Bourguignonは毎年EGAが100冊以上売れていると言う。
EGAは何をカバーするかグロタンディークの計画は広大だった。1959年8月からのセールへの手紙に彼は簡単な概略を与えたが、基本群、カテゴリ理論、剰余、双対、交叉、ヴェイユコホモロジー、"事情が許せば、少しのホモトピー"を含んだ。"予期しない困難がなければ、又は私が泥沼にはまらなければ、multiplodocusは3年、せいぜい4年で出来るはず"とグロタンディークは彼とセールのジョーク術語"multiplodocus"(非常に長い論文を意味する)を使い楽観的に書いた。"我々は代数幾何学を始められるだろう!"と彼は歓声を上げた。実のところ、指数的膨張の後にEGAは流れを枯渇した。1章と2章は其々1巻、3章は2巻、最後の4章は4巻を突破している。合計して、それらは1800ページからなる。グロタンディークの計画に達していないにもかかわらず、EGAは記念碑的作品である。
EGAのタイトルがニコラ・ブルバキによるÉléments de Mathématiqueを真似ているのは偶然ではなく、結局ユークリッドのElementsを真似ている。グロタンディークは1950年代末から数年間ブルバキのメンバーで、多くの他のメンバーと親しかった。ブルバキは数学の基礎的研究書のシリーズを協力して書く数学者(彼等の殆どはフランス人)の集団の筆名だった。
デュドネはアンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、アンドレ・ヴェイユと共にブルバキグループの創設者だった。通常約10名のメンバーがいて、グループの構成は数年に渡って進化した。最初のブルバキ本は1939年に出現し、グループの影響力は1950年代と1960年代の間絶頂だった。本の目的は、大部分の数学者に本が有用である普遍性のレベルで数学の中心分野の公理的処方を与えることだった。本は、グループのメンバーで活発な、時には激越した議論のるつぼの中で生まれた。メンバーの多くが強い個性と高度に個人的見解を持っていた。25年間ブルバキのメンバーだったBorelは、この共同制作は"数学史の中で唯一の出来事"だったかも知れぬと書いた。[Borel] ブルバキはその時代の若干の一流数学者の努力を分かち合った。彼等は無私かつ匿名で、その分野の広大な部分を利用しやすくするであろう本の執筆に相当な時間とエネルギーを費やした。テキストは大きなインパクトを持ち、1970年代と1980年代までに、ブルバキの影響が大きすぎたと不満があった。また、何人かは行き過ぎた抽象化と普遍化を持つとして本のスタイルを批判した。
ブルバキの研究とグロタンディークの研究は、普遍性と抽象性のレベルで、また根本的、徹底的、系統的なことを狙っている意味でいくらかの類似性を帯びている。大きな違いは、ブルバキは数学分野の範囲をカバーしたが、グロタンディークはヴェイユ予想を第1目標として、代数幾何学の新しいアイデアの開発に焦点を合わせた。その上に、グロタンディークの研究は彼自身の内面的ビジョンに集中したが、ブルバキはメンバーの見解の総合を築いた共同成果だった。
Borelは [Borel] の中で、1957年3月のブルバキ会議を、層理論に関するブルバキ草稿をもっとカテゴリ的見方からやり直すべきだというグロタンディークの提案のため、"頑固なファンクタの会議"と名付けた。基礎構築の無限サイクルに陥ると思われたので、ブルバキはこのアイデアを却下した。グロタンディークは"彼の大きな装置を持っており、ブルバキは彼にとっての全体ではなかったので、実際にはブルバキに協力出来なかった"とセールは回想した。その上に、"彼はブルバキのシステムを余り好きではなかったと思う。ブルバキで、私達は実際に草稿を細かく議論し批判したものだった...それは彼の数学のやり方ではなかった。彼は自分でやりたかった"とセールは述べた。多くのメンバーと親しいままだったけれども、グロタンディークは1960年にブルバキを去った。
ヴェイユとの衝突のためにグロタンディークはブルバキを去ったという話が伝わっているが、実のところ二人はちょっとだけオーバーラップしたに過ぎなかった。50歳でメンバーは引退しなければならぬという勅令を守って、ヴェイユは1956年にグループを去った。それでも、グロタンディークとヴェイユは数学者として非常に違った。ドリーニュが言ったように、"ヴェイユは、グロタンディークがイタリア人幾何学者のやったこと、古典的文献全体が何であったか、余りにも知らなさすぎるとちょっと感じた。そして、ヴェイユは大きな装置を構築するスタイル好まなかった...彼等のスタイルは非常に違った"。
EGAを別にして、グロタンディークの代数幾何学における全作品の別の大きな部分はSGAとして知られる、Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marieであり、それはIHÉSセミナーで行われた講義の筆記録を含む。それらは元々IHÉSにより配布された。SGA 2はNorth-HollandとMassonの共同で刊行され、残りの巻は Springer-Verlagによって刊行された。SGA 1は1960–1961年セミナーから始まり、シリーズ最後のSGA 7は1967–1969年から始まる。EGA(基礎を据える目的がある)と対照的に、SGAはグロタンディークのセミナーで展開した独自の研究を書いている。彼はパリのブルバキセミナーで多くの結果を発表したが、それらはFGA、Fondements de la Géométrie Algébriqueに集められ、1962年に出現した。EGA、SGA、FGA合わせて約7500ページにのぼる。

魔法の送風機

数学で他の何よりも私を魅了する(そして確かにいつも魅了して来た)一つのことがあるとすれば、それは"数"でも"数量"でもなく、いつも形式である。そして、形式自体が私達に見せる夥しい顔の中で、何よりも私を魅了し、魅了し続ける一つは数学的事柄に隠れている構造である。

収穫と種蒔き、ページ27

収穫と種蒔きの最初の巻で、グロタンディークは非数学者が近づきやすいように彼の研究の概要の解説を行っている。(ページ25-48) そこで、彼はこの研究は2つの世界の統一を求めているとせいぜい基本的なレベルで書いている。すなわち、"算術的な世界、そこには連続の概念を持たない(いわゆる)'空間'が住み、そして連続的数量の世界、そこには言葉の真の意味での'空間'が住み、解析学者には近づきやすい"。ヴェイユ予想の解決が非常に待ち望まれていた理由はまさしく、この統一の手がかりを与えていたからである。ヴェイユ予想を直接に解こうとするよりも、グロタンディークはそれらの完全な観点を一般化した。そうすることは、予想が住んでいる大きな構造を彼に理解させ、その大きな構造の束の間の一瞬のみを与えた。収穫と種蒔きのこの節で、グロタンディークはスキームトポスを含む彼の研究の主要アイデアのいくつかを説明した。
基本的に、スキームは代数多様体の概念の一般化である。素数標数の有限体の配列を与えられて、スキームは順次、各自異なる幾何を持つ多様体の配列を造る。"異なる標数の異なる多様体の配列は一種の'多様体の無限送風機'(各標数に対して一つ)として視覚化出来る。'スキーム'はこの魔法の送風機であり、異なる非常に多くの'枝'のような、すべての可能な標数の'アバター'又は'化身'を連結する"とグロタンディークは書いた。スキームに対する一般化は、多様体の異なる"化身"のすべてを統一的な方法で研究することを可能にする。グロタンディーク以前は、"人はそれが出来ると信じなかったと思う。余りにも急進的だった。これがうまく行く、完全な一般性でうまく行く方法かも知れぬと考えることすら勇気が無かった"とMichael Artinはコメントした。
19世紀のイタリア人数学者Enrico Bettiの洞察に始まって、位相空間の研究ツールとして、ホモロジーとその双対であるコホモロジーが開発された。基本的にコホモロジー理論は不変式を与えたが、その不変式は空間をいろいろな様相に測るための"尺度"と見なされる。ヴェイユ予想に内在している考察に掻き立てられて、大いなる希望は、位相空間に対するコホモロジー的手法が多様体とスキームとの使用に採用出来る可能性だった。この希望はグロタンディークと協力者の研究によってかなりな程度にまで実現した。"これらのコホモロジー手法を代数幾何学に持ち込むのは昼と夜に似ていた。その分野を完全にひっくり返した。フーリエ解析前後の解析学に似ている。いったんフーリエ手法を得ると、関数を考察する方法に突如広く深い考察を持つ。コホモロジーと似ていた"とマンフォードは注記した。
層の概念はジャン・ルレイによって考案され、アンリ・カルタンとジャン=ピエール・セールによって更に発展された。FAC("Faisceaux algébriques cohérents"[訳注:"首尾一貫な代数的層"])として知られる画期的な論文 [FAC] で、セールは代数幾何学で層がどのように用いられるか示した。層とは何か正確に言わないで、グロタンディークは収穫と種蒔きの中で、この概念がいかに風景を変えたか記述した。すなわち、層のアイデアがやって来た時、あたかも古き良きコホモロジー"尺度"が突然に新"尺度"の無限配列に増殖し、すべての数量と形式において、固有の測度作業に完全に適していた、かのようだった。更に、空間上のすべての層のカテゴリがとても多くの情報を伝播するので、その空間が何であるか実質的に"忘れ"られる。情報全体が層の中にある―グロタンディークが言うところの、発見への道に案内する"寡黙で確かなガイド"だった。
トポスの概念は"空間の概念のメタ準同型"だとグロタンディークは書いた。層の概念は、位相的背景(空間が住む)からカテゴリ的背景(層のカテゴリが住む)への変換の一つの方法を与える。その時トポスは、(通常の空間から生じる必要はない。それでも)層のカテゴリの"立派な"プロパティをすべて持つカテゴリとして記述出来る。トポスの概念は、"位相空間で重要なものは、'点'又は点の部分集合とそれらの近接関係などでは全然なく、むしろ空間に関するとそれらが形作るカテゴリである"という事実を際立たせるとグロタンディークは書いた。
トポスのアイデアを考えつくために、グロタンディークは"空間の概念について非常に深く考えた"とドリーニュはコメントした。"ヴェイユ予想を理解するために彼が造った理論は、最初に(空間の概念の一般化である)トポスの概念を造り、次に問題に採用されるトポスを定義することだった"と説明した。グロタンディークも"人は実際にトポスと一緒に働ける。つまり、私達が通常の空間について持つ直感はトポスにおいても働く...これは実に深いアイデアだった"と明かした。
収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは、技術的な観点から彼の数学における研究の大部分は不足しているコホモロジーを開発することにあったとコメントした。エタール・コホモロジーがそのような理論の一つで、特にヴェイユ予想に適用するためにグロタンディーク、Michael Artin、その他の人によって開発された。実際、彼等の証明の中で重要な構成要素の一つだった。グロタンディークは更に進めモゥティブの概念を開発したが、これを"究極のメタコホモロジー的不変式"と表現し、モゥティブ以外のすべてがモゥティブの異なる実現又は化身である。モゥティブはまだ理解を超えたままであるが、その概念は多くの数学を生成した。例えば1970年代に、ドリーニュとIASのRobert Langlandsはモゥティブと保型表現の間の正確な関係を予想した。この予想は、今はいわゆるLanglandsプログラムの一部だが、[Langlands] の中で出現した。トロント大学のJames Arthurはこの予想を一般的に証明することは何十年先だと言った。しかし、彼は、フェルマーの最終定理の証明でAndrew Wilesがしたことは本質的に楕円曲線から来る2次元モゥティブの場合にこの予想を証明することだったと指摘した。別の例はモゥティブ的コホモロジーに関するVladimir Voevodskyの研究で、それに対して2002年に彼はフィールズ賞を受賞した。この研究はいくつかのグロタンディークのモゥティブに関するオリジナルのアイデアに基盤を置いている。
この数学研究の回顧的要約を振り返って、グロタンディークは本質とパワーを構成するものは結果又は大定理ではなく、"アイデア、いや夢想でさえも"と書いた。(ページ51)

グロタンディーク学派

1970年の最初の"目覚め"の瞬間まで、私の学生との関係は、私自身の研究に対する私の関係と同じく、満足と喜びの源であったし、私の人生での調和感の現実で非の打ち所が無い基盤の一つでもあり、引続き私の人生に意義を与えていた...。

収穫と種蒔き、ページ63

1961年秋のハーバード訪問の間に、グロタンディークはセールに"ハーバードでの数学的雰囲気は素晴らしく、パリに比べて実に新鮮だ。パリは毎年陰気になっている。ここでは、スキームの言葉に馴染み始め、興味ある問題について研究すること以外に何も要求しない多くの頭のいい学生がいて、彼等は明らかに無尽蔵だ"と書いた。[Corr] その時Michael Artinは1960年にザリスキの下で学位論文を終えた後に、ベンジャミン・パース インストラクタとしてハーバードにいた。学位論文の直後、Artinはスキームの新しい言葉の習得にとりかかり、エタール・コホモロジーのアイデアにも興味を持つようになった。グロタンディークが1961年ハーバードに来た時、"私はエタール・コホモロジーの定義を尋ねた"とArtinは笑いながら回想した。その定義はまだ構築されていなかった。"実際、私達は秋の間ずっと定義の議論をした"。
1962年マサチューセッツ工科大学へ移った後、Artinはエタール・コホモロジーについてセミナーをした。彼は次の2年間の大部分をIHÉSでグロタンディークとの研究に費やした。いったんエタール・コホモロジーの定義が得られると、理論を飼い慣らし、実際に役立つツールに変えるためにはすべき研究が多くあった。"その定義は素晴らしく思えたが、何かが有限、又は計算が可能なのかそうでないのかすら保証がなかった"とマンフォードはコメントした。これはArtinとグロタンディークが嵌った研究だった。一つの成果はArtinの表現可能性定理だった。Jean-Louis Verdierと共に、彼等はエタール・コホモロジーに的を絞った1963–64年セミナーを指揮した。そのセミナーはSGA 4の3巻の中に書き上げられ、合計ほぼ1600ページだった。
1960年代初期のパリっ子数学の現場についてグロタンディークの"陰気"評価に異論があるかも知れないが、彼が1961年にIHÉSへ戻りセミナーを再開した時に、いろいろな押し上げがあったことは間違いない。その雰囲気は"素晴らしかった"とArtinは回想した。そのセミナーは、他所から来ている数学者と同様にパリっ子数学の有力指導者に非常に人気があった。才気溢れ熱心な学生のグループはグロタンディークの周辺に集まり始め、彼の指導のもとで学位論文(IHÉSは学位を与えないので、公式的に彼等はパリ内外の大学の学生だった)を書き始めた。1962年までにIHÉSは、ビュール=シュリヴェットのパリ郊外にあるボアマリーと呼ばれる、落ち着いて木の多い公園の真ん中にある恒久的住居に移った。セミナーが開かれた望楼のような建物は大きな絵が書かれた窓、開放的で風通しの良い雰囲気を持ち、変わっていて劇的な背景を与えた。グロタンディークは活動のダイナミックな中心だった。"セミナーは非常にやり取りが活発だったが、グロタンディークは彼がスピーカーであろうがなかろうが君臨した"と、1960年代にIHÉSを訪問したHyman Bassは回想した。グロタンディークは非常に厳しく、人々には手ごわかったであろう。"彼は不親切ではなかったが、甘くもなかった"。
グロタンディークは学生と研究する或るパターンを開発した。典型的な実例は、1964年にグロタンディークの学生となった、パリシュッド大学のLuc Illusieだ。Illusieはパリでアンリ・カルタンとローラン・シュワルツのセミナーに参加し、Illusieはグロタンディークのもとで学位論文をした方がいいと勧めたのはカルタンだった。Illusieは、その時までトポロジーしか研究していなかったが、代数幾何学の"神"に会うことに不安だった。後で分かったことであるが、グロタンディークは非常に親切且つ友好的で、Illusieに何を研究して来たか尋ねた。Illusieが短く話した後、グロタンディークは黒板に行き、層、有限性条件、擬似コヒーレンスなどの議論を始めた。"海のようであり、黒板には数学の絶え間ない流れがあるかのようだった"とIllusieは回想した。それが終わってグロタンディークは、翌年のセミナーはL-関数とl-進コホモロジーにするが、Illusieはそのノート作成を手伝うべきだと言った。Illusieが代数幾何学について何も知らないと主張した時、グロタンディークは、それは問題ではない、"君はすぐに習得するだろう"と言った。
そしてIllusieはやった。"彼の講義は非常に明快で、必須事項、予備知識を思い出させるように多くの工夫をした"とIllusieは述べた。グロタンディークは秀でた教師であり、我慢強く、事を明快に説明することに熟練していた。"仕組みがどう動くかを示す非常に簡単な例を説明する時間を取った"とIllusieは言った。グロタンディークは、"自明"、従って余りにも明らかすぎて説明を要しないとよく誤魔化されて来た形式的属性を議論した。普通は"それを取上げないし、時間をかけない"とIllusieは言った。しかし、そういうことは教育学上非常に有益である。"時にはちょっとくどかったが、理解のためには非常によかった"。
グロタンディークはIllusieにセミナーの要約(SGA 5のexposés I, II, III)のためにノートを書き上げる任務を与えた。ノートを書き上げ、"それらを彼に渡す時、私は震えていた"とIllusieは回想した。数週間後、ノートを検討するために家に来ないかとグロタンディークはIllusieに言った。グロタンディークは同僚や学生とよく家で研究した。グロタンディークがノートを取出しテーブルに置いた時、Illusieはノートが鉛筆で書かれたコメントで真っ黒になっているのを見た。グロタンディークが各コメントを読み上げながら、二人は数時間座っていた。"彼はコンマ、ピリオドについて批判したであろう、アクセントについて批判したであろう、内容についても深く批判し、別の編成を提案したであろう、それがコメントの全種類だった。だが、彼のコメント全体が的を得ていた"とIllusieは言った。書かれたノートについて、この種の一行ごとの批判は学生と一緒に作業するグロタンディークの典型的方法だった。数人の学生がこの種の親密な批判に耐え切れず、他の人の下で学位論文を書くことになったとIllusieは回想した。一人はグロタンディークと会った後に殆ど泣かんばかりだった。"私が憶えている一部の人達はそれをあまり好まなかった。...だが、コメントはささいな批判ではなかった"とIllusieは言った。
Nicholas Katzも1968年にポストドクターとしてIHÉSを訪問した時、任務を与えられた。グロタンディークはKatzにレフシェッツペンシルに関してセミナーで講義出来るだろうと勧めた。"レフシェッツペンシルがあるのは知っていたが、それを除けば殆ど何も知らなかった。だが、年の終わりまでにセミナーで2,3のトークをした。それらは現在SGA 7の一部として存在する。そのことから私は非常に多くのことを学び、私の将来に大きな影響を与えた"とKatzは回想した。グロタンディークはたぶん一週間毎の一日をビジターに話すためにIHÉSへ来るのが常だったとKatzは言った。"本当に不思議だったことは、彼はその頃どういうわけか彼等を何かに興味を持たせ、彼等にすべきことを与えるのが常だった。だが、と同時に、そんな特別な人に考えさせる良い問題が何であるか、一種の不思議な洞察力だと私には思える。そして彼はとにかく数学的に信じられないほどカリスマ的だったから、未来へのグロタンディークの長期ビジョンの一部である何かをしないかと求められることに人々は特権だと感じたようだ"とKatzは説明した。
ハーバード大学のBarry Mazurは今でも、1960年代初期にIHÉSでの初めての会話中でグロタンディークが彼に提出した問題を憶えている。その問題はGerard Washnitzerが元々グロタンディークに尋ねたものだった。問題は、体上で定義された代数多様体が、体から複素数への2つの異なる埋込みによる2つの位相的に異なる多様体を与えられるか? セールが早くに2つの多様体が異なるだろうことを示している実例を与えた。Mazurはこの問題に刺激を受けたArtinと一緒にホモトピー理論の或る研究を続けた。だが、グロタンディークがこの問題を提出した時、Mazurは熱心な微分位相幾何学者だったし、そんな疑問は彼には思いもよらなかったであろう。"グロタンディークにとって、それは当然な疑問だった。だが私にとって、それは代数について考え始めさせる、まさに動機の類だった。グロタンディークは人々と未解決問題を組合せる才覚を持っていた。彼は人を見定め、人にとって世界の解明に繋がるかも知れぬ問題を提出したのだろう。それは、非常に素晴らしく稀な感知力からなる手段だ"とMazurは言った。
IHÉSでの学生や同僚との研究に加えて、グロタンディークはパリ外の大勢の数学者と文通を維持し、彼等の一部は他所で彼のプログラムの一部を研究していた。例えば、バークレー・カリフォルニア大学のRobin Hartshorneは1961年にハーバードにいて、グロタンディークのハーバードでの講義から彼の学位論文ためのトピックのアイデアを得たが、そのトピックはヒルベルトスキームについてであった。学位論文を書き上げてHartshorneはコピーをグロタンディーク(彼はその時までにパリに戻っていた)に送った。1962年9月17日付けの返信に、グロタンディークはその学位論文について簡単で肯定的な注意をした。"手紙の次の3ページ又は4ページは、私が展開出来るかもしれない更に進んだ定理やその分野で人が知りたい他の事柄に関する彼のアイデアがびっしり"とHartshorneは言った。その手紙が示した事柄の一部は"途方もなく難しい"とHartshorneは注記した。その他は注目すべき予見を示している。アイデアのほとばしりの後、グロタンディークは学位論文に戻り、詳細なコメントからなる3ページを費やした。
1958年エジンバラ会議での彼のトークの中で、双対性の理論に対する彼のアイデアの概要を述べたが、IHÉSセミナーでは他のトピックで忙しかったので、双対性の理論は取上げられなかった。そういうことで、Hartshorneは双対性に関するセミナーをハーバードで行い、ノートを書き上げることを申し出た。1963年の夏過ぎに、グロタンディークはHartshorneに約250ページの"プレノート"を供給した。その"プレノート"がセミナーの基礎となり、Hartshorneはセミナーを1963年の秋に始めた。聴衆からの質問はHartshorneが理論を展開し洗練するのに役立って、系統だった方法で理論を書き始めた。彼は各章を批評のためにグロタンディークに送るのが常だった。"いたるところ赤インクで覆われて戻って来るのが常だった。私は彼が言ったすべてを直し、新しいバージョンを彼に送ったものだ。そして、更に赤インクが増えて再度戻って来るのが常だった"とHartshorneは回想した。これは潜在的に終わりなきプロセスだと分かったので、Hartshorneは或る日原稿を刊行のために発送することにした。それは1966年にスプリンガー講義ノートシリーズに出現した。[Hartshorne]
グロタンディークは"とても多くのアイデアを持っていたので、その当時通しで彼は世界の真剣なすべての代数幾何学研究者を基本的に忙しくさせた"とHartshorneは述べた。どのように彼はそんなチャレンジ精神を保ったのか? "簡単な答えは無いと思う"とArtinは返答した。しかし、確かにグロタンディークのエネルギーと広さが要因だった。"彼は非常にダイナミックで、すべての領域をカバーした。注目すべきことの一つは、彼がその分野の完全なコントロールを握っていたこと。12年間前後の間、その分野には無精者は住まなかった"。
IHÉS時代の間がグロタンディークの数学専念のすべてだった。研究に対する彼の恐ろしいエネルギーとキャパシティは、彼の内なるビジョンへの執拗な忠誠と結合して、多くの人を流れの中へ押し流したアイデアの洪水を造った。彼は自分が立てた威圧感いっぱいのプログラムにひるまず、突入して大小の仕事を引受けた。"彼の数学予定はどんな人間が一人で出来るであろうものよりずっと多い"とBassはコメントした。彼は研究の大部分を彼の学生と同僚に分割し、一方でかなりなものを自分で引受けた。収穫と種蒔きで説明したように、彼にモチベーションを与えたものは理解したい欲求だけであり、実際彼を知っていた人達は彼がどんな意味の競争によっても駆り立てられなかったと確証する。"当時、誰か他の人前で何かを証明する考えは無かった"とセールは説明した。そしていずれにせよ、"ある意味で、彼は自分自身の方法でものをやりたかったし、本質的に他の誰もが同じことをやりたくなかったので、彼は誰とも競争にならなかっただろう。仕事が多過ぎだった"。
グロタンディーク学派の権勢はいくらか有害な影響を持った。グロタンディークの著名なIHÉS同僚ルネ・トムでさえ圧力を感じた。[Fields] の中で、ルネ・トムはグロタンディークとの関係は他のIHÉS同僚よりも"好ましくない"と書いた。"彼の技術的優勢は圧倒的だった。彼のセミナーはパリっ子数学の全体を惹きつけたが、一方で私は何も新しいことを提供しなかった。それが私に厳密数学的世界を去らせ、形態形成のようなもっと一般的概念に取組ませた。その分野は私にもっと興味を持たせ、非常に一般的な形の'哲学的'生物学へ私を導いた"。
1988年のテキストUndergraduate Algebraic Geometryの終わりにある歴史的注意の中で、Miles Reidは"グロタンディーク個人信仰は深刻な副作用があった。ヴェイユのファンデーションをマスターすることに人生の大部分を費やした多くの人は拒絶され恥をかいた。...全世代の学生(主にフランス人)は、高性能抽象形式に盛装出来ない問題は研究に値しないという阿呆な信念へと洗脳された"と書いた。グロタンディーク自身は抽象化のための抽象化を決して追求しなかったけれども、そんな"洗脳"はおそらく時代の流行の不可避な副産物だった。"ペースを守り、生き残る"ことが出来た少数のグロタンディークの学生を別にして、彼のアイデアから最も恩恵を受けた人達は離れて影響を受けた人達、特にアメリカ人、日本人、ロシア人だった、ともReidは注記した。Pierre Cartierは、Vladimir Drinfeld、Maxim Kontsevich、Yuri Manin、Vladimir Voevodskyのようなロシア人数学者の研究にグロタンディークの遺産を見ている。"彼等はグロタンディークの真の精神を捉えているが、他のことにそれを結び付け出来ている"とCartierは言った。

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797455 journal
数学

taro-nishinoの日記: 虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その1

日記 by taro-nishino

親族の数学に多少の興味を持っている高校生からグロタンディーク氏(本来なら博士とお呼びすべきなのでしょうが、皆さんもご存知の通り氏は世間と没交渉ですし、博士と呼ばれるのは最も氏の忌嫌うことだと容易に想像されますので、氏のままにします)のまとまった伝記本が無いのかと聞かれ、ちょっと困ったなあと思いました。本がある無しで弱ったのではなく、グロタンディーク氏の人生を知ってショックを受けるかも知れぬと危惧したからです。勿論私くらいの年齢の大人になれば、天才は天才であって、凡才は凡才に過ぎぬと居直って平気なのですが、高校生くらいの年齢ではまだ自己が何たるか分かっていないので無限大の力を持っているかのように錯覚しがちです。今の日本で家が裕福でないと言っても、グロタンディーク氏ほど劣悪な環境で少年期を過ごすことは先ずないと思います。ですから、大人はどうでもいいですが、青少年はもっと勉強出来るはずなんです。グロタンディーク氏の少年期を考えれば、凡才なりに勉強しないと人として恥だと思ってほしいです。
さて、グロタンディーク氏のまとまった伝記本は私の知る限り皆無です。但し、一つだけ例外があり、後でまた触れます。本ではありませんが、まとまった伝記的記事で定評があるのがAllyn Jackson女史の"Comme Appelé du Néant—As If Summoned from the Void: The Life of Alexandre Grothendieck"(PDF)だと思います。この記事は2004年に発表されましたが、書かれた当時はまだグロタンディーク氏が御存命である可能性が高かったのですが、今は83歳ですから生きておられるかどうかわかりませんし、誰も知るすべを持っていません。なお、Allyn Jackson女史は現在"AMS Notices"の主任編集者です。編集者は裏方さんなので、プライベートなことを言いたくないのですが、数学科で勉強され、私の記憶に間違いが無ければ学位も持っているはずです。ですから、どこかの無責任な素人編集者ではありません。
ここで伝記本の件に戻ります。先に例外があると言いました。Jackson女史の記事の中でも言及されていますが、現在ミュンスター大学名誉教授のWinfried Scharlau博士が伝記本(独語)を書いていました。但し、その本は限定出版と言うのか注文出版と言うのかよく分かりませんが、限定されています。つまり、商業ベースに乗せていないのです。その理由は博士が明言されていないので分かりません。ただ、何となく分かるような気がします。伝記の主人公が世間と縁を切って姿をくらましているのに、赤の他人が土足で家に上がるようなもんです。しかも、グロタンディーク氏の心の傷になっているはずの少年期にも触れなければならないのです。だから商業ベースに乗せることに躊躇いがあったと思います。もう一つ理由があると思います。Scharlau博士はグロタンディーク氏と会ったことがありません。ですから、Michael Atiyah卿が言っている、グロタンディーク氏を個人的に知る数学者が学問的に等身大の伝記を書くことが望ましいという意見に反するのです。
しかしながら、Atiyah卿やジャン=ピエール・セール博士がグロタンディーク氏の伝記を書くなんて私は想像出来ませんし、お二人ともご高齢ですから先ずあり得ないでしょう。結論を言えば、この先伝記本が書かれることはないと思います。従って、伝記本は皆無です。但し、無責任素人が書く可能性はあります。
ともかくも、Jackson女史の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、この記事は前篇で続きがあります。後編の第2部は私が気の向いた時にでも(いつになるかわかりません)紹介するかも知れません。
前篇だけでも長いので、その1とその2と2つに分けました。

虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇その1
2004年10月 Allyn Jackson

そして、すべての科学は、力と支配の手段としてではなく、人類により時代を跨って追求されて来た知識内の冒険として考える時、紛れもなくこの調和であり、一つの時代から別の時代へと多少拡がり、多少豊富になる。あたかも虚空から呼出されたかのように順次出現するすべてのテーマの繊細な対位旋律によって、世代と世紀を越えて拡がる。
収穫と種蒔き、ページ20

アレクサンドル・グロタンディークは、数学的事項に非常に敏感で、それらの複雑でエレガントな構造に深い知覚を持つ数学者である。彼の経歴から2つの目立つ点は、彼がフランス高等科学研究所(IHÉS)の創始者メンバーであり、1966年にフィールズ賞を受賞した。これで20世紀数学の偉人の中に入ることは十分である。だが、そんな些細なことは彼の研究の本質を捉えられないし、本質はもっと遥かに基本的で慎ましいことに根を持っている。彼が長い追想録収穫と種蒔き(Récoltes et Semailles、R&S)で書いたように、"研究者の創意と想像の質を為すものは、物事の声に耳を傾ける注意力の質である"(強調はオリジナル P27)。今日、グロタンディーク自身の声は、彼の書くもので表現されているけれども、あたかも虚空を通して私達に届く。現在76歳の彼は何十年以上、フランスの南部の人里離れた小村に引き篭って暮らしている。
グロタンディークは数学風景を"宇宙的に全体的"(ミシガン大学のHyman Bassの言葉)な見地で変えた。この見地は徹底的なまでに数学に吸収されたので、その分野で必ずしもこのようではなかったことを理解するのは近頃の新参者にとって困難だ。グロタンディークは代数幾何学に深い足跡を残したが、オブジェクトそれ自体を理解するやり方で数学的オブジェクト間の関係の発見を重視した。問題を高度に一般的な状況で理解する、非常にパワフルで殆ど浮世離れた抽象化能力を彼は持っていて、精巧な正確性でこの能力を使った。実際、増大する一般性と抽象化への傾向は、20世紀の半ばからすべての分野で見られるのであるが、その決して小さくない部分はグロタンディークの影響のためでもある。同時に、それがための一般性(不毛な面白みのない数学になり得る)は、彼に全く魅力を感じさせなかったものだ。
第2次世界大戦中の彼の少年時代は相当な混沌とトラウマがあり、彼の教育的経歴はよくなかった。どのようにして彼が貧困な生い立ちから抜け出て、世界の指導的数学者の一人としての彼自身のための生活を築いたかは、激動のドラマの一つのストーリーだ。彼の偉大な業績が開花し、並外れた個性に大いに影響された数学的環境を突如去るのは1970年の彼の決定である。

初期時代

私達の高校数学教科書で私にとって不満だったことは、曲線の長さ、曲面の面積、立体の体積の概念の真剣な定義の欠如だった。機会があれば、私がこのギャップを埋めようと自分に誓った。
収穫と種蒔き、ページ3

プリストン高等研究所のArmand Borel(2003年の8月に80歳で亡くなった)は、1949年11月にパリのブルバキセミナーで初めてグロタンディークに会ったことを憶えていた。講義の間の休憩中に、20代半ばのBorelはCharles Ehresmann(45歳のフランス数学の指導的人物だった)と話をしていた。Borelが回想したことには、一人の若い男がEhresmannに大股で近づき、何の前置きもなく、"貴方は位相群のエキスパートですか?"と詰問した。高慢と思われたくないので、Ehresmannは位相群について何かを知っていると答えた。その若い男は"だが、本当のエキスパートが必要なんだ!"と言い張った。これが、生意気、激情的で、全くの無礼ではないが社交上の細かい作法をほぼ持っていない21歳のアレクサンドル・グロタンディークだった。Borelはグロタンディークが尋ねた質問を憶えていた。つまり、すべての局所位相群は大域位相群の芽なのか? 結局、Borelが反例を知っていた。グロタンディークが既に非常に一般的な観点で考えていたことを示す質問だった。
1940年代末のパリでの時期は初めての数学的研究との接触だった。その時まで、彼の人生物語(少なくとも知られていること)は、その世界で群を抜いて高い人物になるという運命の糸口を殆ど含んでいない。グロタンディークの家族歴と初期時代の詳細の多くが大雑把、又は未知である。ミュンスター大学のWinfried Scharlauはグロタンディークの伝記を書いていて、彼の人生のこの部分について注意深く研究して来た。以下の伝記的スケッチの多くは、Scharlauへのインタビューと彼がグロタンディークについて集めている伝記的資料 [Scharlau] [訳注:Scharlau博士のサイトには以前まで執筆中の伝記(独語)を閲覧出来たはずなのですが、今はもう自費出版されて閲覧不可能なようです。但し、短い記事は数少ないですが、閲覧出来ます]から来ている。
名前がAlexander Shapiroだったかも知れない、グロタンディークの父親は1989年10月11日にウクライナのノボズイプコフでユダヤ人家族の中に生まれた。Shapiroはアナーキストで、20世紀の初頭に帝政ロシアでのいろいろな蜂起に関係した。17歳の時に逮捕され、やっとのことで死刑宣告を逃れられたが、数回の逃亡と再逮捕の後、合計して約10年間刑務所で過ごした。グロタンディークの父は、別のもっと有名な活動家(いくつか同じ政治運動に参加した)で同名のAlexander Shapiroに時々混同される。この別のShapiroは、John Reedの本Ten Days that Shook the Worldに書かれていて、ニューヨークへ移住し1946年にそこで亡くなったが、その時までの4年間にグロタンディークの父は既に亡くなっていた。1970年代の一時期にグロタンディークと一緒に暮らし、彼との間に息子がいるJustine Bumbyによると、彼の父は、警察の逮捕を逃れようとする間に自殺行為をして片腕を無くした。グロタンディーク自身が2人のShapiroの混同に知らず知らず寄与したのかも知れなかった。例えば、フランス高等科学研究所のPierre Cartierは、[Cartier2] の中で、Reedの本の中の人物の一人が彼の父親だというグロタンディークの主張に言及した。
1921年Shapiroはロシアを離れ、以後の人生は無国籍だった。政治的過去を隠すために、Alexander Tanaroffという名前の身分証明を得て、以後この名前で暮らした。彼は、フランス、ドイツ、ベルギーでアナーキストや別の革命グループと共に過ごした。1920年代の中頃、ベルリンの急進的サークルで、彼はグロタンディークの母、Johanna (Hanka) Grothendieckと出会った。彼女は1900年8月21日、ハンブルクのルーテル教徒のブルジョア家庭に生まれた。伝統的な躾に反逆して彼女は、当時前衛派文化と革命的社会運動の温床だったベルリンに惹かれた。彼女とShapiro共にライターになることを熱望した。彼は決して発表しなかったが、彼女はいくつか新聞記事を発表した。特に1920年と1922年に、Der Prangerという左派系週刊新聞に書き、ハンブルク社会の底辺で暮らす売春婦の理由を取り上げた。ずっと後の1940年代末に、彼女はEine Frauという自伝的小説を書いたが、発表されなかった。
Tanaroffの人生の大部分は街頭カメラマンだったが、彼のアナーキスト主義に反していたであろう雇い主と従業員の関係を持たずに独立した生計を得る職業だった。彼とHankaはそれぞれ前に結婚して子供がおり、彼女は女の子、彼は男の子だった。アレクサンドル・グロタンディークは1928年3月28日にベルリンで、Hanka、Tanaroff、Hankaの最初の結婚で生まれた娘Maidi(アレクサンドルより4歳上)から成る家庭に生まれた。彼は家庭では、後には親しい友人からもShurikと呼ばれた。父親のニックネームはSaschaだった。彼は異母兄に会っていないけれども、グロタンディークは1980年代に書かれた原稿、A La Poursuite des Champs(野を追跡する)を彼に捧げた。
1933年ナチスが権力を持った時、Shapiroはベルリンを逃れパリに避難した。その年の12月、Hankaは夫に付いて行こうと決心し、ハンブルク近郊のブランケネーゼの里親家庭に息子を預けた。Maidiは障害を持っていなかった(R&S、ページ472–473)けれども、ベルリンにある障害児のための施設に残された。里親家庭はWilhelm Heydornによって率いられていたが、彼の注目すべき人生は伝記Nur Mensch Sein! [Heydorn] で概略が述べられている。その本は1934年からのアレクサンドル・グロタンディークの写真を含み、簡単に言及されている。Heydornはルーテル教徒で軍将校だったが、当時は教会を離れ、小学校教師とHeilpraktiker(近頃では大雑把に"代替医術の実践者"と訳していいかも知れない)として働いた。1930年、彼は"Menschheitspartei"(人類党)という理想的政党を創設したが、ナチスによって非合法化された。Heydornは彼自身4人の子供を持っていたが、彼と彼の妻Dagmarはキリスト教徒の義務という意識に沿って、第2次世界大戦前の荒れ狂った時期に家族と離別された複数の里子を泊めた。
グロタンディークは5歳と11歳の間の5年間、Heydorn家族と共に泊まり、学校へ通った。Dagmar Heydornの追想録は、自由で本当に正直だが抑制に欠ける幼いグロタンディークを回想した。Heydorn家といた間、母親から2,3通の手紙を受け取っただけで、父親からは何の言葉も無かった。Hankaはまだハンブルクに親戚がいたけれども、誰もいっさい彼女の息子を訪問しに来なかった。収穫と種蒔き(ページ473)で表明したように、グロタンディークにとって突然の両親との別離は非常なトラウマだった。Heydorn家と一緒の幼いグロタンディークはさほど幸福ではなかったのだろうとScharlauは推測した。アナーキストのカップルによって率いられた自由な家庭で生活を始めたので、Heydorn一家の厳しい雰囲気は苛立ったであろう。彼は実際、Heydorn家の近くに住む他の家族と親しく、大人としての彼はそれらの家族に長年手紙を書き続けた。彼はHeydorn家にも手紙を書き、数回ハンブルクを訪問したが、1980年代中頃が最後だった。
戦争が差し迫った1939年まで、Heydorn家へ政治的圧力が増大し、もはや里子を泊めておけなかった。グロタンディークはユダヤ人に見えたから、特に難しいケースだった。彼の両親の正確な所在は分からないが、Dagmar Heydornはハンブルクのフランス領事館に手紙を書き、やっとのことでパリのShapiroとニームのHankaへメッセージを届けられた。いったん両親と連絡がついたら、11歳のグロタンディークはハンブルクからパリへの列車に乗せられた。彼は1939年の5月に両親と合流し、戦争前の短い時期を共に過ごした。
グロタンディークがハンブルクにいた間、彼の両親がしていたことは正確には分からないが、彼等は変わらず政治活動していた。彼等はスペイン内戦を闘うためスペインへ行き、フランコが勝利した時、フランスへ逃げる大勢の中に彼等はいた。政治的活動のため、Hankaと夫はフランス国内で危険外国人と見なされた。グロタンディークが彼等と合流した後のある時、Shapiroは(フランス収容所の内でも最悪な)捕虜収容所ル・ヴェルネに収監された。妻と息子を再び見たことは無いであろう。1942年8月、彼はフランス当局によってアウシュヴィッツへ国外追放され、そこで殺された。この時、Maidiに何があったか明らかでないが、彼女はアメリカ兵士と結婚し米国へ移住した。彼女は数年前に亡くなった。
Hankaと息子はマンドゥの近くのリュクロにある捕虜収容所に収監された。一般的な捕虜収容所としては、リュクロにあるものは良いものの一つで、グロタンディークはマンドゥのlycée(高校)へ行くことを許された。それでも、貧しく不安な生活だった。Hankaがナチスの敵対者であることを知らないフランス人から時々彼と母は避けられたと彼はBumbyに語った。一度、ヒトラー暗殺の意図を持って彼は収容所から逃げたが、すぐ捕まり戻された。"逃亡に成功していたなら簡単に命を落としていたでしょう"とBumbyは言及した。彼はいつも強くボクシングが上手だったが、彼は時々いじめの対象になっていたから、特技はこの時に役立った。
2年後、母と息子は引き離された。Hankaは別の捕虜収容所に送られ、息子は結局シャンボン=シュール=リニョンの町へとなった。プロテスタント牧師André Trocméは、シャンボンの高地リゾートの町を対ナチス抵抗の拠点及び戦争中ユダヤ人や危険にさらされている人を保護する避難所に変えた。[Hallie] そこで、グロタンディークはスイス組織に援助された児童ホームに入れられた。若い人に教育を与えるために設立されたセヴァンヌ学校に通いバカロレア資格を得た。シャンボン町民の英雄的奮闘は逃亡者を安全に保ったが、それでも生活は危なかった。収穫と種蒔きの中でグロタンディークは、数日間森の中に隠れるため彼と学生仲間を散り散りばらばらにさせたユダヤ人の定期的一斉検挙に言及した(ページ2)。
彼はマンドゥとシャンボンで受けた学校教育についても詳しく述べた。青春時代の困難と混乱にもかかわらず、彼が早い時期から内なる方針を持ったことは明らかだ。数学学級において、彼は教師に頼らず、何が重要で何が重要でないか、何が正しく何が間違っているか見分けた。彼は教科書の数学問題が、それらに意味を与えるものから切離されて、くどくどと表現されていることが分かった。"本に問題があったが、私の問題ではなかった"と彼は書いた。ある問題が彼を捉えた時、どれくらい時間を費やしたかに関係なく、我を忘れてそれに夢中になった。(ページ3)

モンペリエからパリへ、更にナンシーへ

Soula氏[私の微積分教師]は私に、数学で提出された決定的な問題はルベーグという人によって20年か30年くらい前に確か解決されたと言った。ルベーグはまさしく(ああ、何という偶然だ!)測度と積分の理論を展開し、それは数学の終点だった。
収穫と種蒔き、ページ4

1945年の5月に欧州で戦争が終わった時までに、アレクサンドル・グロタンディークは17歳になった。彼と彼の母は、モンペリエ郊外のワイン生産地にある村、マザルグへ生活のため向かった。彼はモンペリエ大学に入学し、二人は彼の学生奨学金とぶどう収穫の季節労働によって生き延びた。母も家庭清掃で働いた。教師が教科書にあることを殆ど繰り返しているのが分かったので、やがて彼は大学のコースにますます出席しなくなった。当時、モンペリエは"数学を教えることに関して、フランスの大学の中で最も遅れたうちにいた"とジャン・デュドネは書いた。[D1]
この面白くない環境の中で、グロタンディークはモンペリエでの3年間の殆どを、長さ、面積、体積の満足する定義を与える方法について彼が感じた高校教科書のギャップを埋めることに費やした。彼は独力で、測度論とルベーグ積分の概念を実質的に再発見した。このエピソードは、グロタンディークの人生とアルベルト・アインシュタインの人生の複数の類似点のうちの一つである。若き頃のアインシュタインは統計物理で彼自身のアイデア(Josiah Willard Gibbsが既に発見していたことを彼は後に知った)について展開した。
1948年モンペリエで学士を終えたグロタンディークは、フランスの数学の中心であるパリに行った。1995年のフランスの雑誌に発表されたグロタンディークに関する記事 [Ikonicoff] で、フランス教育当局者André Magnierはグロタンディークのパリ行きのための奨学金申請を回想した。Magnierは彼にモンペリエでやっていた計画の説明を訊いた。"私はびっくり仰天した。20分の面接の代わりに、彼はどのようにして、構築に数十年かかる理論を'可能なツール'を使って再構築したかを私に2時間も説明し続けた。彼は異常な賢明さを示した"と記事はMagnierの言うことを引用した。Magnierは"グロタンディークは並外れた若人という印象を与えたが、苦難と貧困によりバランスを欠いていた"とも付け加えた。Magnierはすぐに奨学金にグロタンディークを推薦した。
モンペリエでのグロタンディークの微積分教師Monsieur Soulaは彼にパリに行くことを勧め、カルタンに連絡を取った。カルタンはSoulaの先生だった。カルタンという名前が当時80歳に近いエリ・カルタンを指すのか、当時40歳台半ばの息子のアンリ・カルタンを指すのか、グロタンディークは分からなかった(R&S、ページ19)。1948年の秋パリに到着した時、モンペリエで彼がやった研究を数学者達に見せた。Soulaが言った通り、結果は既に知られていた。しかし、グロタンディークは失望しなかった。実のところ、この初期の孤立した成果は数学者としての彼の成長にとって決定的だった。収穫と種蒔きで、彼はこの時のことに言及した。"それを知らないで、私は孤立して数学者の専門にとって本質的なこと―どんな達人も教えられないものを学んだ。言われたことがなくても、'心底から'私は数学者、人がセックスを'する'と言うような最大限の言葉の意味で、数学を'する'人だと分かった"。(ページ5)
エコール・ノルマル・シュペリウールでアンリ・カルタンによって運営されている伝説的セミナーにグロタンディークは出席し始めた。このセミナーは、グロタンディークが彼のキャリアの中で後に断固として採用したパターンを守っていた。そのパターンでは、テーマは年間のコースを超えて講義で研究され、講義は系統立てて書き上げられ刊行される。1948年-1949年のカルタンセミナーのテーマは単体代数的トポロジーと層理論(当時はフランスのどこでも教えられていなかった最先端なトピックス。[D1])だった。実際に、これはジャン・ルレイによって層の概念が体系化されて日も浅かった。カルタンセミナーで、グロタンディークはクロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネ、Roger Godement、ローラン・シュワルツ、アンドレ・ヴェイユを含む、その時代の傑出した数学者の多くに初めて出会った。この時のカルタンの学生の中にジャン=ピエール・セールがいた。カルタンセミナー出席に加えて、コレージュ・ド・フランスでルレイによって与えられた局所凸空間の当時新しい概念に関するコースに行った。
幾何学者エリ・カルタンの息子として、彼自身の正当性で傑出した数学者として、エコール・ノルマル・シュペリウールの教授として、アンリ・カルタンは多くの意味でパリ人数学的エリートの中心だった。また、彼は戦後ドイツ人同僚に手を差し伸べようとした数少ないフランス人数学者の一人だった。これは、彼が戦争のおぞましさを痛切に知っているにも拘わらずだった。彼の弟はレジスタンスに参加し、ドイツ人に捕らえられ打首にされた。カルタンと多くのトップ数学者(例えば、Ehresmann、ルレイ、シュヴァレー、デルサルト、デュドネ、ヴェイユ)はノルマル人(彼等はフランスの最も権威ある高等教育機関エコール・ノルマル・シュペリウールの卒業生を意味した)だったという共通の経歴を持っていた。
グロタンディークがカルタンセミナーに参加した時、彼はアウトサイダーだった。彼は戦後フランスに住むドイツ語スピーカーだったのみならず、彼の貧弱な教育的素養はグループのそれと際立って対照的であり、グループ内で彼はそのことに気付いた。それでも収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは周囲の状況で彼が変わっているとは感じなかったと言い、"慈悲深い歓迎"を受けた思い出を詳述した。(ページ19-20) 彼の遠慮の無さは注目を引いた。カルタンの100歳祝福記事の中でJean Cerfは、この時前後のカルタンセミナーで"部屋の後ろからあたかも対等であるかのようにカルタンに話す無礼をした変わり者(グロタンディークだった)"を見た思い出を書いた。[Cerf] グロタンディークは遠慮なく質問したが、それでも、彼の周りの人が即座に把握し"揺りかごの時から知っていた"かのような事柄を学ぶのに苦労していることも彼は気付いたと書いた。(R&S、ページ6) これが1949年10月にカルタンとヴェイユのアドバイスで、彼がパリの高尚な雰囲気を離れスローペースのナンシーに向かった理由だったのかも知れない。また、デュドネが [D1] に書いたように、この時のグロタンディークは代数幾何学よりも位相ベクトル空間に興味を持っていて、ナンシーは彼にとって行くべき自然な所だった。

ナンシーでの見習い期間

私が1949年にナンシーで愛情を受けた時の始めの瞬間から、ローランとエレーヌ・シュワルツの家(そこでは、私は多少家族の一員だった)で、デュドネの家で、Godementの家(当時、私のたまり場にもなった)で...愛情は伝わった...。数学の世界での私の第一歩を囲い込み、そして私がいくらか忘れがちだった、この愛情深い温かさは数学者としての私の全人生に重要だった。

収穫と種蒔き、ページ42

1940年代の末、ナンシーはフランスの最も有力な数学的中心の一つだった。実際、架空のニコラ・ブルバキは"ナンカゴ大学"出身だと言われたが、"ナンカゴ大学"の名前は、ナンシーのブルバキメンバーとともにヴェイユのシカゴ時代を参照した。ナンシーの学部はデルサルト、Godement、デュドネ、シュワルツを擁した。ナンシーでのグロタンディークの学生仲間には、Jacques-Louis LionsとBernard Malgrange(グロタンディークと同時期にナンシーに来た23歳のブラジル人Paulo Ribenboimと同様にシュワルツの学生だった)がいた。
Ribenboim(現在、オンタリオのクイーンズ大学名誉教授)によれば、ナンシーでのペースはパリよりも慌ただしくなく、教授は学生のための時間をより多く持った。グロタンディークの予備知識の不足がカルタンの高度なセミナーについて行けなかったためナンシーに来たという印象を受けたとRibenboimは言った。だからと言って、グロタンディークが告白したのではない。"彼は分からないと認める男ではなかった!"とRibenboimは注意した。それにもかかわらず、グロタンディークの異常な才能は明らかで、Ribenboimは彼を理想として仰ぎ見たことを憶えていた。グロタンディークは極度に感情が激しかったのであろう、時々厚かましいやり方で自身の考えを述べた、とRibenboimは回想した。"彼は意地悪でなかったが、自身と他の誰にも厳しかった"。グロタンディークは殆ど本を持たなかった。読んで事柄を学ぶよりも、自力でそれらを再構築したものだった。そして懸命に研究した。Ribenboimはシュワルツが言ったことを回想した。"君はバランスのとれたいい若者だと思う。グロタンディークと友達になって、彼が研究ばかりしないようにすべきだ"。
デュドネとシュワルツは、位相ベクトル空間についてナンシーでセミナーを実施した。デュドネが [D1] で説明したように、この時までバナハ[訳注:Banachの日本語表記はバナッハが通例ですが、私が欧米人の発音を何回か聞いてもバナハとしか聞こえなかったので、以降バナハと表記します]空間とその双対は非常に理解されていたが、局所的凸空間は最近導入されたばかりで、その双対の一般論はまだ解決されていなかった。この分野で研究しているうちに、デュドネとシュワルツは一連の問題にぶつかり、グロタンディークに任せようと決心した。数ヶ月後、彼がそれらの問題の一つをすべて解決し関数解析の他の問題の研究に進んだ時、デュドネとシュワルツは吃驚した。"1953年、彼に博士号を与えるべき時だったが、彼の書いた6つの論文の中から選ぶ必要があった。そのどれもが素晴らしい博士論文のレベルだった"とデュドネは書いた。学位論文として選ばれた論文は"Produits tensoriels topologiques et espaces nucléaires"[訳注:"位相的テンソル積と核空間"]だったが、グロタンディークの全研究を特徴付けるだろう思考の一般性の最初の兆候を示す。シュワルツはグロタンディークの結果を1954年に発表されたパリセミナー"Les produits tensoriels d’après Grothendieck"[訳注:"グロタンディークによるテンソル積"]で普及させた。[Schwartz] その上、1955年にグロタンディークの学位論文は研究書としてAMSの研究論文集シリーズに出現した。それは1990年に7回増刷された。[Gthesis]
関数解析でのグロタンディークの研究は"全く並外れている"と、ロスアンゼルス・カリフォルニア大のEdward G. Effrosは評した。"彼は間違いなく、第2次世界大戦後に盛んになった代数的/カテゴリ的手法が関数解析の高度に解析的な分科で使用されるだろうと最初に認識した"。或る意味で、グロタンディークは時代の先にいた。バナハ空間論のメインストリームにグロタンディークの研究が十分に取り入れられるまでに少なくとも15年要した(代数的な観点を採用することに少し躊躇いがあったため)とEffrosは注意した。グロタンディークの研究の影響は近年、バナハ空間論の"量子化"(グロタンディークのカテゴリ的アプローチは特に適している)で大きくなっているとEffrosは言った。
グロタンディークの数学研究は前途有望に始まったけれども、個人的生活は不安定だった。彼はナンシーで母親と暮らしたが、彼女は(Ribenboimの回想)結核のため時折ベッドに臥せた。彼女は捕虜収容所で病気にかかった。彼女が自伝的小説Eine Frauを書いていたのは、この時前後だった。グロタンディークと或る年配の婦人(グロタンディークと母親が部屋を借りていた下宿を営んでいた)の密通は彼の最初の子供、Sergeと命名された男の子の誕生という結果になった。Sergeは殆どグロタンディークの母親に育てられた。博士号を終えた後、グロタンディークの定職の見込みは破れた。彼は無国籍だったし、当時フランスで市民権を持たない人が定職を得ることは困難だった。フランス国民になることは、グロタンディークが拒否した軍役を伴っただろう。1950年からフランス国立科学研究センター(CNRS)によって、ある地位を持っていたが、これは定職よりも特別奨学金受領者にずっと似ている。ある時点で、金を得る一方法として彼は大工仕事を学ぼうと考えた(R&S、ページ1246(*))。
ローラン・シュワルツは1952年にブラジルを訪問し、フランス内で職を見つけることが困難な、前途有望な若い学生について語った。結果として、グロタンディークはサンパウロ大学の客員教授の申し出を受け、その地位を1953年と1954年の間保持した。José Barros-Neto(当時サンパウロ大学の学生で、現在ラトガース大学名誉教授)によれば、グロタンディークは特別な段取りを作って、秋に行われるセミナーに出席するためパリへ帰れるようにした。ブラジル人の数学コミュニティの第2言語はフランス語だったから、グロタンディークが教えたり、同僚と談話することは容易かった。サンパウロに行っている間に、グロタンディークはブラジルとフランス間の科学交流の伝統を受け継いだ。シュワルツの他にも、ヴェイユ、デュドネ、デルサルトはすべて1940年代と1950年代にブラジルを訪問した。ヴェイユは1945年の1月にサンパウロに来て、1947年の秋まで滞在したが、その時にシカゴ大学へ行った。フランスとブラジルの数学的結び付きは今日まで続いている。リオデジャネイロにあるInstituto de Matemática Pura e Aplicada(純粋応用数学研究所)は、多くのフランス人数学者をIMPAに連れてくるというブラジル-フランス協同協定を持っている。
収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは1954年を"困難な年"("l’année pénible")(ページ163)と呼んだ。その年を通じて、彼は位相ベクトル空間における近似問題の前進に成功しなかった。その問題はおよそ20年後にグロタンディークが試みたものと異なる手法で解決されたばかりだった。これは"私の人生で数学をすることが重荷になった唯一の時だった!"と彼は書いた。この苛立ちは彼に教訓を与えた。すなわち、一つの問題が厄介と分かれば、取組むべきものが他にあるように数学的"火中の鉄"をいつも複数持て。
サンパウロ大学教授Chaim Honigは、グロタンディークがサンパウロにいた時に助手で、彼等はいい友達となった。グロタンディークはいくぶん質実剛健で孤独な生活をし、ミルクとバナナだけを食べて完全に数学に没頭したとChaim Honigは言った。Chaim Honigは一度グロタンディークに数学に行った理由を訊いた。数学とピアノに熱中したが、そのような生活を得やすいと思ったから数学を選んだとグロタンディークは答えた。彼の数学的才能は余りにも明らかなので、Honigは言った。"彼が数学と音楽の間で迷った瞬間があるなんて、私は吃驚した"。
グロタンディークはLeopoldo Nachbin(リオデジャネイロにいた)と位相ベクトル空間に関する本を書く計画をしたが、その本は実現しなかった。しかし、彼はサンパウロで位相ベクトル空間のコースを教え、ノートを書き上げた。ノートは順次大学によって刊行された。Barros-Netoはそのコースの学生で、ノートのために基礎的予備知識を与える入門章を書いた。Barros-Netoがブラジルにいた時、グロタンディークは分野を変えることを話していたと回想した。彼は"非常に、非常に野心的だった"とBarros-Netoは言った。"彼の根本的で、重要で、基礎的なことをしなければならない、というやる気を感じられたはずだ"。

期待の新星

本質的なことは、私には熱くも冷たくも感じられなかったそのページの表現の裏にセールはいつも豊富な意味を感じ取り、豊かな触知可能で不思議な実体の知覚を"伝える"ことが出来たということだ。この知覚は同時に実体を理解し見通したいという願望でもある。
収穫と種蒔き、ページ556

グルノーブル大学のBernard Malgrangeはグロタンディークが学位論文を書いた後、彼が位相ベクトル空間にはもう興味が無いと言ったことを回想した。"彼は私に、'もうやるべきことが無い、この分野は死んだ'と言った"。当時、学生は"第2学位論文"の提出を要求された。第2学位論文はオリジナルな研究を含まないが、学位論文のトピックとは遠くかけ離れた数学分野の深い理解を示すためのものだった。グロタンディークの第2学位論文は層理論に関するもので、この仕事は彼の代数幾何学(この分野で彼は最大の研究を行うことになった)への関心のきっかけだったかも知れない。パリで行われたグロタンディークの学位試問の後、Malgrange、グロタンディーク、アンリ・カルタンはタクシーに乗り込み、ローラン・シュワルツの家で昼食に行ったとMalgrangeは回想した。Malgrangeがスキーで足を怪我をしていたので、彼等はタクシーを使った。"タクシーの中で、カルタンはグロタンディークに彼が層理論について言ったことの間違いを説明した"。
ブラジルを去った後、グロタンディークは1955年の1年をカンザス大学(おそらくN. Aronszajnの招待だろう。[Corr])で過ごした。そこで、グロタンディークはホモロジー代数に没頭し始めた。彼が"Sur quelques points d’algèbre homologique"[訳注:"ホモロジー代数のいくつかのポイントについて"]を書いたのはカンザス大学滞在中だった。この論文は、それが掲載されたTôhoku Mathematical Journal [To]の名前を冠して専門家の間で非公式に"東北論文"として知られるようになったが、ホモロジー代数の古典となり、モジュールに関するカルタンとアイレンバーグの研究を拡張した。またカンザスにいる間、グロタンディークは"A general theory of fiber spaces with structure sheaf"[訳注:"構造的層を持つファイバー空間の一般論"]を書き、アメリカ国立科学財団のレポートとして出現した。このレポートは非アーベルコホモロジーに関する彼の第1着想を展開した。非アーベルコホモロジーには後に代数幾何学の状況で舞い戻った。
この時前後、グロタンディークはコレージュ・ド・フランスのジャン=ピエール・セール(グロタンディークは彼にパリで会ったし、後にはナンシーでも出会った)と文通を始めた。彼等の手紙のセレクションが元々の仏語で2001年、仏語-英語の二重バージョンが2003年に刊行された。[Corr] これは長く実りのある交流の始まりだった。手紙は、非常に異なる二人の数学者の間の深く活気に満ちた数学的絆を示す。グロタンディークは非常に飛んだイマジネーションを見せるが、セールの鋭い理解力と広い知識によってしばしば地上に戻されている。時々手紙の中でグロタンディークは驚くべきレベルの無知を示す。例えば、ある時点で、彼はセールにリーマンゼータ関数が無限個の零点を持つのか聞いている。([Corr]、ページ204) "彼の古典的代数幾何学の知識は実際にはゼロだった。私自身の古典的代数幾何学の知識は少しましだったが、大したことはなかった。しかし、それを用いて彼を助けようとした。だが...問題にならない質問が多過ぎた"とセールは回想した。グロタンディークは最新の文献についていく人ではなく、かなりな程度まで、何が行われているかを語るセールに依存した。収穫と種蒔きの中で、独学したことを除いて、幾何学で勉強したことの大部分はセールから学んだと書いた。(ページ555-556) だが、セールはグロタンディークに只単に教えたのではなかった。つまり、彼はアイデアを要約し、グロタンディークが反駁出来ないと分かる方法で要約を議論出来た。グロタンディークはセールを、アイデアの爆発のためヒューズに燃やさせるスパークを与える"起爆薬"と呼んだ。
実際、グロタンディークは彼の研究の中心テーマの多くを追跡してセールに行き着いた。例えば、1955年前後に、コホモロジー的状況でヴェイユ予想をグロタンディークに述べたのはセールだった。その状況は、ヴェイユ予想のオリジナルな説明では明確にされておらず、グロタンディークを罠にはめる可能性があった。(R&S、ページ840) ヴェイユ予想の"ケーラー的"類似のアイデアを通して、いわゆる"標準予想"というグロタンディークの概念もセールが呼び起こした。"標準予想"はより一般的で、系としてヴェイユ予想を暗に意味した。(R&S、ページ210)
カンザスの一年後の1956年、グロタンディークがフランスへ戻った時、CNRSの地位を持っており、大部分の時間をパリで過ごした。彼とセールは手紙と定期的に電話で交流を続けた。これは、グロタンディークがトポロジーと代数幾何学により深く研究し始めた時だった。彼は"アイデアで溢れていた"とArmand Borelは回想した。"第一級のものが彼から出て来るだろうと私は確信した。だが、出現したものは私が期待した以上にずっと高度だった。それはリーマン-ロッホのグロタンディーク版であったが、素晴らしい定理だった。これは実に数学の傑作だった"。
リーマン-ロッホ定理は古典的形式で19世紀の半ばに証明されていた。それが取り組んでいる問題は、多くても特定の有限点集合で与えられた位数の極を持つコンパクトリーマン面上の有理型関数空間の次元は何か、である。その答えがリーマン-ロッホ式だが、曲面の不変式の表現で次元を記述している。それによって、曲面の解析的及び位相的属性の間の深大な繋がりを与える。Friedrich Hirzebruchが1953年に大きく前進させた。その時、彼はリーマン面のみならず、複素数上の射影非特異多様体にも適用されるようにリーマン-ロッホ定理を一般化した。数学界はこの大作(その問題に関する究極の言葉だったかも知れない)に歓喜した。
"グロタンディークがやって来て言った。'いや、リーマン-ロッホ定理は多様体に関する定理ではなく、多様体間の準同型に関する定理だ'"とプリストン大学のNicholas Katzは言った。"これは根本的に新しい見方...完全に変形された定理の表現だった"。カテゴリ理論の基本哲学(オブジェクトそのものよりもオブジェクト間の射にもっと注意を払うべき)は、その頃影響を持ち始めたばかりだった。"グロタンディークがやったことは、この哲学を数学の非常に難しい部分に応用したことだ。これは実際にはカテゴリとファンクタの精神であるが、そのような難しいトピックにこれをすることに誰も考えもしなかった...人々がその表現を与えられ理解したなら、証明出来たであろう他の人がいたかも知れない。だが、表現そのものが他の人の10年先にあった"とBorelは言った。
この定理は1959年にGerard Washnitzer [Washnitzer] によっても証明されたが、複素代数多様体(基礎体が標数ゼロの場合)のみならず、基礎体に関係なく任意の通常の滑らかな多様体にも適用される。その時Hirzebruch-リーマン-ロッホ定理は特別なケースとして成立する。リーマン-ロッホ定理の広範囲な一般化は1963年のAtiyah-Singer指標定理のMichael AtiyahとIsadore Singerの証明と一緒に来た。グロタンディークは証明の過程で、いわゆるグロタンディーク群(本質的に新しい種類の位相不変量)を導入した。グロタンディーク自身はそれをK-群と呼び、K-群はAtiyahとHirzebruchによる位相的K-理論の展開に立脚点を与えた。そして位相的K-理論は代数的K-理論にインスピレーションを与え、両方がこの時から活発な研究分野となっている。
Arbeitstagung(文字通りワークショップを意味する)はHirzebruchによってボン大学で始まり、40年以上の間最先端の数学研究のフォーラムになっている。グロタンディークがリーマン-ロッホに関する研究を話したのは、1957年7月の一番最初のArbeitstagungにおいてだった。だが、面白い紆余曲折があり、結果は彼の名前で発表されなかった。Borelとセールの論文 [BS] の中に出現した(証明も後に、1966-67年Séminaire de Géometrie Algébrique du Bois Marieの第6巻に説明として出現した)。1957年の秋のIAS訪問中に、セールは証明の概略を含む手紙(1957年11月1日 [Corr])をグロタンディークから受けた。セールとBorelはそれを理解しょうとセミナーを開いた。グロタンディークは他のことで忙しかったので、彼等がセミナーノートを書き上げ刊行すると同僚に言った。"グロタンディークの主要な哲学は、数学は小さく自然なステップの連続物に帰着すべきということだ。これが出来ない限り、何が進行しているのか分かっていない...そしてリーマン-ロッホの彼の証明は一つのトリック、une astuce[訳注:因みに日本語ではヒントやチップという意味合いになります]を使った。彼はそれが嫌いだったので発表したくなかった...彼は他のすべきことを多く抱えていて、このトリックを書き上げることに関心はなかった"とBorelは言った。
グロタンディークが懸案に関する見方を革新したのは、これが最後ではなかった。"人々が考えた問題(いくつかの場合では百年も考えた)に彼が来ると、このことが何度も何度も起こり続けた...そして、その懸案にとって人々が重要だと考えたことを完璧に変えた"とKatzは注意した。グロタンディークは未解決の問題を解いていたのみならず、それらが持ち出した核心を見直していた。

新しい世界の幕開け

この"我々、偉大で高潔な精神よ..."というイデオロギーが子供時代から母の中に猛威をふるい、他者との関係を支配したと私は結局分かった。彼女は憐れみ(しばしば横柄で軽蔑的ですらある)を持った崇高さの高みから他者を見下したかった。

収穫と種蒔き、ページ30

Honigによれば、少なくともブラジルにいた時、グロタンディークの母は彼と一緒だった(Honigは彼女に会ったことはないと言うけれども)。彼女がカンザスで彼と一緒だったかどうかはっきりしない。グロタンディークが1956年にフランスへ戻った時、彼等は一緒に暮らしていなかったのかも知れない。1957年11月パリで書かれたセール宛の手紙で、グロタンディークはセールが立ち退く予定のパリのアパートを借りられるか聞いた。"母のため、そのアパートに関心がある。彼女はボワ=コロンブでは上手くなく、非常に孤独だ"とグロタンディークは説明した。[Corr] 実のところ、彼の母はその年の末より前に亡くなった。
友人と同僚は、グロタンディークが両親のことを非常な尊敬と殆ど賞賛を持って話した、と言う。そして、収穫と種蒔きに、グロタンディークは両親に深い根源的な愛情を述べていた。長年、彼はル・ヴェルネ収容所の拘留者仲間によって描かれた父親の目立つ肖像画をオフィスに飾っていた。Pierre Cartierが書いたように、その肖像画は丸坊主で目に"火のような調子"を宿す男を見せた。[Cartier1] グロタンディークも長年丸坊主だった。Ribenboimによれば、Hanka Grothendieckは輝ける息子を大変誇りに思い、同様に息子も母に非常に深い愛情を持っていた。
彼女の死後、グロタンディークは内省の時期を通り抜けたが、その間に彼はすべての数学活動を止めてライターになることを考えた。数ヶ月後、彼は数学に戻り、彼が展開し始めたいくつかのアイデアに関する研究を終わらせることを決心した。これが1958年で、グロタンディークが言ったように、その年は"私の数学人生の中で最も多産"だった。(R&S, ページ24) この時までに、彼はMireilleという名前の女性と一緒に生活をしており、数年後に結婚し、彼女との間に3人の子供Johanna、Mathieu、Alexandreを持つことになった。Mireilleはグロタンディークの母と親しく、彼等を知っている複数の人によれば、彼よりもかなり年上だった。オースティンのテキサス大学のJohn Tateと当時の彼の妻Karin Tateは1957–58年の学年度をパリで過ごし、グロタンディークに初めて会った。グロタンディークが母に原因があると考えた傲慢さを少しも見せなかった。"彼は非常に友好的で、同時に世間知らずで純真だった。多くの数学者は純真、ある意味で俗離れしているが、グロタンディークは最たるものだ。彼は天真爛漫のように見えた―全く洗練されていない、気取りがない、見せかけがない。彼は非常に明確に考えて、何ら偉そうな素振りもなく、辛抱強く事柄を説明した。彼は文化又は権力又は競争原理に毒されていなかった"とJohn Tateは回想した。Karin Tateはグロタンディークが楽しみを受容する十分な能力があり、魅力的で、笑うのが好きだったと回想した。しかし、彼は極端に生真面目で、物事をグレーがなくて白黒に考えた。そして彼は正直だった。"皆が彼を支持した。彼は何も偽らなかった。直接的だった"と彼女は言った。彼女と彼女の弟、マサチューセッツ工科大学のMichael Artinの両者は、グロタンディークの個性と姉弟の父親、Emil Artinの個性が似ていると思った。
グロタンディークは"信じられなくらいの理想家肌"とKarin Tateは回想した。例えば、絨毯は全く装飾贅沢品だと彼は考えていたので、家に絨毯を敷かなかった。また彼女は彼がタイヤから作られたサンダルを履いていたことを回想した。"彼はこれらを素晴らしいと考えた。それらは彼が大事にしていた物の種類のシンボルだった。つまり、持っている物と我慢している物が必要、ということ"と彼女は言った。彼の理想主義には、彼が非常に実際面に疎い可能性もあった。1958年にグロタンディークとMireilleが初めてハーバードを訪問する前に、彼女のかなり貧弱な英語の知識を改善するために彼はお気に入りの小説の一つを与えた。その小説は白鯨だった。
その2へ続く

788850 journal
数学

taro-nishinoの日記: ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評

日記 by taro-nishino

数学者Michael Atiyah卿のことは今更くどくど申し上げるまでもないでしょう。その数学的業績を讃えられ英国王室からナイトの称号を授けられました。今日紹介するのは、ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評(PDF)です。この書評は2007年に発表されたのですが、その2冊とはMaurice Mashaal氏の"Bourbaki, A Secret Society of Mathematicians"とAmir D. Aczel氏の"The Artist and the Mathematician: The Story of Nicolas Bourbaki, the Genius Mathematician Who Never Existed"です。実を言えば、Mashaal氏の本は元々の仏語版"Bourbaki, une société secrète de mathématiciens"として前に刊行されており、ブルバキÉléments de mathématique大嫌い人間の私でも、そちらの方だけは読みました。後にSpringer日本支社からも日本語版"ブルバキ-数学者たちの秘密結社"として出ております。Mashaal氏の本はAtiyah卿も太鼓判を押していますので興味ある方は読んでみたらいいと思います。定評ある本でしたから、英語版は発行元がAMS(米国数学協会)で、平たく言えば御墨付きと言えます。で、問題はAczel氏の本なんです。この人は以前にも"Fermat’s Last Theorem: Unlocking the Secret of an Ancient Mathematical Problem"という本を出し、出版社は別なんですが、一時はAMSからも購買出来ました。しかし、内容に問題があったのでAMSは即に販売中止にしました。この販売中止のこともあって、私はAtiyah卿の書評を読んだ時に成程と思いました。ですから、Aczel氏の"Fermat’s Last Theorem...."と"The Artist and the Mathematician...."は読んでいません。
私は滅多に日本語の本を読まないし関心も無いのですが、先日のPierre Cartier博士のインタビュー記事の私訳を読んだ知人が、Aczel氏の"The Artist and the Mathematician...."の日本語訳が"ブルバキとグロタンディーク"という題名で2007年に出ていることを教えてくれました。私は読んでいませんから、知人から大体の内容を聞き、そして訳者と編集担当者の下心丸見えな題名を聞いて、これはポピュリズム以外の何ものでもないと思いました。少なくとも訳者と編集担当者はAtiyah卿の批判を読んでいないでしょう。読んでいたなら少しは躊躇ったと思います。結局、彼等は面白ければいいのであって、日本人に変な先入観を与えることなぞ何とも思っていないのでしょう。つまり、彼等はグロタンディーク氏を悲劇のヒーローのように扱っているのです(まるで源義経ですね)。私はグロタンディーク氏の偉大なる業績を否定しているのでありません(それどころか、仏語の練習のため氏のEGAばかりを読んでいた時期もありました)。私が過去へタイムスリップでもしない限りグロタンディーク氏に会えるはずがないのですが、私の大先生や大先輩方が若かりし頃にグロタンディーク氏に会ったことがあり、茶飲み話(勿論、オフレコ)でいくつか人柄や逸話を話して下さいました。話を聞く限り芳しいとは言えませんでした。そして、Atiyah卿はグロタンディーク氏と何回も共同研究をしたし、ブルバキの客分でもあった人ですから余人よりも遥かに知っているはずなんです。
"ブルバキとグロタンディーク"で検索しましたら、いろいろな書評(日本語で検索していますので当然日本人の書評です)がありました。すべて本の鵜呑みで、これでは故ヴェイユ博士が気の毒だと思いました(まるで源頼朝ですね)。日本人は多かれ少なかれ似非権威には弱いけれども、本当の権威の言うことは聞かない(と言うか、先ず誰が本当の権威なのか分かっていない)というのが私の持論です。言い換えれば、真実を見ようとしない、もしくは見たくないとも言えます。日本のお隣りの国々と何ら本質的に変わりません。
ともかくも、Atiyah卿の書評の私訳を以下に載せておきますが、読んでいただければ分かる通り、もう書評とは言えず、いわばブルバキ小論であるとともに、無責任な部外者がブルバキと何の接触も無く、知ったかぶりで本を書く弊害への警告とも言えます。

追記:9月13日
アマゾン日本に、"The Artist and the Mathematician...."については、洋書の方でレヴュを、"ブルバキとグロタンディーク"については、レヴュを書きました。私は実際にはこれらの本を読んでいないのですから、あくまで大数学者による批判があるということだけを明記したのみです。

ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評
Maurice Mashaal "Bourbaki, A Secret Society of Mathematicians"
Amir D. Aczel "The Artist and the Mathematician: The Story of Nicolas Bourbaki, the Genius Mathematician Who Never Existed"
2007年9月 Michael Atiyah

私の世代のすべての数学者や、次に続く数十年間の数学者でさえも、ニコラ・ブルバキ(ナポレオン風将軍の化身として、若いフランス人数学者の急進的グループが数学界に影響を与えることになった)を知っていた。彼の思い出は今や薄れてしまったかも知れず、本は古くなり黄ばんでいる。だが、彼の影響は生き続ける。ブルバキが20世紀の数学を復活させ、方向を与えたと信じているので、私達の多くは彼の熱狂的な弟子だった。しかし、数学を厳格の塀の内に監禁し、インスピレーションの外部的ソースを遮断したことで、他の人はブルバキの影響が有害で狭量だと考えた。
今私達は21世紀にいるのだから、主要な役者が舞台を去る前に、顧みてブルバキの全影響を評価しょうとするには適切な時だろう。基本的な歴史的事実はよく知られており、書評対象の2つの本に述べられている。フランスは1914–18年の戦争中に知識階級の世代を失い、1920年代と1930年代の両世界大戦間の時期に、パリの若い数学者は新しいガイダンスとインスピレーションを探していた。古い世代のアダマールとエリ・カルタンはまだ尊敬されていた。才能ある若人は、抑圧から解放され、力がある。そして、ブルバキについて人の意見が何であれ、才能が極めて非凡だったことは疑い無い。ブルバキの初期メンバーのリストは本当にすごい。アンドレ・ヴェイユ、アンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デュドネ、ローラン・シュワルツ...後の新参者も同様の力量だ。ジャン・ピエール・セール、Armand Borel、アレキサンダー・グロタンディーク...そんな手強いグループの力を捌くことは簡単なことではない。過激な論争、深刻な口喧嘩、激怒があった。注目すべき事実は、全体としてみれば、冷静沈着で、ブルバキを活発にし、数十年以上に渡って活動的だった。これは、彼等が共有した理想的意見、つまり20世紀の数学の形を再生するということの表れだった。
Mashaalの本の中の非公式写真により、初期の雰囲気の殆どが生き生きとして蘇る。アンリ・カルタンが流行りのファッションに抵抗して、いつも完璧にジャケットとネクタイを身に付けているけれど、若きアンドレ・ヴェイユがデッキチェアでリラックスしている写真を見るのは魅力的だ。
私自身が若い時ブルバキ会議に出席したので、次の本の最終版について精力的な(通常は批判的な)議論の生きた体験の証拠となるだろう。南フランスの夏の太陽の光と友好的で飾らない雰囲気は、議論が腕力喧嘩に発展するのを防ぐために大いに役立った。ウィストン・チャーチルを言い換えれば、"議論の最中に、とても小さなことに関して大勢で議論されることは決して多くはならない"だ。本の多くが実際に、このプロセスから出現したことは奇跡のように思われるが、デュドネの勤勉さとエネルギーのおかげの結果である。ヴェイユがブルバキの背後の主要なインスピレーションなら、それを実現するのはデュドネだった。
さて、ブルバキの基本目標は何で、どれほど達成したのか? おそらく、2つの中心的目的をピックアップ出来る。一つは、数学が新しく広い基礎を必要としたということだ。その基礎は、流行遅れの教科書を置換える本のシリーズに含まれた。もう一つは、新しい基礎の主要なアイデアが"構造"の概念にあったということ。今の共通の言葉で言えば"同型写像"だ。
"構造"の明快な重視で、ブルバキは正しい時に正しいアイデアを造り、私達が考えた方法を変えたことは間違い無い。勿論、ヒルベルトの数学へのアプローチと後に続く抽象代数学にうまく適合した。だが、構造は代数に特有ではなく、特にトポロジーと幾何学関連領域(これらのすべてが、第2次世界大戦後の時期に目覚しい発展を見ることになった)に好結果を生んだ。ここでは、ブルバキの影響は決定的であり、セールとグロタンディークによって、代数幾何学は信じられない高さに登りつめた。
普遍的基礎を置くことは別の問題である。実施する度に、実行の大きな規模と野心によって確実に動きが取れなくなる。この方面での"極限"はグロタンディークとデュドネの"Éléments de Géométrie Algébrique"だった。これは、先行逆行共に巻数が膨れて、その重さに沈む危険があった。
野心的な基礎を置くことは、危険な妄想のみならず、教訓的な大失敗にもなり得る。百科事典は教科書ではない。ブルバキに対する批判の大部分は、学校教育の改造にブルバキが使用(又は、おそらく誤用)されたことだ。ブルバキの偉大な数学者の多くは秀でた教師であり、公式的解説と理想の伝搬の違いをよく知っていたのだから、この批判は不公平だろう。だが、よくあることだが、弟子は先生よりも極端、狂信的になり、フランスとその他の国での教育は独善的で知ったかぶりの改革で駄目になった。キリスト教の名において犯される逸脱は、イエス・キリストに責任は無い。
ブルバキはある程度、その成功の被害者だった。元々の狙いは、グルサーの解析教程の代わりを書くという慎まやかなものだったが、熱意に勇気づけられ、その時代の多くの指導的数学者の参加に成功し、範囲が拡がった。数学のすべて、解析学、代数学、幾何学が含まれた。明らかな理由で、代数学はブルバキの処方に一番適っていた。可換代数と特にリー群に関する巻は秀でており、標準の参考文献となった。これは、大部分がセールの個人的貢献のおかげであり、彼の影響とセンスはこの分野全体を指導した。
関数解析で良い例となったように、表面的には解析学も成功を修めた。が、ブルバキの確率論の扱いは、局所コンパクト空間への制限によって理論の重要部分が排除されていると主張する専門家から深刻な批判を受けた。エレガンスへの関心は余りにも大きな代償を払った。
しかし、確率論での小さなバトルはブルバキの解析へのアプローチの中では枝葉の問題に過ぎず、解析学は膨張、複雑、乱雑なままブルバキに引継がれた。これらの問題のいくつかは微分幾何学にも既に出現していて、微分幾何学は解析学と幾何学のインタフェースであり、ただ今のところだけれども、構造は重要な概念ではない。リーマン面の理論は、百年の活発な展開の後に、ブルバキの一貫した処方を与えられたが、3次元のThurston-Perelmanの現在の研究についても同じだと言えなかった。もう一つのブルバキの深刻な限界は、間違いなく純粋数学のみの制限だ。応用数学を含めるには余りにも乱雑で本質的に異なり、はっきりしないボーダーラインで理論物理学が彷徨っていた。ブルバキの際立った特徴の一つは、明確で曖昧さの無い定義と厳正な証明の重視であった。これは、代数幾何学でのように、過去のいい加減な説明に対する反動であり、将来に向けて確固たるプラットフォームを造る目的に役立った。残念ながら行き過ぎると、完全厳密の要求は初期段階にある数学分野の大部分を排除する。もしオイラーが厳密性に非常に拘っていたなら、数学は駄目になっていただろう。
過去30年以上に渡って、ブルバキは間違いなく衰退したが、数学での最も刺激的な発展のいくつかは、物理学との境界、特に量子場理論から起こっている。新しい概念と明快な結果はこの交流から出現し、注目すべきは、4次元多様体におけるDonaldsonの研究、代数幾何学での鏡対称性、量子コホモロジーである。この多くがエドワード・ウィッテンのような物理学者の試行錯誤の研究から来た。全部ではないが、その大部分が厳密な証明を含んでちゃんと様になっている。
明快と厳密は数学の生命線だが、他の分野からの新しいアイデアの障壁として使用されてはならない。自由貿易は私達皆に利益を与え、国家統治権に行き過ぎた権利を付けてはならない。
ブルバキは、その時代の有名フランス人数学者(そして、フランス外からも複数)の殆どを入れたけれども、注目すべき例外もあり、はっきり目立つのはジャン・ルレイ(彼は非常に早くに離れた)とルネ・トムだった。今から考えると、両者がブルバキの役目に適しなかったことは明らかだ。彼等がその時代の最も独創的な数学者の内の2人だったことは、おそらく制約された雰囲気の中でそのような独創性を発揮するのは困難であると示唆する。両人も彼等の仲間よりは応用数学に近かった。
書評対象の2冊の本の内、最初のMaurice Mashaalによる本は"御墨付き"と言っていいだろう。本はAMSの認可を持ち、かなり前にフランス語で最初刊行された。著者が個人的に多くのフランス人数学者を知っていたことは明らかだろう。著者は独自の情報、特に取材源からの写真を導き出した。歴史、個性、数学について信頼出来る。また非常に読み易く、全く異論が無い。
別のAmir Aczelによる本は全然異なる。もっと野心的な目標を持っているが、社会科学の"構造"についてブルバキの影響を検討している。グロタンディーク物語の拡大解説にも大変異論がある。私はその取材源の信頼性についても、その理念的保証も納得しなかった。
英語で書かれているが、この本はフランス人の知的見解によって浸透していないし、おそらく、場面の登場役でない人は奇妙に思うだろう。アンドレ・ヴェイユと社会学者クロード・レヴィ=ストロースの少しばかり薄い関係が、ブルバキが社会学や、心理学、人類学、言語学のような関連分野に主要な影響を与えたと主張するために使用されている。この大きな目標はタイトルに明記されており、私はこれらの分野に詳しくない。著者が数学から社会科学までの全舞台に跨る、博識家、知的巨人であるのかも知れない。私がこのための根拠を検討出来て、まともなコメントを出来る唯一の所は数学の説明とそれに登場する人物である。ここで、主にグロタンディークに関係するが、私は大きな懸念を持つ。グロタンディークは著者の信仰神々の中心的な場所を占めている。
グロタンディークが数学の世界で比類無き人物であったこと、彼が学問的な等身大の伝記(彼を個人的に知っていた数学者により書かれることが望ましい)に値することは間違いない。そのような本が準備されていると私は信じるし、それを読むことを楽しみにしている。Aczelの本は、グロタンディークを偉大なる預言者として無条件に受入れ、結果的に周辺の人々(ブルバキを含む)から相手にされていないから、伝記のレベルに達していない。
私はグロタンディークの全盛期に彼をよく知っていた。彼の数学、異常なエネルギーと馬力、アイデアを受入れる気前良さ(それが弟子の群れを魅惑した)に私は大いに感心した。だが、彼の数学と社会生活の両方において、彼の主な特質は頑固な性質だった。同時に、これは彼の成功と没落両方の要因だった。グロタンディーク以外の誰でも、代数幾何学において彼の採った十分な一般性を取り入れて、成功までやり抜けられなかったであろう。勇気、落ち着いた豪胆さ、完全な自信と異常なる集中力、困難な作業が要求される。グロタンディークは驚くべき人だった。
彼は弱点を持っていた。彼は成層圏では他に誰も出来ない操縦を出来たが、地球上の彼の立場に自信が無かった。つまり、具体例に彼は乏しく、同僚に供給して貰わなければならなかった。
グロタンディークを新しいブルバキ哲学を真剣に考え、その凄まじい成功を造った人として見る時、Aczelは正しい。私がAczelと意見が異なる所は、ブルバキがグロタンディークのアドバイスを採用せず、カテゴリ論の新しい言葉で基礎を書き直ししない致命的なミスを犯した、というAczelの言明だ。グロタンディークに従わないことで、ブルバキは未来に背を向けたとAczelは考えている。歴史がこの評決を支持するか私は疑わしいと思う。自信過剰なユニバーサリストの通常の宿命と同じく、グロタンディーク自身のEGAが違うように暗示しているようだ。更に言えば、グロタンディークの頑固な性質と自信過剰を考えると、彼に舵取りを任せて、ブルバキがどうやって共同責任体制として続けられたであろうかと理解するのは難しい。
Aczelのグロタンディーク全面是認は彼に以下のような愚かしい言明を書かせる。
"ヴェイユは、グロタンディークが彼よりもずっと秀でた数学者だと分かる、いくぶん嫉妬深い人だった。"
微妙な判定は明らかにAczelの領分ではないし、そして彼の自信ありげな、広い範囲にわたる、社会科学における断言を読者は真剣には受け止めないだろう。

787254 journal
数学

taro-nishinoの日記: ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー 1

日記 by taro-nishino

数学を勉強した人なら多少なりともブルバキを御存知でしょう。でも、ブルバキのどれかの巻を通しで読んだ人は多くないと思います。私も例外を除いて読んだこともなく、読みたいとも思いません。例外というのは、"Algèbre commutative"を持っており、いやいやながら必要箇所のみ見るだけです。仏語の数学論文を読むと、"Algèbre commutative"からの引用もしくは参考文献として挙げていることが多いのです。ですから、一応チェックのために見るだけであって、読むために購入したのではありません。
私から言わせれば、世の中には数学書に限らずいろいろな本がありますが、ブルバキほど読む気にさせない本も珍しいのではないかと思います。ブルバキの全盛時代に、故岡潔博士が"数学の冬の時代"と批判したとか。これには私ごとき下辺な人間でも頷けるものがあります。ちょっと目を通すだけでも、余りの冷たさに涙が出そうになります。
ところが、不思議なことにブルバキの個々のメンバーが個人的に書いた本は、名著もしくは良書が多く、お勧め出来ます。例えば、クロード・シュヴァレーの"Theory of Lie Groups"はまっ先に挙げられます。難解と言われた、アンドレ・ヴェイユの"Foundations of Algebraic Geometry"は、グロタンディークの代数幾何学における大改革の後に、一挙に古典になってしまったとか言われますが、今でもイタリア学派の研究を知るのには一番いいと思います(勿論、伊語が出来る人は原論文を読めばいいのですが)。ローラン・シュワルツの"Cours d'analyse"もいいですね。シュワルツという人は教え方が非常に上手い先生ではないかと思いました。先に言及したグロタンディークも有名な"Éléments de géométrie algébrique"があり、大部で全部読むなんてことは不可能に近いのですが、読む気にさせます。それなのにもかかわらず、メンバーが集まったブルバキでは何故あんなに醜悪なのか不思議です。
さて、以前に故Serge Lang博士が一時的にもブルバキにいたことを示す資料を御存知なら教えて下さいと書いたことがありました。全く情報提供がありませんでしたが、自分でとうとう見つけました。ブルバキ第3世代にいたPierre Cartier博士のインタビュー記事です。私の想像ですが、このインタビューはおそらくフランス語で行われて、後に英語に直したのだと思います。以下に、その私訳を載せておきます。

ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー
1997年6月18日 Marjorie Senechal

ニコラ・ブルバキ 1935-????
貴方が現在活動している数学者なら、少なくともスタイルと精神において、おそらく認識している以上に相当な程度にまで、ブルバキにほぼ確実に影響されている。しかし、貴方が学生なら、彼(彼等)のことを聞いたことがないかも知れない。ブルバキとは、何(又は、何者)なのか(又は、だったのか)?

当てはまるものの多くをチェックしょう。ブルバキは事情に応じて以下のようである(又は、だった)。
・数学的構造の発見者(又は、お好みなら発明者)
・20世紀の大きな抽象化運動の一つ
・少数だが、非常に大きな影響を持つ数学者のコミュニティ
・15年間、公開されなかった集団

その答えは上記全部である。それらは、思想史の中で密接に織り成す4つの重要な章だ。その章を書くべき時なのか? ブルバキの歴史は終わりに来ているのか?

エコール・ノルマル・シュペリウールで数学者の少数グループが彼等が教えているコースに不満を持ち、再編しょうとした時、ブルバキは1935年にパリで誕生した。大抵の数学者はその経験を一度やそこら持っているが、ブルバキの不満の範囲は急速に大きくなり限りがなかった。1939年までにニコラ・ブルバキの筆名のもとで匿名集団として書き、数学自体の理論と実際を変化させる意図の本のシリーズを刊行し始めた。最初から、ブルバキは数学の一貫性と統一性において熱烈な信奉者であり、数学のすべてを統一的に書き直すことにより、一貫性と統一性を示すことに自己を捧げた。その最終目標は、全定式化と完全厳正である。戦後の数年で、ブルバキは反逆者から権威と変わった。

ブルバキ自身の改革のため明確なルールを与えた。随時、若い数学者が入会し、老数学者は50歳"強制"辞任した。今、ブルバキ自身はメンバーの誰よりも20歳近く年長だ。長く続くブルバキ・セミナーはパリで尚も活動的であり生存しているが、ブルバキ自身の声(本を通して述べるのだが)は15年間静かである。再び喋るのか? 喋れるのか?

Pierre Cartierは、1955年から1983年までブルバキのメンバーだった。1932年フランスのスダンに生まれ、パリにあるエコール・ノルマル・シュペリウール(そこで、アンリ・カルタンのもとで勉強した)を卒業した。彼の学位論文(1958年)は代数幾何学についてだった。その時以来、数論、群論、確率論、数理物理学を含む多くの数学分野に貢献して来た。Cartier教授は1961年の始めストラスブールで10年間教え、そこからCNRS(フランス国立科学研究センター)に移った。1971年より、ビュール=シュリヴェットにあるIHES(フランス高等科学研究所)の教授であり、エコール・ポリテクニークとエコール・ノルマルで教えたが、いろいろあるうちでも認識論に関するセミナーを起こしている。1979年には、フランス科学アカデミのアンペール賞を授与された。

Cartier教授は、チリ、ベトナム、インドを含む発展途上国の国内科学発展を支援するいろいろなプログラムに参加して来た。彼は芸術と数学の著者でもある。ブルバキの沈黙を議論する資格を持つ人は殆どいない。私達はThe Mathematical Intelligencerの読者と共に、議論に賛同してくれた彼に感謝する。

インタビュー
Senechal: 先ず貴方のブルバキとの関係を話して下さい。

Cartier: 記憶している限り、私がブルバキを知ったのは1951年の6月だった。私はエコール・ノルマルの一年生で、アンリ・カルタンが私の数学教授だった。彼の求めで、ブルバキは私をアルプスのペルヴォでの会合に招待した。私達はいろいろなこと、特にリー群の基礎に関するローラン・シュワルツによるテキストを議論したことを憶えている。リー群に関する有名なブルバキシリーズの第一稿の一つだった。シュワルツの超関数の発明(これは彼を有名にした)から間もない時だった。エコール・ノルマルで数学学生全員がアンリ・カルタンとローラン・シュワルツ(彼は1952年にナンシーを離れパリに行った)両者の学生だったことを理解しなければならない。私達は彼等のセミナーとコースに出席し、あちらこちらで彼等の新しいツールを使おうと頑張った。Francois Bruhatと私は、リー群論と表現での超関数の重要性について始めて理解した中にいた。Bruhatは学位論文をこれらのトピックスにあてたが、私はずっと後に寄稿を発表しただけだ。

私にとって、内部からの露出は重要だった。私が遠くから知っていた、これらの偉大な人達を見ることは驚きだった。私は全く素直に受入れられた。私がメンバーとして正式に受入れられるまでに3,4年以上かかった。50年代と60年代には、ブルバキ内部のコアから外側へと、絶え間ないスペクトルがあった。本の中で印刷された研究は、セミナーで報告されたものであり、学生の研究は密接にリンクされた。それが、当時のフランス数学の偉大な成功の一つの理由だと私は思う。勿論、当時は全く異なった。規模がずっと小さかった。その頃、フランスの数学では一年に約10の博士号があった(現在の300と比較せよ)。

最初の会合で私は彼等の言うモルモットだった。私は非常に熱心だった。先ず第一に、現代数学で私が見た最初のことだった。私は小さな町の出身で、戦争のため困難な状況から来た。すごい田舎の、非常に時代遅れな高校の生徒だった。私の先生の何人かは非常に良かったが、彼等は勿論現代科学に疎かった。洗練されてなく本物でない方法で教えられた数学は古典的幾何学だった。私は幸いにも物理学で斬新な教師を持った。だから、最初は物理学者になりたかった。私はエコール・ノルマルに入る前は、パリのリセ・サン=ルイの学生で、非常に風変わりな教師Pierre Aigrain(海軍アカデミーを卒業し、1950年には物理学助教授だった。最終的にジスカールデスタン大統領のもとで科学相になった)から物理学の個人授業を取った。通常、優秀な学生は2年間で課程を終えるが、私は1年で終えられた。だが、当時私が教えられた物理学と数学の両方は全く旧式だった。ソルボンヌでの一般物理と呼ばれたコースで教授が厳かな宣言をしたことを憶えている。すなわち、"諸君(教授は女性に言及しなかったが、女子学生は殆どいなかった)、私のクラスでは、何人かが言うところの'原子仮説'は存在しない"と言った。それは広島の5年後の1950年だった! そこで私はAigrainのところへ行き、"私は何をすべきでしょうか"と言った。"そうね、勿論君は学位を取らなければならないが、君にきちんと物理学を教えましょう"と彼は言った。これは、当時のフランスの大学が何であったかを示す。ブルバキの影響を理解するためには、そのことを理解しなければならない。ブルバキは真空の所に入って来た。多くの人がこの理由を議論して来た。ここで再度議論すべきでないと私は思う。だが、明らかに50年代、科学の教育はお粗末だった。全システムを覆すためにブルバキは約5年又は6年かかった。1957年又は1958年までにはパリにおいて全転覆は完了した。

Senechal: しかし、ブルバキは30年代に始まったのでは...

Cartier: 最初の本は1939年に刊行されたが、戦争があり、事を遅らせ、またアンドレ・ヴェイユは米国、クロード・シュヴァレーは米国にいたし、ローラン・シュワルツはユダヤ人だから戦争中隠れていなければならなかった。ブルバキは戦争中、アンリ・カルタンとジャン・デュドネだけで生き残った。だが、30年代に為された研究は50年代に開花した。私達若い数学者が新刊を買うため書店に行くことにどれほど熱心だったか憶えている。その時は、毎年少なくとも1,2巻を刊行した。

1955年に私が正式メンバーになった時、すべての人が50歳で離れるルールに従わなければならなかった。だから、私はほぼ51歳の1983年に離れた。私の人生のほぼ30年間、そして私の研究の少なくとも3分の1をブルバキに捧げた。ブルバキの研究慣習は、本が刊行される前に、多くの予備草稿を必要とした。当時、私達は年に3回会合、秋に1週間、春に1週間、夏に2週間を持ったが、それは毎日10乃至12時間の一ヶ月のハードワークだった。刊行された本は約1万ページを含むが、それは毎年約1000から2000ページの報告と草稿が書かれたことを意味する。ブルバキと一緒だった期間に私は毎年約200ページを書いたと見積もっている。

Senechal: 当時は何人が所属していたのですか。

Cartier: 約12人だ。いつも少なく、非常に限定されたグループだった。セミナーは異なり、非常にオープンだった。しかし、それでも1950年代のセミナー本の目次を見れば、論文の約半数がブルバキのメンバーによって書かれた。その頃、セミナーとグループの相互関係は非常に強かった。今はもうそうではない。セミナー本はまだ優れたシリーズだが、ブルバキ機関とは何の関係も無い人によって通常書かれている。だが当時は、人々は彼等の発見の一部又は、後に本で明らかになるブルバキのアイデアの予備解説をセミナーシリーズで発表した。

私は典型的に第3世代のメンバーだった。4つの世代があったと言ってよい。第1世代は開祖だった。アンドレ・ヴェイユ、アンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネは30年代にグループを創設した人々だった。他に最初は加わったが、すぐに抜けた人もいた。そして、第2世代、戦中又は戦後すぐに招待された人々がいた。ローラン・シュワルツ、ジャン・ピエール・セール、ピエール・サムエル、Jean-Louis Koszul、Jacques Dixmier、Roger Godement、サミー・アイレンバーグ。第3世代は、Armand Borel、アレクサンダー・グロタンディーク、Francois Bruhat、私、サージ・ラング、John Tateだった。

Senechal: これらの世代に心構え又は考え方に違いがあったのですか。

Cartier: 彼等は全然違った。ますます実際的になり、ますます教理的でなくなったと思う。

Senechal: そのことはブルバキの研究にどのように現れていますか。

Cartier: 最初から、ブルバキの研究書は2つの部分から成るとして計画されていた。第1部は基礎に関してで、集合論、代数、一般トポロジー、初等微積分、位相線型空間、(ルベーグ)積分論に関する6つの本から成る。これらの本の最後の4つは解析学の基礎を与える(関数解析への強い偏りを持つブルバキによって、そう了解されていた)。第2部は、もっと野心的なプロジェクトには達しなかったが、リー群と可換代数に関する2つの成功したシリーズから成る。第2、第3世代のブルバキメンバーのリストを振り返って見ると、その時代の世界的指導者の幾人かがそこにいたことと、ブルバキの研究の第2部の広さと深さに対する説明を実感する。

古い世代は古い形で数学を学んだ。

彼等は数学を改造するための人々だった。第2世代は既に新しい教えを受けていた。私の世代、第3世代は基本的に新しい方法で教えられているので、新しい方法が古いものよりいいことを証明する必要が無かった。私は高校では古い方法で教えられていたから、ちょうどボーダーラインにいたと思うが、パリに行った時に新しい考え方を学んだ。だから、私達は何も証明する必要が無いので、ますます教理的でなくなった。フランス数学のコアはブルバキに投降した。知的観点のみならず、学界方面でもブルバキは力を握った。組織的観点から、ブルバキが勝利したことは明らかだった。

リー群に関する数巻を見れば、新しい巻にはブルバキとは思えぬ数章が入っていることが分かるだろう。それは、ますます露骨になった。つまり、表と図がある。これは基本的に一人の人物、Armand Borelの影響だったと思う。彼はジョージ・バーナード・ショーの"綺麗な御婦人さん、スイスの国民性ですよ"を引用するのが好みで、議論の最中にも、よく"私はスイスの田舎者だ"と言ったものだ。

当時は勿論、微分幾何学が花盛りで、ブルバキにとっていつも大きな挑戦だった。アンリ・カルタンの父が幾何学者エリ・カルタンだったことを憶えていなければならない。ブルバキは、ただ一人エリ・カルタンをゴッドファーザーに認めていて、30年代の他のフランス数学者を非常に嫌った。ブルバキは、ポアンカレすら長い苦心の後に受入れた。私が50年代にグループに参加した時、ポアンカレを全く評価しなかった。ポアンカレは時代遅れだった。勿論、ポアンカレに関する見方は全く変わった。だが、ポアンカレのスタイルとブルバキのスタイルは全く違っていることは明らかだ。

第4世代は大雑把に言って、グロタンディークの学生のグループだった。しかし、その時既にグロタンディークはブルバキを離れていた。彼は10年間ブルバキに所属したが、怒って出て行った。当時、その個性は非常に強烈だった。よく衝突があったことを憶えている。どの家庭にもあるように、世代間対立も普通にあった。そんな小さなグループは、多かれ少なかれ一家族の心理的特徴を再現したと思う。だから、私達は世代間衝突、兄弟間衝突等をした。たとえ衝突が時に冷酷であっても、ブルバキの主要な目標を錯乱しなかった。少なくとも目標は明快だった。この心理的スタイルの重さに耐えかねた人々がいた。例えば、グロタンディークは去り、ラングは途中で脱落した。

"ブルバキの最初の数冊を数学の百科事典として考えてよいが、教科書として考えるならば、それは大失敗である"

Senechal: 目標はいつも人々の心の中ではっきりしていたのですか、それとも変わっていたのですか。

Cartier: 変わっていた。第1世代は無からプロジェクトを造った。彼等は方法を案出しなければならなかった。そして40年代には、方法が出現し、ブルバキはどこへ行くべきか知ったと言える。目標は数学の基礎を与えることだった。数学全部をヒルベルトのスキームに服従させなければならなかった。代数に対してファンデルベルデンがしたことを残りの数学に対してもしなければならなかったのだろう。含めるべきことは大体明白だった。ブルバキの最初の6巻は、現代の大学院生の基礎的知識を含む。

誤解は、多くの人が本に書かれた通りに教えられるべきだと考えたことだ。必要な情報すべてを含んでいるから、ブルバキの最初の数冊を数学の百科事典として考えてよい。それは素晴らしい解説だ。だが、教科書として考えるならば、大失敗だ。

Senechal: 貴方がブルバキのメンバーだった時、そのことに気づいていたのですか。ブルバキの人々はこれが教科書でないと分かっていたのですか。

Cartier: 大雑把にはね。しかし、今ほどはっきりしていない。私達は教科書を持っていなかったと思うので、それについていくつか誤解があった。私が代数とトポロジーをどのようにして学んだか、非常によく憶えている。私が学生だった時、ブルバキの新刊の時はいつも買うか、又は図書館から借りるかして勉強したものだ。私にとって、私の世代の人にとって、それは教科書だった。しかし、誤解は、すべての人にとって教科書であるべきことだ。それは大いなる失敗だった。

とにかく、その時までに計画の範囲は大体明白だった。だが、その後、ブルバキは何をすべきなのか? 第2世代は既存する方法を持っており、明確に記述された境界を持つ計画を展開すればよかった。第3世代は、それを超え、開かれた世界(当時は一般的に幾何学、すなわち代数幾何学、微分幾何学、多変数関数論、リー群、モジュライ空間等を意味した)に入らざるを得なかった。ブルバキは結晶群の幾何学に特別な章を割くべきというアイデアについて私に責任があると思う。その理由は、リー群のシリーズの導入の中に明確に述べられている。コクセターは、結晶群に対するリー群の関係とその分類を最初に理解した。確かに、リー群について研究していた人は元々、他の人よりも、もっと幾何学的でもっと実際的だった。だが、結晶群に優位を与えるべきことをブルバキの同僚に納得させるため大変な困難と闘わなければならなかったことを憶えている。

Senechal: ブルバキのコクセターについての意見は何だったのでしょうか。

Cartier: 60年代までに彼の研究の重要性について人々は理解したと思う。Borelは多くの同じアイデアを持っていたし、Jacques Titsも役割を果たした。Titsの数学的方法は、ブルバキよりも精神的にずっとコクセターに近かった。彼はブルバキの正式メンバーでなかったが、私達と長く協力した。匿名性のルールを破らない彼の協力に対して、私達は本の中で彼に感謝出来た。Titsは非常に親切だった。彼は多くの問題を私達に提供したし、多くの彼の結果は始めてブルバキ本で発表された。だが、勿論彼は数学を考えるのに非常に異なる方法を持っていた。

第2世代と第3世代で、2つの主要なシリーズは、一方は可換代数(裏方に代数幾何学を付けて)、他方はリー群だった。ブルバキは実際には集団で、すべての人が多かれ少なかれ全巻に寄与した事実にもかかわらず、スタイルと強調に明確な違いがある。セールは両方の達人だった。最初はリー群の専門家でなかったが、専門家になった。第1世代のヴェイユのように、セールは数学に対して博学的アプローチを持つ唯一の人だったから、第2世代の当然のリーダーだった。だが、彼等のどちらも解析学者でなかった。確かに、ブルバキの内容は解析学よりもずっと代数、代数幾何学に関して量が多い。

第4世代までに、目標は不明瞭となった。ブルバキの外で、グロタンディークは彼自身の計画を展開していたので、ブルバキに対するニーズははっきりしなかった。そして、数学に対する広い理解の不足もあった。メンバーの興味は更に特殊化された。

新しい計画に焦点を当てるためグループ内でいろいろな試みがあった。例えば、しばらく、多変数関数論を展開すべきだというアイデアがあって、多くの草稿が書かれた。しかし、部分的にはあまりにも遅すぎた(と私は思う)ので、成熟しなかった。70年代にグラウエルトやその他の人による、多変数関数論について多くの良い教科書が既にあった。70年代の終わりまでに、ブルバキの方法はとてもよく理解され、すべての人がこの精神で書く方法を知った。すべての世代の教科書と本があり、これはブルバキの影響だった。ブルバキは、やることが残されていないのでエネルギーの一部を、いわゆる"新版"に本を改訂することに捧げた。改訂はほぼ完了した。これらは徹底的な改訂だった。

Senechal: 改訂はスタイルの変更を含むのですか。

Cartier: いや、含まない。しかし、例えば、距離空間のトポロジーに関する節はもっと発展して深まり、証明は改良された。確率論と、ブルバキが示したルベーグ積分の方法のギャップを橋渡しする小さな巻がある。それは、ブルバキの明らかに間違った見解の一つを正す試みだった。

Senechal: 放って置かれたと貴方が思う数学の分野は何でしょうか。

Cartier: 初等微積分の良い巻(ジャン・デルサルトの影響だった)があるけれども、何よりも解析学だ。本質的に、基礎を超えた解析学が無い。組合せ数学、代数トポロジー、有形幾何学についても無い。ブルバキは真剣にはロジックを考えなかった。デュドネ自身がロジックに大反対した。

数理物理学に関連するものは完全にブルバキ本からは欠落している。ブルバキセミナーで、私は数理物理の問題を強調する長い論文を寄稿した。しかし、一度だけであり、私の寄稿は喧嘩無しに受入れられるとは限らなかった。

だが、ブルバキに考慮されなかった数学の分野でも、最近30年を振り返って見れば、その発展はブルバキ精神に非常に影響されて来たことは明らかだ。

Senechal: 物理学に対して偏見があったのですか、もしくはブルバキはただ考えなかっただけですか。

Cartier: まぁ、殆どの人に偏見があった。最初、ブルバキグループの中で私はちょっと異端だったと思う。私は長年数理物理学に興味を持っていた。数年前、アンドレ・ヴェイユとの議論の中で、ちょうど彼が自身の自伝を刊行した後だったが、"1926年、ゲッティンゲンにいたと貴方は言った。1926年にはゲッティンゲンであることが起こった"と私は言った。そして、ヴェイユは"ゲッティンゲンで何があったんだい?"と聞いた。"えっ、量子力学ですよ!"と私は言った。"それが何か知らない"とヴェイユは言った。彼は1926年にヒルベルトの学生だった。ヒルベルト自身が量子力学に興味を持ち、マックス・ボルンやハイゼンベルグ、その他の人がそこにいたが、明らかにアンドレ・ヴェイユはそれに何の注意も払わなかった。私は最近、ヘルマン・ワイルの空間の哲学について一般講義をする機会があって、彼に関する文献を注意深く読んだ。シュヴァレーとヴェイユによって書かれたヘルマン・ワイルの死亡記事がある。もっともな理由で彼等は褒めているが、物理学での彼の研究について言及が無く、一般相対性理論の彼の研究さえも無い。誰に聞いても、ワイルの本のベストな2冊は、一般相対性理論に関するものと量子力学に関するものだ!

Senechal: ブルバキの最新の刊行は1983年でした。何故、今何も刊行しないのですか。

Cartier: それにはいくつかの理由がある。先ず、印税と翻訳権に関するブルバキと出版社の衝突があり、長くて不愉快な法的プロセスになった。問題が1980年に解決した時、ブルバキは新しい出版社と取引することを許された。古い巻の改訂に向けて70年代に為された拡張研究を使って、新版の形で再刊行出来た。更にもう2,3巻で既存のシリーズを完成させたが、それからは...沈黙だ。

簡単に決まった"最終版"という目標以上に、ブルバキは新しい方向を体系化するため70年代と80年代に苦しんだ。多変数関数論の失敗プロジェクトについては既に述べた。ホモトピー理論、オペレーターのスペクトル理論、指標理論、シンプレクティック幾何学の試みがあった。だが、これらの試みはどれも予備段階を超えなかった。数学の教理的見解(確かなフレームワークの中では、全てが集合であるべき)を持っていたから、ブルバキは新しい捌け口を見つけられなかった。一般トポロジーと一般代数に対しては、その教理的見解は全く妥当だったし、それらの分野は1950年くらいには既に固まっていた。少なくとも、数学の統一性の存在を信じるならば、数学に対して一般的な基礎が必要であることは殆どの人が今や賛成している。しかし、私は今、この統一性は漸進的であるべきだと信じるが、ブルバキは構造的観点を主張した。

Hubertの見解に従うと、集合論は非常に強制的な一般フレームワークを与えるためとブルバキに思われている。ロジックの基礎を欲しいならば、集合論よりもカテゴリの方がもっと柔軟だ。その要点は、一般の哲学的基礎(すなわち百科事典的又は分類法的)な部分と、数学的立場で使用するための効率的な数学ツールの両方をカテゴリは提供することだ。対照的に、ブルバキ集合論の最終章を読めば、カテゴリを持たないでカテゴリを体系化する恐ろしいまでの努力とともに、集合論と構造はより強固なことが分かるだろう。

カテゴリ論が多少なりともブルバキの発案だったことは驚きだ。その2人の創始者はアイレンバーグとマクレーンだった。マクレーンはブルバキのメンバーではなかったが、アイレンバーグはメンバーだったし、マクレーンは精神的に近かった。ホモロジー代数の最初の本はカルタンとアイレンバーグだったが、両人がブルバキで活動的だった時に刊行された。グロタンディークにも触れよう。彼はカテゴリを非常に広大な範囲にまで発展させた。私は自分の研究の多くで、カテゴリを意識的又は無意識的な方法で使って来たが、ブルバキの殆どの人がそうだった。だが、思考方法が非常に教理的、又は少なくとも本にある表現は非常に教理的だったから、いったん刊行プロセスが始まれば、ブルバキは重視点の変更を受入れられなかった。

80年代が自然な限界だったと思う。アンドレ・ヴェイユのプレッシャーのもと、すべてのメンバーは50歳で引退すべきとブルバキは主張した。80年代に私はジョークとして、ブルバキ自身が50歳になる時に引退すべきと言ったことを憶えている。

Senechal: これは多少偶然だったように思います。

Cartier: そうだね、すべての既存数学に基礎を与えるという目標は達成されたことが主要な理由の一つだと思う。だがまた、そんな固い様式では新しい発展を含めることは非常に難しい。重視点を変えるならば、まだ可能だ。しかし、50年後、重視点は変わってしまった。

Senechal: それについてもう少し話していただけますか。

Cartier: アンドレ・ヴェイユは時代精神を語るのが好きだった。ブルバキが30年代の始めから80年代まで続き、一方ソビエトシステムが1917年から1989年まで続いたことは偶然ではない。アンドレ・ヴェイユはこの比較を好まない。"私は共産党員だったことはない!"と、いつも言う。20世紀はサラエボ1914年からサラエボ1989年まで続いたというジョークがある。1917年から1989年までの20世紀はイデオロギーの世紀、イデオロギーな時代だ。

Senechal: そのイデオロギーは、全目的かつ永劫的にサービス出来る青写真の概念を意味しているのですか。

Cartier: 最終解決を意味する。その言葉を嫌うもっともな理由があるが、心の中で私達は最終解決に辿り着けられると思った。ハーバート・ジョージ・ウェルズに"近代のユートピア"という本(ぜひ再刊すべきだ)がある。たまたま、ソビエトシステムの崩壊の時に私はそれを読んでいた。ご存知の通り、ウェルズは1917年の10月革命に非常に好意的で、一般的に認められているように、彼はソビエトの友人だった。だが、彼は鋭い頭脳の持ち主で、展開を予想出来るという鋭い歴史観を持っていた。たとえ彼が新しい時代に興奮したとしても、最終解決は存在しないし、今後社会は永久に留まるという社会歴史的均衡に辿り着けられると考えるのは間違いだと、彼は分かっていた。ウェルズはこの考え方に非常に反対した。彼の本を読めば、強迫観念の一つとして、それが分かるだろう。

ヒルベルトは時代精神を反映したと思う。彼の声の録音がある。ヒルベルトに関するコスタンス・リードの本には、そのフロッピーディスクがあり、30年代ドイツでヒルベルトが行ったいくつかのスピーチの録音だ。非常にイデオロギー的だ。当時ヒルベルトは年老いていても見解は揺らいでいなかった。

その時代の言明とともにシュールレアリストの言明とブルバキの導入部を並べるならば、それらは非常に似ている。私の娘は最近、映画撮影技法に関する本を翻訳している。イタリア未来派に関する章の中に、非常に似ている言明がある。科学、芸術、文学、政治、経済、社会的関心事に、同じ精神があった。ブルバキの目標は新しい数学を造ることだった。ブルバキは他の数学書を引用しなかった。ブルバキは自給自足だ。勿論当時、ソ連の共産党員は同じ事を言っていた。私達は今や、それが嘘であり、その時代のリーダーは自分達が嘘を言っていることを知っていたことが分かる。確かにブルバキは嘘を言っていないが、それでも同じ精神だった。それがイデオロギーの時代だった。ブルバキは新しいユークリッドだったし、次の2000年の間に書くだろう。

"彼にとって、問題を全体として見ること、証明の必要性を見ること、その広大な影響を見ることは重要だった。厳正さについては、ブルバキの全メンバーはそれに注意した。ドイツ数学(すなわち、ヒルベルト主義)と比べてフランス数学に厳正さが足りないことから、ブルバキ運動が本質的に始まった。厳正さは余計な詳細の増大を取り除くことから成った。逆に言えば、厳正さの不足は、成功するために沼の中を歩いて汚物の類を取り除くような証明の印象を私の父に与えた。いったん汚物を取り除けば、数学的オブジェクト、本質が構造である結晶化された本体の類を得られた。構造が構築された時、父は、彼に興味を持たせるオブジェクトであり、見る価値があるもの、崇拝すべきもの、おそらく向きを変えて見ても変更すべきものがないものだとよく言っていた。彼にとって、数学における厳正さは、以後変わらず存続する新しいオブジェクトを造ることから成っていた。

父が研究した方法は、もっとも大事なもの、この不滅なオブジェクトの制作だったように思う。オブジェクトはもう改造又は変更されることはなかった。と言っても、これにネガティブな言外の意味があったのではない。だが、父は美学的理由でオブジェクトを処刑するための一方法として数学を考えた、おそらく唯一のブルバキメンバーだったことを付け加えなければならない。"

Nicolas Bourbaki: Faits et legendes (1988) 収録の"Claude Chevalley described by his daughter"より

Senechal: 何故ブルバキの大部分にビジュアルな絵の類が不足しているのでしょうか。

Cartier: その一番いい答えは、シュヴァレーの娘が書いた記述[訳注:上の囲み記事]だろうと思う。ブルバキはピューリタンで、ピューリタンは彼等の信仰の真理の絵的表現を強く嫌っている。ブルバキグループ内の新教徒とユダヤ教徒の数は圧倒的だった。フランス新教徒は特に精神的にユダヤ教徒に近いことは御存知だろう。私はいくらかユダヤ人家族歴があり、ユグノーとして育った。私達は旧約聖書の人であり、フランスの多くのユグノーは新約より旧約聖書にずっと惹かれている。私達は時にイエスよりもヤハウェを崇めている。

さて、その理由は何だったのか? 確かに一般的な哲学はカントによって発展した。ブルバキはドイツ哲学のアイデアだ。ドイツ哲学の見解を科学に広めるためブルバキは造られた。アンドレ・ヴェイユはいつもドイツ科学を好み、ガウスをいつも引用していた。好みと自身の個人的見解を持つ、これらの人々すべてがドイツ哲学の支持者だった。

芸術と科学は正反対という考えがあった。感情、視覚的意味、記述されない類推に訴えるから、芸術は脆く、死を免れない。

だが、それもユークリッド信者の伝統だと思う。ユークリッドにはいくらかの図があるが、それらの大部分がユークリッドの死後、後の版に加えられたことはよく知られている。オリジナルにある図の大部分は抽象的な図だった。いくつかの命題について理由付けを作り、線を引くが、それらは幾何学的な線を意図したものではなく、ただ抽象的概念の表現に過ぎない。また、ラグランジュは力学の本の中で、"私の本には図が見つからないだろう!"と誇らしげに言った。解析的精神は、フランスとドイツの伝統の一部だった。そして、バートランド・ラッセルのような人々の影響のためでもあると思う。ラッセルはすべてを形式的に証明出来る、すなわち、いわゆる幾何学的直感は証明の中では信頼出来ないと主張した。

ブルバキの抽象性と視覚への軽蔑は、当時の音楽と絵画において抽象的傾向で書かれたように大流行の一部となった。

Senechal: ブルバキのメンバーは抽象音楽と抽象芸術の価値が分かったのですか。

Cartier: 抽象音楽又は芸術にさほど好みはしなかったと思う。概して、彼等は標準的なブルジョア感覚を持っていたと言えるだろう。教育されたブルジョア、つまり無教養なガサツ者ではない。例えば、カルタンとデュドネは音楽の愛好者であり、実演者だったが、非常にクラシックだった。新教徒教育の中で、カルタンは確かにバッハを非常に好んだ。デュドネはかなりの腕前のピアノ演奏者で、アマチュアレベルではかなりものだったし、彼は素晴らしい記憶力の持ち主だった。彼は何百もののスコアを諳んじ、すべての音譜に付いて行けた。彼と一緒に何回かコンサートホールへ行ったことを憶えている。彼が手に持っているスコアを見て、オーケストラが音譜を抜かすと"おや!"とよく叫んだものだったが、それは非常に面白かった。彼は人生の最期の6ヶ月を割いて、すなわち数学人生が終わったと決心した時、最後の本を書き、レコードを聞き、スコアと音符に付いていくために家へ引き篭もった。

数学の革命家が他の事では革命家でなかったことを知るのは面白い。ブルバキグループの中で、ブルバキのイデオロギーと他のイデオロギーの関係に気づいていた唯一の人はシュヴァレーだったと思う。彼は、政治と芸術において、いろいろな前衛派グループの一員だった。シュヴァレーの作品集の編集者として、私は数学の他の作品についても特別な巻を含めると決心し、彼の娘に催促した。彼は様々なパンフレットとノートを書いていた。キャザリン・シュヴァレーはこれらの物を集めるのに大変な仕事をしなければならないだろうし、私達は彼の作品集の一部として、それらを刊行するだろう。

シュヴァレーは、ブルバキとその他の関係を理解した唯一の人だった。そして、それが70年代に他者よりも批判的だった理由かも知れない。70年代に、賢明な人は既に長い歴史的傾向の終りを見抜くことが出来、彼はこれに非常に敏感だったと私は考える。数学は彼の人生の最も重要な部分だが、数学とその他の事に線引きをしなかった。彼の父親が大使だったからかも知れないが、彼はいろいろな人と接触を持った。

Senechal: ブルバキ衰退の主な理由を話していただけますか。

Cartier: 既に言った通り、長い法廷バトルの他に、80年代は定まった目標が無かった。法廷バトルは、世紀の好例の一つだったと思う。ピカソと藤田の相続人のために闘った有名弁護士を雇った。私達は不自然に生き延びた。すなわち、私達はこのバトルに勝たねばならなかった。だが、過大な犠牲を払って勝った。法廷バトルでは普通の通り、両派が損し、弁護士が富を得た。有名となり、ポケットが潤った。

ある意味でブルバキは、頭が尻尾から遠く離れている恐竜に似ている。デュドネが長い間ブルバキの筆記者だった時、全ての印字された言葉は彼のペンから来た。勿論、多くの草稿と予備バージョンがあったが、印刷されたバージョンはいつもデュドネのペンからだった。彼の素晴らしい記憶力で、全ての言葉を知っていた。ジョークだが、"デュドネ、これこれに関するこの結果は何だい?"と言えば、彼は書棚に行って本を取出し、正しいページを開いたであろう。デュドネの後(間に、サムエルとDixmierがいて)、私がブルバキの秘書で、殆どの校正が私の義務だった。5千から1万ページを校正したと思う。私は良い視覚的記憶力の持ち主だ。デュドネと比べるつもりはないが、ブルバキ内で、印刷された資料の殆どを私が知っていた時があった。だが、私の後、これを出来る人はいなかった。だから、ブルバキは彼自身の本体、つまり40巻の印刷物の認識を失った。

そして、前にも言った通り、ブルバキは多少一家族に似ていた。どの家族内又はどの社交グループ内でも、第2世代、又は第3世代、又は第4世代は一定の社会学的パターンに従う。私自身の家族が典型的だった。私の祖父は成り上がり者で、非常に成功したビジネスマンだった。私の父と叔父はビジネスに行ったが、それ程闘志満々ではなかった。そして、私の世代の人々だが、まぁ、私はそれに引き込まれないように決心した思う。実際、ファミリービジネスに行った同世代の人達は、何のために闘うかを分かっていなかったので、それ程うまくいかなかった。

だが、これらは内向きの動きだ。勿論外の世界も影響を持つ。外の数学世界が変わって来たことは明らかだ。スターリンが彼の軍隊を持って来ても世界征服を達成出来なかったこと、ソ連の崩壊が数学に成し遂げて来たことを私達は知っている。ロシア数学者は西側に異なるスタイル、異なる問題の見方、新しい血を持って来た。

異なる価値観の異なる時代だ。私に後悔はない。20世紀は生きる価値があったと思っている。だが、終わった。

Senechal: ブルバキとの旅をどのように描きますか。

Cartier: 私がブルバキから通常の引退に達した時1986年のバークレーで開催された国際数学者会議で、Vladimir Drinfel'dの代理で講演を行ってほしいと頼まれた(Drinfel'dは政治的な理由のため来ることを阻まれた)ことは非常な幸運だったので、個人的には幸せである。大きな挑戦だったし、私にとって非常な名誉だった。彼の論文は紀要の中で最も重要な一つだった。一夜にして、私の数学人生を変えた。"これは私が今すべきことだ"と私は言った。勿論、私は基礎的資料を知っていたが、見通しが新しかった。講演を準備しなければならない数時間内で、本当にそれをマスター出来たとは言えないが、人々に"これは新しく、重要だ"と説明するほどには十分に理解した。私が数学を始めた時、数学者の主な仕事は、トーマス・クーンが言うところの通常科学を造るため、順序を持込み、既存の資料の総合を造ることだった。40年代と50年代の数学は、クーンが言うところの凝縮化の時代を経験していた。与えられた科学の中で、既存の資料すべてを理解し、統一化された術語、統一化された標準を造り、統一化されたスタイルで人を訓練しなければならない時代がある。50年代と60年代の数学の目的は、通常科学の新しい時代を造ることだった。今、私達は再び新革命の始まりにいる。数学は大きな変更を経験している。どこに行くのか正確には分からない。これらの事の総合を造る時ではまだない。すなわち、20年又は30年の間に、新ブルバキの時が来るかも知れない。私は、2つの人生、通常科学の人生と科学革命の人生を持てたことは非常な幸運だと考えている。

参考文献
1. Nicolas Bourbaki, Faits etiegendes, by Michele Chouchan, Editions du Choix, Argenteuil, 1995.
2. "Nicholas Bourbaki, Collective Mathematician: an interview with Claude Chevalley," by Denis Guedj, translated by Jeremy Gray, The Mathematical Intelligencer, vol. 7, no. 2, 18–22, 1985.
3. Les Mathematiques et l'Art, by Pierre Cartier, Institut des Hautes Etudes Scientlfiques preprint IHES/M/93/33.
4. "The Continuing Silence of a Poet," by A. B. Yehoshua, in The Continuing Silence of a Poet: collected stories, Penguin Books, 1991.

357107 journal
数学

taro-nishinoの日記: 志村五郎博士"The Map of My Life"の書評

日記 by taro-nishino

志村五郎博士の"The Map of My Life"について、私も僭越ながらアマゾンでレヴュを書きました。しかし、それはレヴュと言っても、いわゆる感想文もしくは書評ではなく、よく本に付いている帯や本の裏表紙にあるような、宣伝文句の域を超えていません。長々と得意気に論評する資格など私にはありませんから、要は私の目から見てどこが面白かったかだけを短く書いただけです。まともな感想又は書評なら私が読みたいくらいです。
で、読むに耐える感想はないものかと探してみました。条件として、一般人(数学者又は数学科卒でない人)、日本人(日本人数学者も含む)を除きます。理由は、一般人の感想は読むに耐えないものが多すぎることと、同邦人の足を引っ張るのは同邦人である(特に同じ分野において)と昔から言われていることだからです。つまり、海外の数学者の感想が一番いいのです。
これが意外にも少なかったのですが、コルビー大学の数学者Fernando Q. Gouvêa氏の感想が的を得ているように思いましたし、公正な評価だと感じました。その私訳を以下に載せておきます。

志村五郎博士"The Map of My Life"の書評
2008年11月25日 Fernando Q. Gouvêa

志村五郎は、50年間前後に渡って数論に広大な貢献をした偉大な人である。歴史家と数論学者として2つの人生を私は持っているから、これは読まなければならない本だった(他のレビュアー要員もしたかったが、私が編集職に就いている恩典だ)。

The Map of My Lifeは普通の自伝ではない。むしろ、追憶の本である。1930年に生まれた志村は、辛いエピソードを抜かし、生き生きとした物語に絞って私達に語り、いくつかの感情と考えを見せている。そのスタイルは飾り気がなく強烈で、親密な印象を与える。

本は2つの主要部を持つ。第一部は、第二次世界大戦以前、最中、戦後の日本で大人になっていくことについて。ここで、タイトルの"地図"が具体的になる。祖先が生活をし、彼も成長した東京の近郊を示す地図(切繪図)のことを書いている。その地図は江戸時代に作成され、大名が所有する土地を示し、家臣(志村家を含む)によって占有されている地区を指し示している。本の中に、その地図が再作成されていないのが私は残念だった。

この部分は、戦前の彼の幼年期に主に焦点を合わせている。読みながら、私の祖父がよく語った物語を思い出させた。記憶の一部は鮮明だが、他は曖昧だった。幾つかの場合、同じ状況にいなければ、物語を理解するのは困難だと思った(例えば、志村は"アドバルーン"と言っている。これらが何であるか推測出来るが、彼は正確には私達に話さないので、私の推測が正しいのかどうか分からない)。

第二部は、数学者としての志村の初期時代についてである。1950年代後半のフランス訪問とプリストン訪問、米国への移住の決心、プリストン大の教授として1962年からの時代について語っている。1960年代に彼がやっていたことへの意見、数学への一般的なアプローチについて沢山書かれている。数学的詳細は非常に少ない。私はもっと欲しかったが、ちょっとテクニカル過ぎるかも知れないので、多くを与えないことが他の読者には嬉しいだろうと理解出来る。

私も別の国(私の場合はブラジルだが)に生まれたので、移住の決心の説明に興味を持った。志村が言う理由の一部は、彼は痩せているので寒さに敏感だと。日本の家屋はうまく暖まりにくく、彼が1959年[訳注:細かいことはどうでもいいことかも知れませんが、志村博士の最初のプリストン訪問は1958年の秋です]にプリストンを訪問した時、アパートがいかに暖かく大喜びした。彼は日本が寒かったから去ったと言っている(それを人に話すと冗談か比喩的に言っていると思うらしい、と彼は言う)。

志村の個性は始めから終わりまで発揮している。彼は遠慮無く他人を貶す。平凡、又は嫉妬深い、又は無分別だと志村が思えば、そのように言う。数学についても彼の意見を遠慮無く語る。例えば、良く知られている理論の形式的公理化を軽蔑している(例として、幾何の基礎についてのヒルベルトの仕事)。彼の会う老日本人数学者達に対する反応はしばしばネガティブである、と彼は言う。

私がもっと読みたいと思ったトピックスはそこにはない。志村は友人で連携者である谷山の自殺について書いて来ているが、この本では"何故、あの記事を書いたのか"という節で触れているだけだ(その記事自体を付録に収めていても良かったかも知れないが、そうではない)。実を言えば、谷山は小さな役割でしかない。

志村の多くの大学院生について全く触れていず、数論の最近(例えば、1980年以降)の結果もない。プリストンと高等研究所での同僚で詳しく書かれている唯一の人はアンドレ・ヴェイユだけであり、志村は明らかに愛情と尊敬を持っている。

数回じれったいヒントがある。プリストンの学生はシニア論文を書くことを要求され、そのため多くの学生が彼を指導官として選んで来たと志村は言う。"私は易しいが興味あるトピックスのストックを持っていたから、彼等を歓迎した"と言っている。私はいつも"易しいが興味ある"シニア論文のトピックスを案出することに苦労して来ているので、実例を欲しい思いが残った。

数学的な節は、基本的テーマとして、モジュラ形式の算術的理論における志村の役割の解明を含む。1960年代には、殆どの人が分かっておらず、おそらくヴェイユとアイヒラーのみと彼は言う。プリストンに来た時、彼は"私は数論、代数幾何学、モジュラ形式に精通しており、米国にはそんな数学者はいなかった"と言う。私が受けた印象は、私の数学人生が志村の活躍する場所で費やされて来ただけであることだ。

志村が時間を割いているトピックスの一つは、すべての有理楕円関数はモジュラであるという予想の起こりだ。1955年に谷山によって作られた問題がその線に沿っているが、不正確であり、もっと言えば正しくないと志村は強調している。最初に予想を正しく作り、それを人に話したのは志村だった。付録として、もっと詳細に説明している複数の手紙を含めている。

志村が英語のネイティブスピーカではないことが、この本にはっきりと現れている。ぎこちなく組立てられた文章が多くある。いくつかの所で、特に日本での幼年時代に関する節では、上手く表現出来ない効果を求めている。年代順の範囲内で泊まることに殆ど注意を払っていない。"それについては後で書く"又は"それについては、これ以上言いたくない"のようなコメントをしばしば目にする。これは、老人が若かりし頃の物語を記憶に沿ってあちらこちらしながら、まだ好きな部分を語っているのを聞くような、私の印象を強くする。

もっとよい作品製作が出来たであろう、又はするべきだったであろうと思うことを書くが、スプリンガー社の私の友人にはあまり立腹しないよう希望する。写真が悪く再作成され少ない。多くの所で、ちょっと大胆に編集を加えたら本を改善出来たであろう。もっとも悪いのは、索引と文献が無く、志村作品集へのポインターだけだ。少なくとも名前の索引くらいはあったていいだろう?

私の数学人生の殆どはモジュラ形式の研究だが、志村に会ったことがなく、彼の論文の多くも読んではいない(許しがたいことと分かっている。私の唯一の弁明は、私がやって来るまでに、志村は1960年代の研究からもっと一般的で、私自身の研究に必要でない難解なケースに移ったことだ。しかも、他には古い研究の教科書風解説を書き始めていたことだ。志村の古典的な"Introduction to the Arithmetic Theory of Automorphic Functions"の大部分を読んだが、大学院生には非常に難しいことが分かった)。志村作品集一式を欲しい思いが残った。例えば、ヘッケ固有形式に付随したガロア表現を彼が構築した未発表の1968年論文がある。私は大学院生として、この論文の噂を聞いた憶えがあり、それが作品集の中に収められると聞いて嬉しい。そして、もちろん、歴史家の観点から、理論がどのようにして来たか見る必要がある。

志村の回顧録は、数学の陰にいる人の一瞬を私達に見せる。私は、もっと名前、もっと物語、もっと詳細を欲しかった。しかし、私は貪欲であってはならない。彼をほんの少しだけでも知ることはありがたいことだ。

350851 journal
数学

taro-nishinoの日記: 岩澤健吉博士

日記 by taro-nishino

大学に残って教育に従事している友人の話によれば、今は大学院生でも、故岩澤健吉博士の"代数函数論"を読まないらしいです。「賦値理論が下らんからかい?」と聞くと(なお念の為に言いますが、私のような下辺な人間が大学者の理論にケチをつけているのではありません。一般的に言われていることを言ったまでです)、「そんな高尚なことじゃなくて、要は旧字体を読めないだけ」だそうで。暫く前に、この本が絶版になっていたところ復刻されたのですが、余りにも売れないからかどうか知りませんが、またも絶版になったらしく、友人の話を聞いて成程と思いました。私達の世代は当然旧字体を習っていませんが、それでも日本人なので何となく読めました。これから専門家になろうとする者が、たかが旧字体だけの理由で読まないとすれば余程の学力低下か、もしくは日本人ではないのでしょう。名著だと持ち上げられる一方で、駄作だともこき下ろされる本ですが、この方面でまとまった日本語の本は、これ以外には無いと私は思います。但し、第1章の賦値理論、それを引き摺った第2章は確かに論議を呼ぶところですが、第3章以降は古典的で読んで損はないと思います。しかし、これはあくまで日本語の本に限ればの話であって(因みに"代数函数論"は1993年に日本人によって英訳され米国で出版されましたが、その理由が私には分かりません。つまり、そこまでして海外に紹介しなければならない本なのか疑問を持っています)、海外のものでは、古いけれどもGilbert Ames Blissの"Algebraic Functions"やChevalleyの"Introduction to the Theory of Algebraic Functions of One Variable"の方が断然いいと思います。
岩澤博士は"代数函数論"の執筆と並行して講義もしたようです。その講義に学生だった志村五郎博士も出席したらしく、非常に辛辣に批判しています。以下は長くなりますが、志村博士の自伝"The Map of My Life"からの抜粋です。

I will now describe what Kenkichi Iwasawa taught, though it
was one of the better courses. He was well known for the theory
named after him. Four years earlier in 1945, Artin and Whaples
had jointly published a paper, and Iwasawa’s main objective was
to explain the contents of that paper. He began with an intro-
duction to valuation theory, and then turned to the paper; the
whole term was expended for that purpose. The part concerning
valuation theory roughly corresponded to the portion of his book,
in Japanese, on algebraic functions of one variable, which he was
then preparing. The lectures were clear, and not perfunctory, but
there was much to be desired.
  He had no intention of explaining the basic ideas to the be-
ginners. There were no examples: just definitions, theorems, and
proofs. In other words, he was lecturing for himself, not for the
students.
  Putting that point aside, the larger problem was that the orig-
inal paper of Artin and Whaples was insignificant. It was similar
to Hilbert’s foundation of geometry. Without going into details,
suffice it to say that if we start with a set of axioms, then we can
show that the objects satisfying the axioms are exactly what we
already know, and nothing else.
  Thirty-two at that time, Iwasawa was searching for new ideas,
perhaps through the process of trial and error. His mathematical
knowledge was not very broad, but at least broader than all of
his colleagues, as he was familiar with Lie groups in addition to
algebraic number theory. His book on algebraic functions just
mentioned was a good introductory book at that time. However,
he had not yet found any idea that could really be called his own,
and he did so more than five years later.
  Actually, there was an excellent topic he could have chosen
instead of that paper by Artin and Whaples. He presented a short
paper at the International Congress of Mathematicians in 1950
held at Chicago. He showed in it that the analytic properties of
the Hecke L-functions can be derived by using adeles and ideles,
as it is ordinarily done today. Therefore after valuation theory, he
could have explained his ideas on this subject. Of course it would
have been too much to develop the theory rigorously, but I think it
was quite feasible for him to explain the basic ideas, which would
have made an extremely interesting and inspiring course. But alas,
he was more interested in learning the contents of someone else’s
paper, than in guiding students in the right direction.
  The insignificance of the Artin–Whaples paper became self-
evident no more than a few years later, possibly even at the time
of its publication. Nobody in my generation paid any serious at-
tention to that work. Artin visited Japan in 1955, but we younger
people were not interested in what he said, as we knew that he
was a has-been and had no interesting new ideas; he was being
surrounded only by “old people those days in Japan.”

(私訳)
良いコースの一つだったけれども、岩澤健吉が教えたことを書こう。彼は彼の名前を冠した理論で有名だった。4年早い1945年にアルティンとWhaplesが共同で論文を発表したが、岩澤の主要な目的がその論文の内容を説明することだった。彼は賦値理論への入門から始め、そして論文に戻った。つまり、学期全部がその目的のために費やされた。賦値理論に関係する部分はおおよそ、一変数の代数函数についての彼の本の部分に相当した。その本を、その時に準備していた。講義は明確で、お座なりではなかったが、望まれることが多くあった。
彼は初学者に基本的なアイデアを説明する気持ちが無かった。実例は無かった。すなわち、ただ定義、定理、証明だけだった。言い換えれば、彼は学生のためではなく、彼自身のために講義していた。
その点を別にして、もっと大きな問題は、アルティンとWhaplesの元論文がくだらなかったことだ。それは、ヒルベルトの幾何学基礎論と類似していた。詳細を述べるまでもなく、公理の集まりから始めるならば、公理を満足する対象は、まさに私達が既に知っていることであり、それ以外の何物でもないことを示せると言えば十分だろう。
当時32歳だった岩澤は、おそらく試行錯誤の過程中で新しいアイデアを探し求めていたのだろう。彼の数学的知識は非常に広いとは言えなかったが、代数的整数論に加えてリー群に馴染んでいたから、すべての同僚よりは少なくとも広かった。たった今言及した、彼の代数函数についての本は当時良い入門書だった。しかし、本当の彼自身のものと呼ばれるアイデアをまだ見つけていなかった。彼がそれを見つけたのは5年以上後だった。
実際、アルティンとWhaplesによる論文の代わりに、彼が選べたであろう素晴らしいトピックがあった。1950年シカゴで催された国際数学者会議で彼は短い論文を発表した。彼はその中で、今日普通に為される通り、ヘッケL-関数の解析的概念がアデールとイデールを使って導出出来ることを示した。従って、賦値理論の後、彼はこの題材についてアイデアを説明出来たであろう。勿論、理論を確実に展開するためにはもっと多くのことがあったであろうが、基礎的アイデアを説明することは全く可能であったと私は思う。それが、コースを非常に興味深く刺激的なものにしたであろう。しかし、残念ながら、学生を正しい方向に導くことよりも、彼は誰か他の人の論文を学ぶことに興味を持っていた。
アルティン-Whaples論文の無意味さは、わずか数年後に自明となった。おそらく発表された時にも明らかだっただろう。私達の世代の誰もが、その研究に真面目に注意を払わなかった。アルティンは1955年に日本を訪れたが、彼が過去の人であり面白いアイデアを持っていないことを知っていたので、私達若人は彼が言っていることに興味は無かった。つまり、彼は"日本のその頃の老人"だけに囲まれていた。

ところで、岩澤博士のことは私がくどくどと申し上げるまでもなく、皆さん御存知だと思いますが、故小平邦彦博士とともに戦後数学界をリードした巨匠でした。志村予想の解決にも岩澤理論が駆使されました。教養課程の学生や向上心のある高校生を念頭にして、博士の簡潔でまとまった伝記的資料がインターネット上にないか探したのですが、平凡で面白くもないものしかなく、実質的にすべて金太郎飴みたいな感じでしたが、ここは手堅くお馴染みのMacTutor History of Mathematics archiveのKenkichi Iwasawaの私訳を以下に載せておきます。

追記: 8月21日
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。

岩澤健吉博士
生誕: 1917年9月11日 日本国群馬県(桐生市近郊)新宿村
死亡: 1998年10月26日 日本国東京都

John J. O'Connor, Edmund F. Robertson

岩澤健吉は生まれた町の小学校に通ったが、武蔵高等学校での勉強のため東京に行った。1937年東京大学に入学し、彌永昌吉と末綱恕一に学んだ。この当時、東京大学は、高木貞治の著しい貢献の結果として、代数的整数論研究の中心となっていた。高木は、岩澤が勉強を始めた前年の1936年に定年退官したが、高木の学生、彌永と末綱は、彼等が学生の時にヨーロッパの一流学者とともに発展させた多くのアイデアを大学に持ち込んでいた。
岩澤は1940年に卒業し、大学院での勉強のため東京大学に残った。彼はまた数学科助手として雇われた。東京での数論の偉大なる伝統は興味を惹いたが、彼の初期の研究は群論だった。第二次世界大戦は日本の生活を混乱させ、実質的に末綱の研究キャリアを終わらせた。彌永は左程いい方向に上手くいかなかった。彌永は以下のように書いた。

....終戦まで。東京と他の日本の都市はよく爆撃され、私達は田舎に疎開先を探さなければならなかった。すべての人が戦争中何らかの方法で動員された。

明らかに岩澤は博士号の研究を完成させることは最も困難な時期だと分かっていた。その困難にもかかわらず、華麗に成功し、1945年に自然科学の博士号を授与された。しかし、その犠牲は高くついた。と言うのは、博士号取得の後、彼は肋膜炎で重体となり、1947年4月まで東京大学に戻ることを阻んだ。
岩澤がこの時代にやっていた研究を少し見ると、On some types of topological groups("ある種類の位相群について")があり、それは1949年Annals of Mathematicsに発表された。岩澤の結果は、任意の局所ユークリッド位相群は必ずリー群であるかを問うヒルベルト第5問題に関係した。1949年の彼の論文は、実半単純リー群の"岩澤分解"として今日知られているものを与えた。特に、NとG/Nがリー群となるような閉じた正規部分群NをGが持つならGはリー群であることを証明して、リー群に関する多くの結果を与えた。
1950年、岩澤は、マサチューセッツ州ケンブリッジでの国際数学者会議で講演をするため招待された。彼はその時にプリストン高等研究所の招待を受け、1950年から1952年までの2年間を過ごした。岩澤のそこでの2年間にアルティンが高等研究所にいて、岩澤の研究の方向を代数的整数論に変える主要因の一つとなった。1952年に日本語の代数函数論を刊行した。その本は、解析学的、代数幾何学的、代数算術的観点から代数函数論の歴史的概要から始めている。そして、岩澤は賦値理論、素因子の定義を与える代数函数の体、イデール、賦値ベクトル、種数を研究している。リーマン-ロッホの定理の証明が与えられ、リーマン面とその位相が研究されている。
高等研究所への訪問の後、1952年に日本へ帰国する積りだったが、マサチューセッツ工科大学の助教授のポストを提供され受諾した。[2]の中でCoatesは、岩澤が導入し、20世紀後半の数学の発展に基礎的なインパクトを持ったアイデアを書いている。

岩澤は今日岩澤理論として知られている、算術的代数幾何学での一般的手法を導入した。その中心的目標は、有限体上の多様体へハッセ、ヴェイユ、B Dwork、グロタンディーク、ドリーニュやその他の人によって見事に適用された、数体上の代数多様体のための手法の類似物を探すことである。....数論における彼の研究の最も重要なテーマは、Qの有限拡大Fについて深く理解困難な情報は、Fの上にある数体の無限ガロアタワーの算術に関する粗い問題を研究することによって得られる、という革命的アイデアである。

1956年のワシントン州シアトルでの米国数学会の会合で、岩澤は彼の革命的アイデアを講義した。そのアイデアに大きな可能性を感じたセールはすぐに取上げ、パリでのブルバキセミナーで岩澤理論について講義した。岩澤自身は、1960年代を通じてアイデアをもっと押し進めた深い論文の連作を書いた。1967年に岩澤の学生となったR Greenbergは以下のことを書いた。

私が岩澤教授の学生になるまでに、教授は彼のアイデアをかなり発展させていた。その理論は濃くなり、同時に不可思議になった。その当時、数人の数学者だけが理論を徹底的に研究したのに、理論は有望であるという一般的な受け止めがあった。最近30年間に起こった発展を振り返った時、その有望さは期待さえも超えている。

プリストン大学の数学教授職、Henry Burchard Fine Chairを提供された時、1967年に岩澤はMITを去り、Greenbergを研究生として採用したのは岩澤が就任後間もなくであった。岩澤がどのように学生を指導したか、Greenbergの記述を見れば、岩澤について多くのことが分かる。

ファインホールで毎日午後にお茶をするのがプリストンの伝統だった。これは、大学院生にとって非公式に教授と数学を議論する絶好の機会であった。岩澤教授は通常午後のお茶に来た。私が考えるべき問題を提案するのは、その時だった。数週間毎に、これらの問題の幾つかについて進捗があったかどうか私に彼はよく尋ねたものだった。これらの問題は全く難しく思われたが、時には実際の進捗を報告出来たので、私がやったことを聞くため私達は彼のオフィスへ行ったことを思い出す。彼は私のアイデアを前進させる手伝いをしたが、私自身で出来てほしいと思っているのは明らかだった。彼が特定の問題について知っていることのすべてを故意に明らかにしていない感触を持った。

1960年代末に岩澤は、ヴェイユが発見した、ゼータ函数と代数函数体の因子類群両方の関係の(ある意味での)類似物である、代数的整数体に対する予想を造った。この予想は"円分体に関する主予想"として知られるようになり、1984年にMazurとWilesがモジュラ曲線を使って解決するまで、代数的整数論の最も注目すべき予想の一つとして残った。
1986年に退職するまでプリストンの数学Henry Burchard Fine教授として岩澤はとどまっていた。そして東京へ戻り、余生を過ごした。退職した年に、彼は局所類体論を刊行し、その中で以下を書いた。

この入念に書かれた研究書は、局所類体論への現代的な形式群論的アプローチの自己完結で簡潔な説明を述べている。

岩澤は彼の業績に対して多くの栄誉を贈られた。1959年朝日賞、1962年学士院賞、1962年米国数学会よりCole賞、1979年藤原賞を授与された。
彼の研究の重要性は、[2]の中でCoatesによりまとめられている。

....今日、楕円曲線に関するB BirchとH Swinnerton-Dyerの予想、数体の整数環のK-群の次数に関するB Birch, J Tate, S Lichtenbaumの予想のような問題、そして、楕円曲線のモジュラリティとフェルマーの最終定理に関するA Wilesの研究において、多くの現代算術的代数幾何学の最も優れた業績の中でも、岩澤のアイデアは中枢的役割を担ったと言って過言ではない。

文献
[2] J Coates, Kenkichi Iwasawa (1917-1998), Notices Amer. Math. Soc. 46 (10) (1999), 1221-1225.

348804 journal
数学

taro-nishinoの日記: 谷山豊と彼の生涯 個人的回想

日記 by taro-nishino

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故Serge Lang博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。
さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌Bulletin of the London Mathematical Societyに発表した"Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections"(PDF)です。これは最近まで(だと思います)有償だったのですが、無償公開となり、早速私も読みました。非常に感動しましたし、この記事は是非とも"The Map of My Life"と一緒に読むべきだと思いました。この記事の私訳を載せておきますが、予め断っておきたいことがあります。
以下は"The Map of My Life"の第4章、18節からの抜粋です。

Why did I write it? He was an unusually talented mathemati-
cian, but I did not write the article for the purpose of saying so.
There is a section titled Taniyama’s problems at the end, but I
added it merely to comply with the editor’s request. Ignoring that
part, the last paragraph of the text may be taken as my official an-
swer to the question of why I wrote it.

(私訳)
何故、私はそれを書いたのか? 彼は非凡な才能の数学者だったが、それを言うために記事を書いたのではなかった。
終わりに谷山の問題と題する節があるが、編集者の要求に応えてただ付け加えただけだ。その部分を無視して、最後の段落が、何故書いたのかの疑問に対する私の公式の回答と取ってよい。

つまり、以下の私訳では"谷山の問題"の部分は省きました。これは数学記号を入力するのが面倒なことと、非常に専門的だからです。

追記: 8月2日
私の身辺より指摘があったので、追記します。"フェルマーの最終予想"とわざと書きました。つまり、証明しない限り、それは永遠に予想であって定理ではありませんし、フェルマーが証明出来ていたということは、おそらくあり得ないでしょう。そして、フェルマーが想定した形とは全く異なるような形(遥かに一般的且つ根本的)で証明されましたので、ここにフェルマーの名前があること自体がおかしいと私は思います。志村予想は、フェルマーのことを意識して提唱されたのではありません。もっと、数学的に根本の問題、すなわち楕円関数がモジュラ関数で一意化出来るためにはどうあるべきかから出発しています。フェルマーが考えたような数のお遊びではないのです。
ですから、フェルマーの最終定理とか呼ぶのは、おそらくは素人向けに受けんがためであって、全然実体とはかけ離れていると私は思います。
次いでながら、志村博士の"The Map of My Life"より以下を抜粋しておきます。

So much for the historical facts. It is my opinion that any-
body who wants to say something about this conjecture should
first understand the precise mathematical meaning of Taniyama’s
statement as I described above, and should also know what I did.

(私訳)
歴史的な事実はこれで終わりだ。この予想について何かを言いたい人は、私が上記で書いたような谷山の主張の正確な数学的意味を最初に理解し、そして私が為したことも知るべきである、が私の意見だ。

追記: 8月21日
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。

追記: 8月31日
まだ"谷山"予想だと拘っている日本人が多いです。何と似非権威に弱いと言うか、真実を見ようとしないと言うか、結局元々日本人の特性なのか分かりませんが。権威を信じるのであれば、本当の権威、つまり志村博士の言うことを素直に受け止めればいいものを、それもしないのです。
本題の私訳は"谷山の問題"の部分を省きましたが、その中に谷山氏とヴェイユ博士の会話があります。以下がその部分の私訳です。

ヴェイユ:「君は、すべての楕円関数がモジュラ関数で一意化されると思うのか?」
谷山:「モジュラ関数だけでは十分ではないでしょう。他の特別なタイプの保型関数を必要とすると思う」

この会話の意味が分からない人は始めから志村予想云々を言う立場にありません。上の会話は結局、谷山氏は「予想」していなかったことを意味します。
志村博士の"The Map of My Life"より、以下の文を抜粋しておきます。

The reader may ask why there
were so many people who called the conjecture in various strange
ways. I cannot answer that question except to say that many of
them had no moral sense and most were incapable of having their
own opinions.

(私訳)
読者は、予想をいろいろ変な呼び方をする非常に多くの人がいた理由を問うかも知れない。彼等の多くがモラル意識が無く、大抵の人は自分自身の意見を持つ能力がないと言う以外に、私はその質問に答えられない。

谷山豊と彼の生涯 個人的回想
1989年 志村五郎

谷山の生涯を書くには、先ず1950年代末への半ばの時だったことを強調しなければならない。その状況は、米国又は欧州の現在又は当時と比べるまでもなく、日本の現在と全く違っていた。その頃、人口は聞き慣れた言葉ではなく、天気が良ければ、東京の中心から70マイル西方の地平線に富士山が、朝には雪が覆った、夕方にはシルエットになった山頂とともに見られた。戦争時の破壊及び損失と、それに続く時代は過去のものとなったが、忘れ去られたのではなかった。私達はもう飢えてはいなかった。国全体が向上心に燃え、希望に満ちていたが、それでも非常に貧しかった。これは、集団的意味合いおいて、また個人的レベルにおいても、そうだった。谷山と彼の同僚も例外ではなく、どの国でもどの時代でも言われていることかも知れないが、人のキャリアの初めは通常野心的で且つ貧しい。
彼は人より特別に貧しいというわけではなく、非常な経済的困難はなかったと私は思うが、その当時の私達の大部分がそうだったから、彼の生活は決して快適とは言えなかった。少なくとも、その時代の普遍的貧困の公平な割当てを享受した。例えば、彼は、居間、流し台、ドアの陰の小さな土間の81平方フィートからなるワンルームアパートに住んでいた。水道、ガス、電気は各部屋に別れて設置されていたが、2階建ての各階に便所が一つだけあり、その階の12人前後の居住者によって共同利用された。彼の部屋はNo.20で、最後に近かったことを私は憶えている。だから、アパートよりは大学の寄宿舎にずっと似ていたが、おおよそ時代の典型だった。風呂に入るためには、アパートから数分の大衆浴場へ行かなければならなかった。アパートの建物は非常に見すぼらしい木造で、詩的に"静山荘"と名付けられたが、近くに小売店が並ぶ、狭いが活気ある通りに建っていて、しかも数分ごとに列車が近くを走ったので、全く静けさへの満たされない願望だった。セントラルヒーティングはなかった。つまり、そういう場所では、空調設備は想像出来なかった。しかし、東京の無数のコーヒ店の多くは、コーヒ一杯50円の値段で、際限のない数学的及び非数学的会話の場所のみならず、必要ならいつでも贅沢な冷房を提供した。1ドル360円で、東京大学の講師として彼の月給が15,000円より以下の時代だった。
家事について言えば、彼は怠惰な方で、滅多に料理せず、小さなレストランでよく外食した。いくつかの西洋風レストランで彼のお気に入りのタンシチュー250円の単品や別の慎ましやかな贅沢品をたまに食べられた。夏を除いて、彼は殆どいつも異様な金属光沢を放つ青緑のスーツを着ていた(彼は専ら着ていたと、私は言いたくなる)。一度彼は私に、そのスーツをどうやって入手したか説明した。彼の父が行商人から生地を大変安く買った。しかし、その光沢のため、家族は誰も着る勇気がなく、彼はどのように見えるか余り気にしなかったので、結局彼のスーツに仕立てして貰うことを申し出た。彼の靴ひもはいつも緩んでいて、よく地面に引きずっていた。と言うのは、彼はいつもしっかりと靴ひもを結べなかったので、緩んだ時に結び直しをしまいと決心した。
それが、同世代と後世代にインスピレーションを与える不朽のソースを残して、突如この世を去った数学者だった。
谷山豊は、谷山サヘイとカク[訳注: ご両親のお名前を漢字でどう書くのか分かりませんでしたので、失礼が無いようにカタカナで表記しました]の3番目の息子、6番目の子供として1927年11月12日に生まれた。彼は3人の兄弟と4人の姉妹がいた。彼の両親ともに90歳過ぎまで生きた。彼の名前は漢字一字で記述され、"とよ"と発音出来、彼がかって私に話したことだが、(私の記憶が正しければ)それが元々の意図した発音だった。だが、成長するに連れて、大抵の人、特に家族以外の人は、その漢字を"ゆたか"と読んだ。彼はある時点で、それを受入れ、以降彼は谷山ゆたか、だった。少なくとも、彼の論文すべてが、その名前(逆順であっても)のもとで書かれた。私は彼の子供時代の情報も、大学入学前の期間についても知らない。旧制高等学校に通っている間に結核を患い、2年間休学しなければならなかったことくらいだ。私が憶えている限りでは、彼は毎10-15秒に咳をしていた。
彼の父は地域で知られた田舎の小児科医で、この種の専門職が通常求めるように一般医もしばしば行った。私は父親に一度だけ会った。彼は80歳始めで元気だったし、いわゆる叩き上げのタイプに見えた。出会いから間もなく、彼は東京大学での私の同僚の一人(同じ時に彼に会った)に手紙を書いた。どういうわけか、老人は若い学者が学問的にうまく行っていないという考えを持ち、頭脳をもっと活性化させるためにビタミンB(又はC又はカルシウム)を含む食べ物を取るようにとアドバイスした。これが豊の死後だったので、父親が同じアドバイスを息子にしたかどうか私はチェック出来なかった。
谷山は1953年3月に東京大学を卒業し、彼は私より年長者だったけれども、私は1952年に卒業した。つまり、その遅れは彼の病気に起因した。私は彼を1950年から知っていたが、私達の真剣な数学的接触は1954年の始めで、Mathematische Annalen, Vol. 124(虚数乗法の代数的理論に関するDeuringによる論文を含んでいた)のコピーを返却するよう彼に手紙を書いた時だった。谷山は数週間前に図書館からそれを借りていた。前年の12月、シカゴにいたアンドレ・ヴェイユに、私は代数多様体のモジュロpによる還元に関する原稿を送った。私は理論をアーベル多様体、特に楕円曲線に応用する意図だった。私への返書の中で、谷山は同じ意図を持っていて、礼儀正しく私の理論をいつか説明してくれないかと尋ねた。今から振り返ると、私は当時分からなかったけれども、彼は広い知識とより良い展望を持ち、私よりずっと数学的に成熟していたと思う。
1954年1月23日付の葉書をまだ私は持っている。30年以上経って、それは当然古びたが、はっきりと彼の手書きを見せている。彼の両親の家の住所が記されていて、彼は一時的に滞在していた。大学から北へ約30マイル、半田舎半都会の一つ、小さな目立たない騎西という町にあった。ついでながら、彼はそこで生まれ、成長した。神のみぞ知る、5年と半年後、町の寺裏にある墓地の彼の墓の前に私が立っているとは。
私達の文通の時、彼は"特別研究生"で、私が助手だったが、実質的違いは殆ど無かった。あったとしても、俸給の違いのようなものだったであろう。教授が3回生と4回生を教える数学科に彼はいたが、1回生と2回生対象の微積分を教える別の部門に私は所属し、教養学部と呼ばれる別のキャンパスにあった。この切り分けが、上記の文通の前に彼と殆ど接触が無かった主な理由だった。2番目の理由はお互いが内気だったからかも知れない。結局、私達の両方が教養学部の講師となった。彼が死んだ時は助教授だった。
何のポストに私達が就いていようが、1954-55年の私達の実際の状況は、現実的な意味合いにおいて、指導教官のいない大学院生だったが、教育の負荷を背負い、その負担は少なくとも私の場合、米国の大学での教養課程の2つに相当した。この考察は、私の世代の日本人数学者のほぼすべてに当てはまる。唯一の重要な点は、私達の大部分が助手でさえも教員在職権を持ったということだ! いずれにせよ、先任教授は学生を指導出来なかった。たとえそうでも、彼等の一部がおせっかいなアドバイスをたまに提案した。一度、私達の一人が偶然、当時50歳の教授と列車で出くわした。教授は若い人に何の研究に興味を持っているか訊いた。2次形式のジーゲルの理論を研究していると聞いて、教授は"おっ、2次形式。君のような若い人は知らないだろうが、それはミンコフスキーが問題にしたことだよ"と言った。後で、私の同僚はこれに対する不満を私に言った。教授のもったいぶった空気をからかって、彼は"勿論、私はミンコフスキーが問題にしたことを知っているが、彼はジーゲルの成果に何か加えたのかね?"と言った。私も同様な役に立たないアドバイス又はコメントを受けた。
それらの教授は彼等の先達、特に先達の中でも非常に崇められている人物[訳注:故高木貞治博士を指します]を真似ようと頑張っているのかしらと思った。その人物は、多くのそのようなコメントをしたに違いなく、その大部分(だと、私は思いたい)が同様に無意味だった。又は、例えば谷山のような若い世代が既に教授連を飛び越えている(その根拠は以下で読者は分かるであろう)ことを認識せずに、教授連は彼等のスタイルで役立てようと努めているのかも知れなかった。谷山自身は決して自惚れたコメントをしなかったことを明記しなければならない。年少者への彼のアドバイスはいつも実践的で専門的だった。
ともかくも、私達はほとんど滑稽な言い草を無視したが、自分達自身以外には頼れないということを思い出させるものとして、それを受け取った。勿論、中間の世代に、既に傑出しているか又はそうなりつつある何人かの日本人数学者がいたが、彼等のすべてが外国にいるか又は短期的に日本を離れていた。例えば、小平と岩澤は米国にいて、すぐに井草と松阪が続いた。
1950年頃、ヒルベルトの第5問題が非常に話題となり、類体論の算術化又は、束論さえも話しの的になっていた。これらは魅力的ではなかったので、多くが代数幾何学を選んだ。その時、おそらくChevalleyのTheory of Lie groupsとヴェイユのFoundations of algebraic geometryが最も広く読まれた2冊だったが、前者は普通に最後まで読み、後者は最初の20ページかそこらで断念する場合が多かった。
学部生の時に谷山は両方を読み、ヴェイユによる代数曲線とアーベル多様体に関する2つの続編も読んだ。彼はかって菅原正夫(による代数のコースを谷山は取った)の影響で数論に導かれたと書いた。菅原は私の学科の先任教授で、虚数乗法に関する論文と高次元空間内の離散群に関する論文も書いた。しかし、私は菅原を好きだったし、人間として尊敬していたけれども、彼からインスピレーションを感じなかったので、彼の影響を谷山が認めたことについて私は分からない。私の考えでは、この時期と個人レベルにおいて、私と同世代の人、とりわけ谷山に専ら影響を受けたが、30歳以上の人にではない。これは谷山にも当てはまると思う。
実際、彼の訓練場所は学生自らが組織した多くのセミナーだった。彼はそんな活動の主導力であり、猛烈に出来る限り多くの数学的知識を会得していた。彼は、ディリクレ級数とモジュラ形式に関するハッセの論文No. 33, 35, 36, 38をある時点で、おそらくいくぶん後に勉強したに違いない。同じ学科にいる間、私が問題となっている論文誌の図書館コピーを入手出来なかった時に、このトピックについての彼のノートを親切にも貸してくれた。
彼の初めての初等的でない仕事は、"アーベル関数体のn分割について"と題されていて、シニア論文と見なしてよい(そんなものは要求されていないけれども)。彼の数学的業績の詳細な説明を、ここでの目的である私の個人的回想に混ぜるつもりはない。ただ、ハッセのアイデアとヴェイユの論文(Ann. of Math. 1951)を基礎にして、この論文がモーデル-ヴェイユの定理の証明を与えたということと、1953年において、彼が日本でこのトピックの研究知識を持つ唯一の人だったことだけを言わせてほしい。1954年の春、東京大学でChevalleyが持ったセミナーにおけるいくつかの講義の中で、谷山がこの仕事を紹介したことを生々しく憶えている。
始めに説明した通り、彼は長い間、アーベル多様体の虚数乗法に興味を持っていた。始めに超楕円曲線がヤコビ多様体の場合を調べ、最終的にはより一般的なアーベル多様体の超楕円曲線を取り上げた。この分野において分かっていることが少なかったので、その作業は、困難に対する"困難な闘い"であり、試行錯誤の"辛い努力"だった。数学者の実質的仕事を述べるのに、それらの4つの言葉(厳密に言えば、4つの相当する漢字)を彼はよく用いた。他人は違うように思えるかも知れないけれども、"容易い"は少なくとも彼の数学観では異星人の言葉だった。そんな"闘いと努力"に大きな喜び見出したに違いない。1955年9月東京-日光で開かれた代数的整数論のシンポジウムで、彼は自分の結果を発表した。そこでヴェイユと会い、ヴェイユの或るアイデアを含ませて、後にアーベル多様体と或るヘッケL-関数についての改訂版理論、当時の最高の業績('L-functions of number fields and zeta functions of abelian varieties', [3])を刊行した。
この論文に含まれていない部分に関しては、私が自分でその問題に関して結果を得ていたので、私との共同研究が計画された。私達は気楽(おそらく気楽すぎるのだろう。競争の雰囲気がなかったし、それは1980年代の若い数学者から羨ましがられるかも知れない)に生活していたから、現在の基準から考えてのんびりしていると言われるかも知れない形で作業を始めた。私は秋月康夫に感謝しなければならない。彼が編集者となっている研究書シリーズの一巻を私達に書かせることによって、私達のプロジェクトを急かせたからだ。
この共同研究の間、場所が私の家よりも大学からかなり近かったので、私はよく問題を議論するために彼の"荘"を訪れた。彼はいつも夜遅くまで仕事した。1957年の私の日記が、4月4日の午後、正確に言えば2:20 p.m.に訪問したら彼はまだ寝ていたことを物語っている。彼は午前6時に床に入ったと言った。別の時には、おそらく朝の遅い時であろう、ドアをノックしても返答が無かったので、彼の住いから30分列車に乗って学部事務室へ行った。彼がそこにいたから、"ここに来る前に君の所に立ち寄ったよ"と彼に言った。それに対して彼が言うには、"うむ、その時僕はそこにいたかい?"。彼は自分のへまが分かると、どぎまぎして自分の立場を擁護すべく以下のように言った。"だが、君も知っているように、その日のその時間は大抵眠っている"。
いろいろな面で私と異なっていることを発見した。一つは、私は早起きだったし、現在も早起きである。当時、彼が合理的で私が変わっていると思っていたが、間違っていたのかも知れない。私達に共通するものもあった。つまり、両者が大家族の末っ子だった。私は5番目で末っ子である。私はこれを、日本の家族における長子の自己中心性をよく憤慨したものだったという理由で言う。彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた。私はこのため彼を羨ましかった。彼を真似ようと虚しく努力したが、良い間違いを作ることは本当に難しいことだと分かった。
私達の共同作業、日本語で題された近代的整数論が1957年7月に刊行された。私達の次の共同作業は勿論、出来るならいい形式で英語版を作ることだったが、どういうわけか私達は熱意を無くした。一番目の明白な理由は、日本語であっても少なくとも書き上げたという事実に私達は安堵したからであった。実際的な別の理由は、その年の秋に私はフランスへ旅出す予定だったので、それが私を落ち着かせなかった。しかし、もっと根本的な理由は、本の序文からの一節を引用することにより与えられる。
"私達は、理論が完全に満足出来る形で表現されていると主張することに無理があると分かっている。いずれにせよ、私達の道筋を振り返り、頂点を視野に入れるために、或る高さを登っている過程を許されていると言ってよい。"
もっと散文的に言えば、より良い体系付けと結果に磨きをかけるための探求が必要だった。その年、私達は既に理論全体のアデール化について考えていて、おそらくその方向に追求すべきだったが、しなかった。また、心理的反動の問題として、人は一度何かを証明すれば、古いものに磨きをかけるよりも新しい定理を得ることに興味を持つ。実際、私達の両方がいろいろなタイプのモジュラ形式に興味を持ち、その過程は面白くて堪らなかった。だから、東京とパリの文通はいつもその話題だった。彼が私に知らせてくれたように、1958年の春、東京はジーゲルとアイヒラーを迎えて連続講義を行った。ジーゲルは2次形式の還元理論を、アイヒラーは最近の結果、特にトレース式を講義した。他方パリでは、カルタンセミナーのトピックスはジーゲルのモジュラ形式を中心に据えた。
彼はこの時期私に2回だけ手紙を書いたが、私は彼よりもっと多くを書いた。1958年9月22日付の2回目の手紙(彼の実在する全手紙の中で最終のものだ)の中で、ヒルベルトのモジュラ形式と或るディリクレ級数の間のヘッケ型対応はGL(2)のアデール群で体系付け出来ることに言及している。しかし、手紙の調子が示すように、彼の熱狂はむしろ控えめだった。そんな体系付けの実現可能性では不十分で、本当のブレークスルーには至らないことを彼は知っていた。明らかにもっと作業が必要だった。いや実のところ、彼は以下のように書いた。"暑いため、僕は一ヶ月間その作業を脇に置いたが、間もなく考え始めるだろう"。専念する十分な時間があれば、彼は成功していただろうに、2ヶ月の間で死ぬことを運命づけられていたから、その作業は永久に未完のまま残り、手紙の送り主と受け取り主両者の離れたやり取りが、その点を想像出来た。
共同作業に関して、彼の死(後で書くつもりだ)によって完全に状況が変わった。一人取り残されたから、出来るだけ早く完成させるのが私の義務だと思った(私が持っていた体系付けに決して満足していなかったけれども)。最終的に、"Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theory"[訳注: この本は勿論英語です。余計なことかも知れませんが、念のため題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法と整数論への応用"となります]が1961年の春に刊行された。題名は彼の手紙の一つから示唆された。良い見通しに事柄を収められるのに私は10年以上かかり、更に理論をテータ関数によって体系化(彼が望んでいただろう)するために別の5年がかかったが、これらを喜んでくれたであろう人は、ああ! とうの昔にいなかった。
彼の生涯と晩年の日々のプライベートな面を書くには、1955年までの数年に戻らなければならない。長い間、彼と私は同じセミナーのメンバーだったけれども、その年の12月に私の学部に彼が所属してからは、その関係は親密となり、当然いろいろな類の同じ活動に私達は従事した。例えば、公式の義務として、各自5000枚以上の大学入学試験採点のため私達は学部事務室に束縛された。私達には幸運だが、受験者にとっては不幸にも、殆が白紙だった。
もっと楽しい雰囲気で、私達は他の友人と共にコーヒ店でゆったりとした時間を楽しんだ。土曜日の午後は、町にある植物園又は郊外の公園で過ごした。夕方には、鯨肉(その頃は特別に珍味でなかったが、現在では考えられないだろう)に特化したレストランで食べるのが常だった。学校での仕事の一日が終わった後に、私達はよく長い散歩もした。神社を巡り歩き、そこで"神託"と印刷された小さな紙を楽しみのために買ったものだった。それらの紙は幸運を語るものだとされていた。
一緒に列車に乗っている間、彼は次の駅の名前を私に訊いた。それに対して、"次に止まるのは駅だろう。だから、次に止まるのは次の駅だろう"と答えた。これは、彼は始めて聞いたので、非常に楽しませた。その当時ラジオで流行ったコメディアンのセリフを私はただ真似しただけだと説明しなければならなかった。その後すぐに、彼はラジオ一式を買い、最終的にレコードプレーヤーと相当なレコードコレクションを手に入れた。上記で述べた彼の最後の手紙には、"最近、ベートーヴェンの第8番を繰返し聞いている"と書いていた。これらのことと映画を見に行くことが彼の唯一の楽しみだったと思う。彼が楽しんだ映画の一つは"王様と私"だった。彼は何らかの楽器を演奏したことはなかったと思う。彼は運動が得意でなかった。酒も煙草もしなかったし、何ら趣味を持っていなかった。彼は旅行が好きでなかった。いやむしろ、彼が行ける時はいつも避けているように私には思われた。おそらく彼のデリケートな健康のためだろう。彼の一生涯で京都が最も遠い所だった思う。教育された人間として、彼は標準的な古典文学を読んだはずに違いないが、日本又は外国の現代作家の小説の熱心な読者ではなかったと私は思いたい。数学史を除いて、歴史にも関心が無かった。
しかし、彼の全盛期を通して相当な時間とエネルギーを費やした一つの事がある。すなわち、学界問題についてジャーナリスト的に書くことだ。トピックスはいろいろだ。どのようにして研究者を訓練すべきか、数理科学の新しい研究所をいかにして組織すべきか、他人が書いた以前の記事の批評、ブックレビュー等。彼はこれらの記事をかなり急いで書き、それらを終えると殆ど修正しなかった。おそらく書きながら考えをまとめていたのだろう。彼は演説よりもずっと明確に表現出来るライターだった。次いでながら、彼は会話よりも手紙の中で楽しそうだった。本当のことを言えば、貴重な時間を浪費しているだけだと思ったから、この"趣味"は彼にとって残念なことだと私は見なした。私は彼に明瞭に言ったことはなかったけれども、各々のケースにおける動機が、彼の相当な奮闘を正当化するほどには重要ではなかった。或る時、無干渉政策に関する私の意見を聞いて数日後、発行物の第一稿を私に見せ、その中で私の喋り方を風刺漫画にしていた。当然私は抗議し、彼は私の部分を削除した。
彼はいつも同僚、特に年少者に親切で、心から彼等の厚生福祉に気を配った。しかし、今から振り返ると、皮肉のための批難を恐れずに言えば、動機は別にして、記事を書くことから大いなる喜びを引出したと推測出来る。それが本当なら、おそらく私が残念に思ったことはさほど意味が無かった。
彼の最後の月々を語ることによって、彼の生涯に関する、この非常にまとまりのない記述を締めくくりたい。その頃、私達は当然若い熱情と願望に満ちていた。これは、学問的であろうがなかろうが、すべてのことにおいて言える。学問的でない意味で今言えば、その当時に支配していた考え方を私は一センテンスで表現出来る。つまり、誰も(まぁ、ほぼ誰も)見合い結婚を信頼しなかった。冗談で、私達の一部が、学校機関はブルジョアのためにあり、我々プロレタリアはそれを悪魔の仕業であると批判すべきであると考えたかも知れないが、勿論それは誇張だ。いや実のところ、彼の死後数8ヶ月、1959年の夏の暑い或る日、友人達とともに私が彼の実家へお悔やみに行った時、彼の兄又は彼の父親だったかも知れないが、可能な連れ合いとして非常に有名な画家の娘をどうかと私に勧めた。困惑したので、パーティーでの女友達に、どう答えるべきかを尋ねた。作法礼儀の本は斯々然々と言いなさいとアドバイスしていると彼女は言った。私は勧められた言葉を機械的に繰返して笑いを誘った。そして、それで終わりだった。
その女性は豊の花嫁候補として元々から選ばれていたのかも知れないと私は考えていたものだった。もしそうなら(私の妻が後年私をよくからかったものだったが)、その理由のために、私はその女性と結婚すべきだった。彼の家族が持っていたかも知れない願いが何であれ、彼は自分で或る人を選び、最終的に両家の親の承諾を得た。彼女の名前は鈴木美佐子だ。彼は遺言状の中で彼女をM. S.と言及しており、私もそれに従う。だが、先ず背景事情だ。
私達周辺の非常に小さく緩やかに限定された社交サークルで彼は、友人の友人の友人として彼女に会ったと私は思う。1957年私がフランスへ出発する直前に、彼女の家で母親の助けを借りながらも、谷山、山崎圭次郎(大学での私の同僚の一人)、山崎の婚約者、そして私のために彼女が催した夕食パーティーを私は鮮明に憶えている。その集会(名目上は私のためのお別れ会だが)は、他の機会でのそれらと違ってかなり静かだった。実際、彼女が食事の間彼の無口をからかっていたのを憶えている。その同じ5人は、その年の4月に晩餐を共にしたが、それがおそらく二人の最初の出会いだったであろう。その頃、環境によってメンバーは変動しても、そのような夕べは多くあった。
美佐子は、どちらかと言えば、私のサークルの新参者だったので、私は彼女のことをあまり知らなかった。典型的な上流の中程の階級の出身の典型的に愛想のよい女性に見えた。そして、標準的な東京弁を自由に話した。彼女は一人っ子で、彼より5歳程若かった。彼等の婚約を知らされた時、私は漠然と彼女は彼のタイプでないと思っていたから、ちょっと驚いたが、心配を感じなかった。
彼等は新しい家庭のため明らかに良いアパートを契約し、台所用品も買い、結婚式に備えていたと後で私は聞いた。すべてが彼等と彼等の友人達にとって順調だった。そして、悲劇的終末が彼等に降りかかった。1958年11月17日の月曜の朝、彼のアパート(始めに言及したもの)の管理人が、机の上に残されたノートと共に、部屋の中の彼の死を見た。彼が学校の仕事で使っているタイプのノートブックの3ページを使って書かれており、その最初の文節は以下のように読める。
"昨日まで、自殺しようと明確な意思があったわけではない。しかし私が精神的にも肉体的にも疲れてしまっていたことに気づいていた人が少なからず居たと思う。自殺の原因について、明確なことは自分でも良くわからないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。私の自殺のために、ある程度迷惑を被る方々が居られるでしょう。私の自殺がそのような方々の将来に黒い影を落すことがないよう、心から望んで居ります。いずれにしても、私の行為がある種の裏切であることは否定できませんが、私の最後の我儘と捉えてください。私がこれまでの人生で行ってきたように。"[訳注: ここは志村博士の英語からの和訳ではありません。実際の故谷山氏の遺書のオリジナルです。何故そうしたかは賢明なる人ならご理解いただけると信じます。]
彼は次に几帳面にも、彼の所持品の処分の仕方のお願い、どの本とレコードが図書館又は友人から借りたものか、等を記述していた。特に、"レコードとプレーヤーをM. S.に遺したい(それらを彼女に遺すことで動揺していなければ)"と彼は言っている。また、彼が教えていた微積分と線型代数の教養課程コースでどこまでやったかを説明し、彼の行為が引き起すであろう全ての迷惑に対して同僚への謝罪の記述で締めくくっている。
かくして、時代の最も輝いて先駆者魂を持つ人が自身の意志で生涯を終えた。たった5日前に31歳になったばかりだった。
避けられない混乱と、そして葬儀に続いて、彼を追悼する友人と同僚の集まりがあった。彼等は完全に当惑した。当然、彼等は何故彼が自殺しなければならなかったのか自問した。だが、確信出来る答えは不可能だった。彼の婚約者によれば、決定的な月曜日の朝の数日内に彼女と会うこととなっていた。それは、神があたかも彼を家庭人でなく修道的数学者に設計していたかのようだった。私は結局その考えに甘んじたが、それはずっと後だった。
ともかくも、数週間後人々は遅くてもショックと悲しみから、やや持ち直したらしく、事は正常に戻った。そして、12月初めの或る寒い日に美佐子が、彼等の新家庭のためだったアパートで自殺した。彼女はノートを残したが、公開されなかった。私は次のようなことを含む文節を聞いただけだ。"私達はどこへ行こうとも、決して離れないと互いに誓いました。今彼が去ったので、彼と結ばれるために私も行かなければなりません"。
これらの不幸が起こった時、私は高等研究所のメンバーとしてプリストンにいた。だから、事件の詳細は、1959年春に東京へ戻ってから、久賀と山崎に聞いた。谷山自身は、その年の秋に研究所に来ることと想定されていたから、私は2年目もそこで過ごせたであろうが、去ることに決めた。
私が家に戻るまでに、桜の木は花が散り、深緑の葉っぱが光景を独占していた。陳腐な表現だけれども、春は足早に過ぎ去ろうとしていた。一年半の私の留守の後、東京の街はバイタリティと下品さと共に殆ど変わらなかった。だが、人々は変わった。私もそうだった。更なる変化の時期はまだ先だったが、その晩春の日々に私は単純な事実を虚しく熟考し続けざるを得なかった。つまり、たった2年前に私達が持ったパーティーの種類はもう不可能だと。騒乱の時代は過ぎ去った。
この記事を締めくくるため、いくぶん修辞的に問うてよい。すなわち、谷山豊は何者だったのか? これは数学史上での彼の大きさを問うているのではない。ここでの私の関心は、彼の存在が彼の世代と特に私にとって意味するものは何かだ。私が書いて来たことは勿論、その疑問に対する長い答えとして見なしてよいが、要約すれば、これまで書いて来たことが漠然とほのめかしている一つの点を私はもっと明確に述べるべきである。すなわち、彼は、彼に数学的接触をした多くの人(勿論、私も含めて)の精神的支えだったということだ。おそらく彼は自分が担っている役割を意識していなかっただろう。だが、この観点で、彼が生きていた時よりも今の方がずっと強く彼の高潔な寛大さを感じる。更に、彼が必死になって支えを必要とする時に、誰も彼を支えられなかった。これを考えると、私は深い悲しみに打ちのめされる。

謝辞
私に本質的な伝記的データを与えて下さったことに、私の心からの感謝を谷山清司博士と杉浦光夫教授に述べたい。また、第一稿の原稿を読み、価値ある提案をしてくれた数人の友人達に有難うと言いたい。提案は記事に含まれている。

谷山豊の参考文献
1. 'Jacobian varieties and number fields', Proceedings of the International Symposium on algebraic number
theory, Tokyo-Nikko 1955 (Science Council of Japan, Tokyo, 1956), pp. 31-45.
2. 'Jacobian varieties and number fields' (Japanese), Sugaku 7 (1956) 218-220.
3. 'L-functions of number fields and zeta functions of abelian varieties', J. Math. Soc. Japan 9 (1957)
330-366.
4. (With G. SHIMURA) Modern number theory (Japanese; Kyoritsu Publishing Co., 1957), 224 pages.
5. ' Distribution of positive O-cycles in absolute classes of an algebraic variety with finite constant field',
Sci. Papers Coll. Gen. Ed. Univ. Tokyo 8 (1958) 123-137.
6. (With G. SHIMURA) Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theory, Publ
Math. Soc. Japan 6 (Math. Soc. Japan, Tokyo 1961), 159 pages.
7. The complete works of Yutaka Taniyama. Publication by subscription, ed. by Seiji Taniyama et al., 1962.
This volume contains unpublished manuscripts, nonmathematical articles, letters, the last note, a
chronological list of events in his life, as well as the above articles except Nos. 4 and 6.

346821 journal
数学

taro-nishinoの日記: ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学 1

日記 by taro-nishino

先日バナハの"Theory of Linear Operations"に触れましたが、私が後世の数学徒に残したい数学名著を3冊だけ選べと言われるならば、以下のようになります(順不同)。但し、論文集等と日本語の本は除きます。日本語の本を除くのは、そもそも後世の人々というのは地球人であって、日本人だけを対象にするのは後世に残す気持ちが始めから無いに等しいからです。勿論、日本語版の外国語訳があれば考慮しています。

1. Stefan Banach "Theory of Linear Operations"
2. Claude Chevalley "Theory of Lie Groups"
3. Henri Cartan, Samuel Eilenberg "Homological Algebra"

1.は前にも言いましたが、バナハが元々書いた仏語版の方がいいと思います。

上記は数学徒、つまり数学専攻者を対象にしています。一方で、数学愛好者、数学入門者、数学を応用する立場の人もいらっしゃるでしょうから、それらの一般向けに3冊を選ぶとするならば、以下のようになります。

4. G. H. Hardy "A Course of Pure Mathematics"
5. E. C. Titchmarsh "The Theory of Functions"
6. Robin Hartshorne "Foundation of Projective Geometry"

特に数学入門者には6.をお勧めします。若い人の幾何学的直感が余りにも弱すぎるのを補うためです。

話は飛びます。
バナハの人なりをちょっと調べてみてから私の心は悲しみでいっぱいになりました。何故悲しいのかと言いますと、バナハのような偉大なる数学者でさえも、愚かなる戦争によって人生を台無しにされる現実に無常を感じるからのようです。調べているうちに、ポーランドを徹底的に破壊した当事国のドイツ、ソ連の数学者は当時どうしていたのか疑問に思い、次いでに調べてみました。ソ連に関してはさすがにインターネット上では資料が少ないのですが、ドイツは結構ありました。そのうちでも、結構まとまっていると思ったのは、カテゴリ論で有名な故Saunders Mac Lane博士の"Mathematics at Göttingen under the Nazis"(PDF)でした。その私訳を以下に載せておきますが、本当に世界から戦争の無くなることを願って止みません。

ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学
1995年10月 Saunders Mac Lane

1931年のゲッチンゲンにある数学研究所は傑出した伝統があった。つまり、ガウス、リーマン、ディリクレ、フェリックス・クライン、ミンコフスキー、ヒルベルト。新しく広い建物(ロックフェラー財団のおかげで、数学のための、そのような建物はパリにもあった)の中にあった。図書館は広く、トランクいっぱいに重要な論文があって、事細かに利用事項が指示されていた。学部は小さい(現代の基準では)が、傑出した若い人々ともに、素晴らしかった。
私以前にも、多くの米国人数学者(最も最近ではH. B. Curry)がゲッチンゲンで勉強した。私が当時(1933年)に書いた手紙から詳しく引用して(困難な状況に対する私の反応が記録されているので)、ここに私自身の体験をまとめたいと思う。
1931年、エール大学を卒業し、シカゴ大学での大学院課程に非常に失望していた。数理論理学をも含む第一流の数学科を探していた。ゲッチンゲンが両方を満足することが分かった。
ヒルベルトが教授職を定年退官したが、それでも週に一回、"現代科学の基礎における哲学入門"を講義した。彼の後継者ヘルマン・ワイルは幅広く、微分幾何学、代数的トポロジ、数学の哲学(これについて、私は講義録を書き上げた)を講義した。ワイルの群表現についてのセミナーから、私は多くを(例えば、線型変換の使用について)学んだが、代数学者はリー代数の構造を勉強すべきだと言う彼の言明を聞きそびれた。また、集合論があまりにも脆いと言う言明も私は確信しなかった。エトムント・ランダウ(1909年より教授)は、彼の例の洗練された明晰さ(と、使用した黒板を消す助手を従えて)で大観衆に講義した。リチャード・クーラントは研究所の管理者だったが、多くの助手を講義し、クーラント-ヒルベルト本の原稿に従事させていた。Gustav Herglotzは、いろいろなトピックス(リー群、力学、幾何光学、正実部関数)について洞察の満ちた講義を雄弁に行った。Felix Bernsteinは統計学を教えたが、大変な事態になる前、1932年12月に去った。これらがその当時の常勤教授だった。
臨時教授(少し格が落ちる)は、パウル・ベルナイス、Paul Hertz、エミー・ネーターがいた。Hertzは因果関係と物理学(マックス・ボルン、Richard Pohl、ジェイムス・フランクを擁する有名な物理学研究所は隣だった)について講義した。パウル・ベルナイスはヒルベルトと論理学を研究し、刊行予定のヒルベルト-ベルナイスの本、数学基礎論を準備していた。彼はまた、有名なフェリックス・クラインの初等数学教程をより高度な視点(主に将来のギムナジウム教師を対象に)から教えた。エミー・ネーター(ワイルは彼女を同格と考えた)は熱心に教えたが、彼女の現在の研究対象(例えば、群の表現と多元環)について難解な教程だった。彼女に刺激を受けた学生に、エルンスト・ヴィット、Oswald Teichmüllerがいた。
Herbert Busemann、Werner Fenchel、Franz Rellich、Wilhelm Magnusと同じく、Hans Lewy(彼から私は偏微分方程式を習った)、Otto Neugebauer(数学史)、Arnold Schmidt(論理学)を含む、多くの若い員外講師と助手がいた。私達はよく駅前の結構なレストランへ美味しい食事と議論のために行った。ゲルハルト・ゲンツェン、Fritz John、Peter Scherk、Olga Taussky、エルンスト・ヴィットを含む多くの熱心な学生がいた。
社交では、かってワイル教授の家でダンスパーティがあった。日曜日に挨拶状を渡すために宮殿のようなエトムント・ランダウの家を訪問するなら、次に行われるランダウのパーティに招待され、刺激的なゲームを履行するであろう。或る時、ランダウがゴッドフレイ・ハロルド・ハーディを招待したことがあり、ハーディに会うため列車に向かった。トレンチコートと黒メガネのハーディが降り立った。ランダウは彼に突如詰め寄って、解析的数論で使用される"劣弧"について最新の結果を尋ねた。ハーディがその分野に関心を無くしたと答えると、ランダウは落胆した。結局黒眼鏡はハーディではなく、心配したランダウの一学生のトリックだった。
その他多くの訪問者があった。Paul Alexandroffは代数的トポロジの最新公式(彼の薄い本、簡単な基礎にあるように)を紹介するために来た。エミール・アルティンは類体論の難解な美しさを詳細に説明するためハンブルクから来た。オズワルド・ヴェブレンは(毎週のコロキウムの一つで)射影的相対論を講義した。いつもの通り、コロキウムに先立って、お茶と最新の新聞の見せ合いとなった。リヒャルト・フォン・ミーゼスは当時ベルリン大学(ゲッチンゲン数学の古くからの好敵手)の教授だった。彼は、コレクティブの概念について確率論の(やや曖昧な)基礎を夜に講義した。すべてのゲッチンゲン学派が聞いていて、ヒルベルト、ベルナイス、Bernsteinや他の人がミーゼスのアプローチに公然と批難した。簡単に言えば、新しいアイデアは強制的に紹介され、議論された。多くの個人的接触があった。例えば、クーラントは米国訪問を計画していたから、予め英語の使用を教えるため私はクーラントの家で生活した時期があった。
従って、1931-1932年のゲッチンゲンの数学研究所は、活気に満ちあふれ成功している一流の数学的中心のモデルだった。
1931年、ドイツは多くの経済的政治的問題に直面した。大恐慌はドイツで多数の失業者を生み、多くのドイツ人は尚更第一次大戦後の酷いインフレを明確に思い出した。ドイツ首相(ブリューニング)は国会で安定多数を持っておらず、緊急事態法令によって統治した。私の知っている人々はこれらの問題に関心を持っており、しばしばリベラル又は左翼に同情の傾向があったが、将来を予見した人はいなかったことを私は思い出す。私はドイツ語を学ぶためと文化(例えば、ベルトルト・ブレヒトと三文オペラ)を吸収するため、最初にドイツはベルリンに入った。ナチス突撃隊(SA)と競う共産主義者と社会民主主義者がいた。ドイツにおける27の政党というパンフレットを私は詳細に研究した。ワイマール共和国は政治を滅茶苦茶にした。私がゲッチンゲンで住居を構えると、毎日曜日、顔に包帯をした若い学生達に気づいた。彼等は色々な武闘団体の決闘から帰って来た。彼等はおそらく、決闘による印象的な傷跡を自慢する法律教授の感嘆を予期したのだった。冬には一度、武闘学生に愚かにも雪玉を投げた、いたずらっ子を擁護した。その学生はすぐさま私に"貴方の名刺を見せなさい"と挑発した。名刺を持っていなかったので断った。学生は"我々はそのような人と連帯しない"と言い、実際彼は何もせず、私を無言の侮蔑で以てよく通り過ぎた。おそらく私は幸運だった。1912年、George Polyaがゲッチンゲンにいたが、彼は一学生から挑戦され断ると、すぐに学長が大学を去りなさいとアドバイスしたと、Martin Kneserは私に語った。私はとどまる事が出来て得をした。
1932年、ベルリンやその他の場所でナチス突撃隊と共産主義者の街頭決闘でドイツ政治は荒れ狂っていた。そして、1933年1月にはナチスがドイツ国家人民党(フォン・パーペンに主導されて)と協力した選挙があった。これらの国家主義者はヒトラーをコントロール出来ると考えたようだ。協力投票はヒトラーを帝国首相にするには十分だった。彼の演説と写真はどこにも現れた。
1933年2月12日、私は研究休暇を取ってワイマールを訪問した。到着してオペラハウスへ行ったが、翌日のチケットが完売だった(ワグナーの50回忌記念)。幸いにも翌日オペラハウスの外で立っていて、チケットを入手出来た。オペラの前半(勿論、ワグナーだ)は素晴らしかった。中休みにロビーへ出た。24フィート先に、ヒトラーとゲーリング(新聞の写真から容易に認識出来た)が立っていた。その時は(数ヶ月後に考えたことだが)、邪悪な考えが十分でなかった。後年、ヒトラーの面影を生々しく思い出したが、1933年5月に考えたと思う。つまり、(武器を持てるなら)私が個人的に歴史を変えていたかもしれない一つの機会だったと後に思った。
1933年3月、先に広大な宣伝作戦を行って、連立政府は2回目の選挙を実施した。政府に圧倒的多数を生んだ。私が母に書いた2つの手紙(一つは1933年3月10日付、もう一つは日付が無い。著者は求めに応じて、これらの手紙のコピーを提示するであろう)に、その状況が書かれている。
最初の手紙(1933年3月10日付)はプロパガンダをからかっている。私は、公なプロパガンダが意見を変えさせることを以前には見たことがなかった。ドイツを去る8月まで延々と続くプロパガンダによって非常に惑わされたから、実際に世界で何が起こっていたのか私は知らなかった。
日付の無い2番目の手紙(住所も省略されている)には、検閲されるかも知れないことを心配しているらしい。今は、この心配は事実無根だったと思う。だが、私が持っている資本論には少し心配した。警戒してシャツ下のポケットに隠したのを思い出す。実際、1933年5月10日、ゲッチンゲンで焚書があった。その前後、母が私に送ってくれたThe Literary Digestが来なくなった。
それらの手紙を書いた後に、チロルのオーベルストドルフへ学生で組織された2週間のスキー旅行に行った。私達は(団体チケットで)列車に乗って帰ったが、ニュルンベルクで3時間停止した。ヒトラーがユダヤ系の店を平和的ボイコットする命令を出した日だった。列車にスキーと荷物を置いたまま、街を探検した。そこの大きな靴屋で見すぼらしい身なりの男が展示品をじっと眺めているのを見た。その店は閉まっていたにも拘らず、警官が男に目を付け、一度彼を押し退けた。私はボイコットは平和的に行われると思っていたから、好奇心でマネをした。直ぐに私も捕まった。熱心な警官は私を、ドイツ帝国について嘘を収集しているアングロサクソンのレポーターの一人だと決めてかかった。彼は私を責めた。レポーターでなくただ学生に過ぎないことを分からせようと努めた。彼はすぐに、自分が米国を訪れるなら警官の邪魔をしないであろうと述べた。私の証明となるものはすべて列車に置いたままだと頑張って説明した。やっとのことで列車出発に間に合った。私はゲッチンゲンのロイツェ通り28(数学研究所からは遠くない)にある下宿に戻った。そこでは、女性大家が定期的に夕べの茶とお喋りを私にくれた。2週間のプロパガンダが彼女を穏健な保守的意見から熱烈なナチス信奉徒へと変えたことがすぐに分かった。
ドイツでは、教授、員外講師、助手すべてが政府公務員である。1933年4月7日、そのような公務員についての新しい法律がユダヤ人を解雇した(但し、1914年以前に雇われた者と第一次世界大戦の兵役についた者を除く)。加えて、"ナチズムにいつでも完全に実行しない者"を解雇した。
数学研究所において、その影響は根本的だった。クーラント、ネーター、Bernsteinは即解雇(4月25日)だった。クーラントの場合、第一次大戦での彼の軍役は補填しなかった。明らかに、彼の初期の政治的見解と広い数学的影響(フェリックス・クラインから引継がれた)が嫌われた。クーラントが退いて、Neugebauerが研究所所長を務めたが、一日だけだった。彼も解雇された時、明らかに政治的同情のためであるが、おそらく芝生を刈らなかったからであった! 4月27日には、ベルナイス、Hertz、Lewyが解雇された。ランダウは来夏学期に講義しないようにアドバイスされ、それに従った。この結果として、母宛の私の5月3日の手紙は以下である。

とても多くの教授と教員が解雇されるか又は立ち去ったので、数学科は徹底的に骨抜きとなっている。それは数学上において非常に厳しいが、人々のためにはいい選択であるとただ慰めているばかりだ。

夏学期には、事態はどうにかして進んだ。可能な学生は学位取得に急いだ。私は論文アドバイザー(パウル・ベルナイス)を失った。ヘルマン・ワイルは地位を保ち、そして厳しい口頭試問を私に与えた。私は頑張って出来たが、ハウスドルフ空間の定義で分離公理を忘れた。しかし、ワイルが一度印刷物の中で忘れたという事実を敢えて言わなかった。別の口頭試問には、Moritz Geiger教授の数学哲学のコースを取った。ユダヤ人だけれども、彼は第一次大戦に軍務したので教室に残された。しかし、彼の講義のすべてに神経質に将来の心配(当然の心配だ)をしているのに私は気づいた。
7月14日、私は以下のように母に書いた。

ごく最近、ドイツ革命は今終わり、すべての事は厳しい統制のもとで発展を進めなければならないと宣言されている。どういうわけか、それが今日まで厳しい統制のもとで万事が進んでいない、又は突撃隊が警察の権利と特権を持つという印象を与える。それがどうして起こったのか、私はうまく説明出来ない。

私の婚約者Dorothy Jonesがニューヨークから私の学位論文を完了させるための手伝いにゲッチンゲンに来た。彼女は政治的状況をよく学んだ。彼女と私が結婚許可を得るため登録事務所へ行った時、私の学生仲間Fritz Johnと彼の恋人Charlotteがそこにいたことに私達は驚いた。私達が分かるほどに彼等の状況が困難だった。彼はユダヤ人で、彼女はそうではなかった。異人種間の結婚を禁じる法律を彼は予見し、怖れたので、すぐにでも結婚すべきと彼等は心配だった。私達密かに賛同した。彼等の結婚式の後、私達を祝宴の夕べに招待した。他の客の中で、ブロンドのドイツ人若者と彼の明らかにユダヤ人恋人がいた。Dorothyは私の母へ"そのような結婚には、ロマンスに囲まれた冒険がある"と書いた。
7月25日、私は母に以下のように書いた。

政治は今まで通り興味津々に持続している。金曜日の夜、Dorothyと私は、ドイツ諸大学の新しい秩序に関するナチスの演説会に行った。最も良識のある演説だった。演説者(ベルリンの著名なナチス教授)は、科学が政治によって縛られないと訴えた。科学は独立であるべきだが、勝手ではない....と言った。会合の後、私達は下町へ行き、友人のGebhardt(彼とは演説会で会った)と一緒にコーヒを飲んだ。私達はそこで再び政治、ヒトラー主義におけるカトリック信仰の(無盲目的な)影響等を夜遅くまで議論した。最近、ナチス運動の中で非常に様々な意見があると思うようになった。あたかも外面的には同じように見えても、すべてのナチスが同じようには考えていない!

(注意、1995年: もはやカトリック信仰の議論を思い出せない。私はその頃ドイツ人のカトリック信仰に無知で、祖父の寛容を好ましいとする力強い説教の崇拝者だった。)
私の口頭試問はまだ危機だった。一つは、尊敬すべきGustav Herglotz教授の幾何的函数論だった。何をすべきか、経験者の友人達に相談した。彼等は教授が講義するのが好きだと注意した。これを私は試験中に思い浮かべた。

Herglotz: エルランゲン・プログラムとは何か?
私: すべてが群に依存します。
Herglotz: 複素解析の群とは何かね?
私: 等角群です。

等角群による幾何的函数論についての素晴らしい講義をHerglotzが始めるのに十分だった。
私の学位論文は終わり、合格した。
だが、研究所は更に損失があった。ヘルマン・ワイルはユダヤ人でないが、彼の妻がそうだった。これは、彼等の2人の息子がユダヤ人と見なされることを意味する。1933年夏学期の終わりに、ワイルは研究所の教授職を去り、プリンストン高等研究所へと向かった。合計して、1933年は18人の数学者が去るか又はゲッチンゲンの数学研究所にある学部から弾き出された。これはランダウを含んだ。彼は公的には解雇されなかったが、1933年冬学期に再度講義を始めた時、学生達は講義の完全ボイコットを組織した。ランダウはすぐに職を辞し、ベルリンへと引退した。
ベルリン大学での数学も完全に混乱を極めた。23人の学部メンバー(Richard Brauer、マックス・デーン、Hans Freudental、B. H. Neumann、Hanna Neumann、リヒャルト・フォン・ミーゼスを含む)が去った。他のドイツの大学での特定の(且つ、しばしば殆ど拡張しない)効果が、Maximilian Pinlにより4つの色で図表化されている。ゲッチンゲンでの状況の詳細な分析は、ナチス支配下のゲッチンゲンについての本の一部としてSchappacherにより紹介されている。
一人の観察者が数学における効果を以下の言葉でまとめている。

数週間内のこの作用は、何十年に渡って造られたすべての風をバラバラにするのであろう。ルネサンス時代から人間文化が経験した最大の悲劇の一つが発生した。すなわち、20世紀という条件のもとで数年前には起こるはずがないと思われたであろう悲劇である。

ゲッチンゲンでの数学を再建する試みがあった。著名な代数学者ヘルムート・ハッセが教授と研究所所長となった。一時期、彼はナチスに熱狂的な多くの数学者達(Oswald Teichmüller、Werner Weber、Edward Tornier)を扱う困難を持った。Tornierはたんに共同所長だった。彼は或る時、ハッセから監督権を奪うことを望んだ。Tornierは党を好んだ。例えば、その当時新しい雑誌ドイツ数学の1936年第一巻の2ページ目に以下のように書いた(私の翻訳[訳注: 言うまでもないことですが、この"私"はMac Lane博士のことであり、この場合の"翻訳"は独語からの英訳のことです])。

純粋数学も実体を持つ。つまり、これを禁じたい者は誰でも、哲学的に高い教養の持ち主と同じく、ユダヤ的リベラル思考の代表である....純粋数学のすべての理論は、数字又は図形のような実体に関係する具体的な問題に実際的に解答するならば、又は少なくとも、そこに発生する事柄のための構築に役立つのであれば、存在する権利を持つ。そうでなければ、それは不完全か、又は、意味のない定義で誤魔化すことによって自身と思慮のない大衆を誤らせる根無し草の名人の頭脳から生じた、ユダヤ的リベラルで混乱したドキュメントである....将来、我々はドイツの数学を持つだろう。

結局、ゲッチンゲンでの4つの教授職はハッセ、Herglotz、Kaluza、ジーゲルによって占有されたが、カール・ルートヴィヒ・ジーゲルを持って来ても、先の栄光は復活しなかった。或る時、ハッセは当局に対する自分の影響力の増大を望み、彼の義理の息子Martin Kneserによれば、ナチス党員の資格を申請したが、祖母の一人がユダヤだったかも知れないと判明した。彼の申請は戦後まで据え置かれた。戦後、ハッセは反ナチス運動の一部として解雇された。その時以降、ゲッチンゲン数学研究所は、ドイツの他大学での多くのそんな研究所の一つとして徐々に再建された。だが、元々の輝ける権勢を取り戻すには至っていない。
Dorothyと私は1933年8月に去ってから、偉大なる数学科の唯一つのモデルとして初期ゲッチンゲンの光景を宝物のように私は持ち続けた。科学だけのためではなく、その損失を悲しんだ。私はホロコーストを予想しなかったが、政治的プロパガンダの力には気をつけ、制止は私の力を超えるけれども、世界大戦の可能性を心配した。今振り返ってみて、すべての展開は、ポピュリズム、政治的圧力、計画された政治原理に対して何らかの服従によってなされた、学界と数学的人生へのダメージの確固とした実証である。

文献
[1] S. Mac Lane (1981). Mathematics at the Univer-
sity of Göttingen, 1931–1933, in Emmy Noether,
A Tribute to Her Life and Work, (J. K. Brewer and
M. K. Smith, eds.), Marcel-Dekker, New York, 1981,
pp. 65–78.
[2]
— — —, Mathematics at the University of Chicago,
in A Century of Mathematics in America, Vol. II,
Amer. Math. Soc., Providence, RI, pp. 128–151.
[3] M. Pinl, Kollegen in einer dunklen Zeit, Jahresber.
Deutsch. Math.-Verein. 71 (1969), 167–288;
(1970/71), 165–189; 73 (1971/72), 153–208; 75
(1973/74), 160–208.
[4] N. Schappacher and E. Scholz, Oswald Teich-
müller—Leben und Werke, Jahresber. Deutsch.
Math.-Verein. 94 (1992), 1–35.
[5] N. Schappacher, Das Mathematische Institut der
Universität Göttingen 1929–1950, Die Universität
Göttingen unter dem Nationalsozialismus. Das
Bedrängte Kapital ihrer 250–Jährigen Geschichte,
Munich K. G. Saur, 1987, pp. 345–373.

345804 journal
数学

taro-nishinoの日記: バナハの空間: リヴィウとスコティッシュカフェ

日記 by taro-nishino

先日、Stefan Banachの"Theory of Linear Operations"を再読しまして、これは数学徒、特に関数解析を専攻する人は是非とも読むべき名著だと思いました。Banachの日本語表記はバナッハとするのが通例ですが、私の身辺の欧米圏の人に何回も発音していただいたのですが、私にはバナハとしか聞こえなかったので以降バナハと表記します。勿論、ポーランド人がいないので正確かどうかは分かりませんが。
ところで、バナハ空間は完備ノルム線型空間のことですが、数学科では関数解析でなくても、例えば私が専攻した多変数解析函数論でもバナハ空間を使用します。それほど馴染みのあるバナハですが、正直申し上げてポーランドの人くらいしか知りませんでした。そこで、ちょっとどういう人か調べましたら驚きました。数学科ではなく、工科で勉強した人ですが、しかも卒業していないのですね。こういうことは天才にはよくあることですが、20世紀でも実際にあったことに感無量を覚えました。
話が飛びます。あまり詳細には書けないのですが、私の職場は数学、物理の知識を駆使して問題を解析することがメインでありまして、プログラミング等は誰でも出来るし、そんなものは検証の段階か新しいシミュレーションを取る際に始まるのです。そんなわけで、一昔前、量子力学を履修していない人向けにセミナーを同僚と手分けして行ったことがありました。始める前に希望者の名簿を見たら、情報系出身者が幾人かいました。私見では情報系は今や、学科を理系文系と分けた場合にはおよそ理系とは思えないほど数学が出来ません。高校までは理系だったと主張する阿呆がいますが、高校数学は関係ないし、そんなものは使用しません。私の偏見もあるかも知れないので、希望者に抜き打ちテストを行いました。問題は以下の3つです。

ノルム線型空間において、
1. エルミート変換の固有値は実数である。
2. ユニタリ変換の固有値の絶対値は1である。
3. 右手系で、一端を固定した直交変換の固有値は1である(つまり、剛体力学におけるオイラーの定理)。

これらは、おそらく線型代数の教養課程で、日本のどこかの大学で期末試験に出題されるはずのものです。問題とも言えないほど当り前で基礎的なものです。結果はどうだったかと言いますと、数物系は当り前ですが、電子電気工学系は殆ど出来ました。ノルムを意識したエレガントな解答ではなくても、電子電気工学系は腕力で行列計算に持ち込みねじ伏せるのには感心した覚えがあります。それに引き換え、情報系は殆ど白紙状態で、生物・医学系と差はありませんでした。生物・医学系は理論系と言うよりも実験系だから情状酌量がありますが、情報系がいつ実験系になったのかと思いました。情報系は理学ではなく工学だと反論するならば、何故電子電気工学系は出来るのでしょうかと言いたいです。かっては、理系でも俊英が情報系に進んだものですが、今やどこの大学でも情報系学科あり、しかもこの学科以外では学べないものがあるわけでもなく、本当に中途半端なことが原因だと思います(それともう一つ、何でも大衆化すると質が落ちるのです)。文系でも数理経済学を勉強した連中の方がおそらく出来るでしょう。

話をバナハに戻します。バナハの出生の秘密とかいろいろ面白い逸話があるのですが、深入りすると時間が足りませんので、程々のところで、D.Henderson氏の"Banach’s space: Lviv and the Scottish Cafe"(PDF)が簡潔でまとまっていると思いました。以下に、その私訳を載せておきますが、バナハを早死させる原因となった戦争というものが地球上からなくなることを願って止みません。

追記: 7月20日
バナハの"Theory of Linear Operations"ですが、これは元々のバナハが書いた仏語版の英訳です。私が始めて読んだのは仏語版でしたが、バナハは非常に仏語が流暢でしたので、数学的内容が素晴らしいだけではなく、仏語が名文です。どうせ読むなら仏語版をお勧めします。私は関数解析が専門でないのに、この本を読もうとしたのは、仏語の練習のためでした。

バナハの空間: リヴィウとスコティッシュカフェ
2004年9月28日 D.Henderson

或る意味でステファン バナハはこのワークショップの守護神である。彼はリヴィウ[訳注: 現在はウクライナのリヴィウ州]の元住民で最も著名な一人だった。彼の"溜まり場"、スコティッシュカフェは、このNATO高等研究ワークショップの要約本の表紙になっている街頭風景や、ワークショップ写真を背景とするポスターの中に見られる。私達は、スコティッシュカフェがあった建物の外壁にバナハとスコティッシュカフェを記念するプレートをワークショップ期間中に設置したいと希望したが、そのプレートは間に合わなかった。
始めてバナハを知ったのは、私がブリティッシュコロンビア大学(UBC)の学生で、大学図書館で物理学の本を見ていた時だった。バナハの本、"力学" [1]を見つけた。それは非常に素晴らしい解説であるが、西側諸国ではほぼ知られていない。残念ながら、絶版になって久しい。しかし、長年の後、私は台湾の書店で、この本を購入して嬉しかった。2回目にバナハを知ったのは、UBC図書館で彼の本を見つけた一年後、関数解析学のコースを取り、バナハとヒルベルト空間を勉強した時だった。おかしいかも知れないが、ほぼ当たっていることは、大部分の物理本に見られるヒルベルト空間の定義は実質的にバナハ空間の定義である。ヒルベルト空間は距離を定義するスカラー積を持つバナハ空間であり、一方バナハ空間での距離は正値で三角不等式を満足することのみ必要とする。
20年前、私はグルジア共和国テラヴィでのカンファレンスで、Myroslav HolovkoとOrest Pizioに会った。彼等は私にリヴィウを訪問するよう招待した。彼等の実績をもっとよく知るためとバナハの空間を訪問する機会のため、私は喜んで招待を受けた。
バナハは関数解析学の父の一人だったし、20世紀の最も重要な数学者の一人である。彼はリヴィウにあるKazimierz大学の数学教授だった。当時、リヴィウはポーランド東部の都市だった。現在は、ウクライナ西部のリヴィウ市であり、Kazimierz大学はIvan Franko大学である。
バナハは1892年にクラクフで生まれた。クラクフは現在ポーランドの都市だが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国のガリツィアの一部だった。バナハは一切ガリツィアを離れないで、オーストリアで生まれ、ポーランドで働き、ウクライナで死んだとも言えるだろう。
バナハの両親は結婚しなかった。彼は貧窮の中で祖母によって育てられたようだ。1910年クラクフのギムナジウムでの課程を終了した後、リヴィウの工科大学に入学し、1914年まで勉強した。第一次世界大戦の間は、医学的問題がバナハを軍役から救った。大戦中、クラクフにあるヤギェウォ大学の講義に出席したが、どちらの大学も卒業しなかったらしい。多分、バナハが試験を憎悪したからだろう。
クラクフで発生した注目する出来事は1920年のバナハの結婚だった。
バナハが正式な学士を持っていなくても、彼の数学的天才は既に明らかだった。クラクフで多くの数学的論文を書いた。Kazimierz大学の学部教員になる予定だったHugo Steinhausは、クラクフの公園でバナハがルベーグ積分について話をしているのを偶然聞き、バナハと語らって友人かつ擁護者となった。
1920年、バナハはリヴィウの工科大学の次席教員を申し込まれた。彼は学士を持っていなかったのだから、修士試験に進むために(博士号を得るために必須だった)文部省から特別な許可を得ることが要求された。1920年、彼は博士論文を工科大学に提出した。1922年、Kazimierz大学から教授資格取得を受諾し、この大学の教授となった。
リヴィウは既に物理学の中心だった。アインシュタインの同僚の一人である、Smoluchowskiは1900年から1913年までリヴィウで働き、死去までクラクフにいた。しかし、バナハとSmoluchowskiが緊密に連絡を取った、又は会ったことはおそらくないであろう。バナハはリヴィウを数学の中心にした。中でも、Hugo Steinhaus, Stan Ulam, Stan Mazur, Marc Kacは、この時代にリヴィウで活躍した有名な数学者である。セミナーの後、これらの数学者はスコティッシュカフェと呼ばれる軽食堂へ立ち去り、続きの議論を行った。
最初彼等はカフェローマで会合したが、軽食堂の支配人が支払いの繰延を喜ばなかったらしい。この理由と、スコティッシュカフェのスタッフのより親切な姿勢のため、バナハと同僚は道を横切ってスコティッシュカフェへ移動した。
議論の間、彼等は大理石から出来ているテーブルの表面に式を書いたように、スコティッシュカフェの支配人はとても寛容だったようだ。バナハの細君は、テーブルの表面に書く旦那の癖に賛同しなかったか、又は夜には結果の式が拭い去られるためか、どちらかの理由でテーブルの表面に置くノートブックを買った。そのノートブックは、必要なら提出するように軽食堂のスタッフで保管されていた。当然ながら、ノートブックは"スコティッシュ本"として知られるようになった。

彼等の議論は、このノートブックに書かれた数学的問題の提出を含んだ。193個の問題のコレクションは1935年と1941年に編纂された。1941年のSteinhausによる最後の記入は、ドイツによる侵略の約一ヶ月前だった。これらは純粋な研究問題であり、その幾つかは解決されたが、幾つかは未解決である。

その軽食堂は、もうスコティッシュカフェと呼ばれていないが、建物と土地は残り、私は1989年、そこで昼食をした。もっと最近では、その空間は銀行へと変わった。少なくとも建物と土地は数字に専念している。既に言及したように、スコティッシュカフェの初期の姿は、要約本の表紙として使用されている。建物が"スコットランド風"に建てられたから、軽食堂はスコティッシュカフェと呼ばれたと地元の住民は主張する。私はそうは思わない。私にとって、典型的な中央ヨーロッパの建物に見える。

第二次世界大戦が近づくにつれ、バナハの同僚の多くは米国へ逃げた。バナハはとどまった。1939年、ポーランドは再び分割され、リヴィウはウクライナの一部となった。1941-1944年の間、リヴィウはドイツによって占領された。スコティッシュ本は、ドイツの占領の間、安全な場所に保管された。埋められいたのかも知れない。

地元の噂では、バナハはドイツ占領の間、強制収容所で過ごし、人体実験の犠牲者だったという。彼は通貨違法売買の容疑で短期間監獄で過ごしたけれども、伝記 [2] によれば、強制収容所で過ごしたという噂は事実ではない。しかし、彼は困難な環境で生活し、確実に健康を損ねた。人体実験の噂の源は、生物研究所で技術者として働くことを強制されたという事実からだ。

戦後、再びリヴィウはウクライナの一部となった。バナハはクラクフにあるヤギェウォ大学の学問的地位を提供された。しかし、その時までに、彼は重病だった。1945年、肺がんのため死去し、リヴィウで埋葬された。1989年、Orest Pizioは私をバナハの墓へ案内した。

リヴィウがウクライナの都市になった時、スコティッシュ本はワルシャワへ運ばれ、神経外科医である、バナハの息子によって保管された。1956年、Hugo Steinhausは問題をコピーし、そのコピーをロスアラモスのStan Ulamへ与えた。Stan Ulamは英語に翻訳し、1957年に謄写版ノートとして公開した。1981年、Mauldinによって編集された本の中でスコティッシュ本は正式に刊行された。[3]

バナハの優れた伝記が刊行されている。[2]

バナハは、Smoluchowskiに始まり、現在も凝縮物質物理学研究所の中で続いているリヴィウの科学的、数学的伝統の瞠目すべき一部だった。私はバナハの空間を再度訪問出来て嬉しい。ワークショップの写真で見られる、出席者はバナハの空間の中で非有界オペレータである。

文献
1. Banach S. Mechanics, Mathematical Monographs 24. Warsaw-Wroc law, 1951. Presumably, originally published in Banach’s lifetime.
2. Kaluza R. The Life of Stefan Banach, (A. Kostant and W. Woyczynski, translators and editors). Boston, Birkhauser, 1996.
3. Mauldin R.D., ed. The Scottish Book. Boston, Birkhauser, 1981.

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あと、僕は馬鹿なことをするのは嫌いですよ (わざとやるとき以外は)。-- Larry Wall

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