taro-nishinoの日記: ビル・ゲイツを育てる 1
ウォールストリート・ジャーナルに、ビル・ゲイツ氏の父親や家族の視点から、ゲイツ氏を書いたインタビュー記事が載っていました。タイトルは、Raising Bill Gatesです。一読したところ、意外にも面白いと思いました。それから、これは私自身の個人的な思いも重なるのですが、若くして家族の味を知らない私から見れば、本当にいい家族だなと思いました。以下、私訳を載せておきます。
(なお、マイクロソフト創業者であるゲイツ氏は3世を自称しているのですが、いろいろ諸説があり、本質的なことではないので、以下では父親に対する子供という意味で、2世としています。)
ビル・ゲイツを育てる
ここシアトルでビル・ゲイツの家族と時間を過ごせば、いずれ誰かが水事件に言及するだろう。
未来のソフトウェア王は強情な12歳だったが、夕食のテーブルで彼の母と、特別に不快な議論を交わしていた。うんざりした彼の父は、冷たい水の入ったコップを少年の顔へ投げつけた。
「シャワーを有難う」と、若きゲイツ氏は怒った。
その事件は、そのドラマ性のみならず、有名な同姓同名である父、ビル・ゲイツ一世が我を失った珍しい時だったので、ゲイツ家の伝説となっている。その議論は、マイクロソフト社の共同創立者であり、世界の富豪として知られているビル・ゲイツとなるべく、波乱万丈な少年の人生において、ターニングポイントの前兆だった。
ビル・ゲイツの成功物語の裏には、別のウィリアム・ゲイツがいるのである。ゲイツ一世は、殆ど一夜にして大人の知性を身に付けたように思われる少年によってバラバラになった家族を繕った。彼は、息子が熾烈なビジネスの世界に飛込み、うまく成功するにつれて、静かな助言者として役割を担った。莫大な富が息子に対して新たな圧力となった時、ゲイツ一世は、今や世界的規模の個人的慈善事業になっているものに足を踏み入れた。
ビル・ゲイツ一世80歳は、息子の300億ドルの慈善事業、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の共同議長である。彼は脚光を浴びるのを避けて来た。財団での公式な経歴、すなわちシアトルで弁護士だったこと、第二次世界大戦の元兵士だったこと、非営利のボランティアで、3人の父親であること以上の、彼の詳細な人生については殆ど公にしていない。
ウォールストリート・ジャーナルのインタビューの中で、ビル・ゲイツ一世、ビル・ゲイツとその家族が、ビル・ゲイツ二世がカウンセリングを受けたこと、家庭の危機の結果として、彼の早期からのコンピュータへの興味が如何にして部分的に生じたか、を含む多くの詳しい家族物語が始めて語られた。時々の躾と自由放任の衝突の範囲内で、一家は起業者の性格を形成したのだった。
7ヶ月前に、ソフトウェア王がフルタイムにゲイツ財団で働き始めた時、父と子の関係は新局面に入った。過去13年間、父は財団に毎日常時出席している、ゲイツ家の唯一のメンバーであり、彼の家の地下で財団を始め、彼の息子がマイクロソフト経営の最後の10年間を仕上げている間、財団の世話をしていたのである。彼等は今、初めて直接的に一緒に働いている。
ビル・ゲイツ一世は、6フィート6インチであるので、殆ど首一つ、彼の息子より背が高い。彼は息子より社交的であることが知られているが、二人共、鋭い知性と、何かぶっきらぼうな印象を与えかねない、歯に衣着せぬ物の言い方は共有している。彼は内省的ではないので、彼の役割は息子の人生において、実際よりは軽く見せている。
「一人の父親として、私の食料を食べ、私の名前を使い、私の家で育った、口論好きな幼い少年が将来、私の雇い主になるだろうとは、決して想像しなかった。だが、それが起こったのだよ」と、ゲイツ一世は2005年のスピーチで、非営利活動家達に語った。
最初のステージ、つまり口論好きな幼い少年のことだが、「彼が11歳頃から始まった」と、連続インタビューの一つの中で、ゲイツ一世は言う。それは、幼いビルが大人になった頃で、家族の頭痛の種を増やすことになった。
その時まで、ゲイツ家は平和だった。ビル一世と妻メアリーは3人の子供、クリスティー、そして1955年生まれのビル、そしてリビーを持った。ボードゲーム、カード、ピンポンを楽しみとする仲良しな家族だった。そして慣習として、日曜日の夕食は毎週同じ時間に、クリスマスには、家族全員がパジャマ姿で集うことだった。
ビル一世は、子供達の実生活には大変やかましい一方で、情緒的には幾分距離を置いた。彼の子供達は、それは彼の世代の反映であろうと言う。言葉を注意深く選ぶ弁護士のような適性と結びあって、彼の高い能力も時には彼を威圧的にした。「父は帰宅すると椅子に坐り、そして夕食を摂った。しかし、何ら温かみのようなもの、抱き締めるようなことは全然無かった」と、長女のクリスティー・ブレイクは言う。
ビル一世は、シアトルの法律事務所での地位を築いている間、日々の子育ての大部分を妻に任せた。シアトルの一銀行家の娘であるゲイツ夫人は、運動選手であり、高校、大学とトップの学生だったが、大学でビル一世と出会った。彼女はフルタイムのボランティアになり、団体の委員を務めた。
ゲイツ夫人は子供達に、真剣な勉強、運動、音楽のレッスンを勧めた。(ビル・ゲイツは殆ど成功しなかったけれども、トロンボーンをやった。)そして、裕福な家庭の彼女の育ちを反映した躾を与えた。彼女は、子供達にきちんとした服を着ること、時間の厳守、家を訪問した大勢の大人には社交的に接することを期待した。多くの部分で、幼いビルは忠実に守った。
「彼女は最も熱心な親であり、私達全員に高い期待を持っていた。成績やその種の事柄だけではなく、公共の場での振舞い、社交性までも」と、ビルの妹である、リビー・アーミントラウトは言う。
意志の闘争
年少の頃のビル・ゲイツは勤勉だった。彼は世界百科シリーズを始めから終わりまで読んだ。彼の両親は、彼が欲しい本なら何でも与え、読書欲を鼓舞した。
しかしながら、両親は彼が人より本を好むようなので、気がかりだった。両親は、彼にパーティーの挨拶をさせたり、父の仕事上の式典でウェイターをさせたりして、調整に苦心した。
11歳で息子は知的に開花し、両親に、世界の出来事、ビジネス、人生の本質について質問を浴びせた、とゲイツ一世は言う。
「それは興味深かったし、私は凄いことだと思った。今、私は言うけれども、彼の母親は、それを喜ばなかった。彼女を悩ませた」
息子は意志の闘争であると称して、彼をコントロールしようとする母の本能に抵抗した。母が彼に期待した全ての事柄、例えば、部屋の掃除、夕食時間の厳守、鉛筆を噛まないことが、突如大きな摩擦の原因となった。二人は激しい議論に陥った。
「彼は意地悪だった」と、妹のアーミントラウト夫人は言う。ゲイツ一世は仲裁した。「父は半ば強引に間に入り、落ち着かせた」と、長女のブレイク夫人は言う。
ビル・ゲイツが12歳頃のある夕食時、その闘争は頂点に達した。現在のビル・ゲイツが言うことによれば「完全無欠で、冷笑的で、世間知らずの子供の無作法さ」と、テーブルを挟んで母に叫んだのだった。
それは、ゲイツ一世が珍しく怒り、水の入ったコップを息子の顔を目がけて投げた時だった。
彼とメアリーは、息子をセラピストへ連れて行った。「誰がコントロールしているかを巡って、両親と戦闘状態にあるのです」と、ビル・ゲイツはカウンセラーに話したことを思い出している。記録を辿れば、そのカウンセラーは、息子さんは独立闘争を勝利することを非常に望んでおり、ご両親がすることは息子さんをのんびりさせることです、と語っていた。シアトルからフェリーに乗って1時間にある労働者階級の町ブレマートンでの自身の子供時代を思って、ゲイツ一世はその助言を理解した。「私の成長期には複雑なものは多くはなかった。私がどこへ行こうが、何をしようが、誰と一緒にしようが、自由だった」
ゲイツ一世の母親のすることは全てのんびりだった。彼の唯一の妹は7歳だった。彼の父親は、共同経営している家具店で働き、子供の養育に全てを捧げた働き中毒だった。「父は完全に店に集中していた」と、ゲイツ一世は言う。
ゲイツ一世は早くから独立して家を離れた。隣家のブレイメン家は、彼の遊び友達である2人の少年がいて、父親は、ゲイツ一世の最も重要なロールモデルとなった。
その男、ドーム・ブレイメンは起業し、後には海軍将校、シアトル市長、航空機担当運輸次官になった。1930年の遅く、ブレイメン氏は、大陸横断の家族旅行にゲイツ一世を連れて行った。彼は、ゲイツ一世の所属するボーイスカウトの隊長だった。オリンピック山脈をハイキングする少年達を指導し、老朽化したバスに彼等を乗せて、イエローストーンとグラシア国立公園へドライブした。ボーイスカウトは、ダグラスのもみの木を自分達で伐採し、小屋を建てるのに2年間を費やした。ブレイメン氏は何事にも個人の限界を認めなかった、とゲイツ一世は言う。
「なんだ、両親に対して自分の地位を示す必要はないんだ。世界に対して何をする積もりなのかを明らかにしなければならない」ことを自覚し始めたと、ゲイツ氏は言う。
妙な自立
13歳の時から、妙な自立を与えられた。彼は、ワシントン大学でコンピュータの自由使用を楽しむため、何日か夜に休みを取った。家を離れて大部分の時間を過ごした。つまり、父親が子供の時と同じ様にしたのだった。一時的にオリンピアに住み、そこでは州議会のアシスタントであり、ワシントンDCでは議会アシスタントだった。彼は高校3年生の間、サザンワシントンにある発電所のプログラマとして働くため、休学した。将来のマイクロソフト共同創立者となるポール・アレンとの最初の共同制作の中に、ゲイツ氏がデザインしたトラフィックカウンタ"Traf-O-Data"があった。
両親はサポーター役に徹した。ビルがハーバード大学を中退し、そしてマイクロソフトを始めるため、ニューメキシコ州のアルバカーキへ移った時も黙認した。応援するのは大変な決心だった。
「メアリーと私の両方は、学位に関心を持った。彼女の方が私よりも大きかったと思う。彼女と私の期待は、大学生の子供を持つ人としてごく当然のことだった」と、ゲイツ一世は言う。
家族のサポートが、ゲイツ氏にマイクロソフトをシアトルへ移させる一つの理由だった。シアトルでは、両親の近くに住居を構えた。母は、メイドに息子の家を掃除して貰うように段取りをし、大きな会合があれば、彼にシャツを綺麗にさせた。彼女はまた、毎日曜日の夕食を含む、家の伝統を守るよう主張した。
ゲイツ一世は、小さな会社の顧問弁護士としての経験から、マイクロソフト委員を務めるビジネスパーソンの選別を手伝った。1980年には、学友スティーブ・バルマー(今、マイクロソフトの最高経営責任者である)に、大学院を中退してマイクロソフトへ参加するよう、説得することのために、ビル・ゲイツはディナーに父を連れた。父の法律事務所は結局、マイクロソフトを担当することになり、事務所の最大の顧客となった。
それが従業員達の妨げになるかも知れないとビルがやきもきした時、ゲイツ一世は、マイクロソフトの評判に対する息子の気掛かりを取り除いた。その申し出は、ビル・ゲイツを億万長者にした。それはまた、家族にとって次の挑戦を生み出すこととなった。
慈善事業の圧力
棚ボタの儲けの後、母親は息子に慈善事業に入ることを急き立てた。父親の法律事務所での或る晩遅く、ビルは母が寄付しなさいと促したので口論になったと、或る出席者は思い出す。
「私はずっと会社を切り盛りしている!」彼はそう言って怒った。ゲイツ氏は、その時慈善事業には反対しなかった、ただマイクロソフトでの自分の職務を邪魔されたくなかっただけだ、と言う。
結局、母は、ユナイテッドウェイに寄付するように息子を説得した。息子もまた、1980年代の国際ユナイテッドウェイ委員会における母のことを理解した。
しかし、ビル・ゲイツの富は大きくなったので、シアトル圏内の非営利団体からの寄付を仰ぐ手紙が山積みになった。マイクロソフトを退職後または60歳頃に、慈善事業を真剣に考える計画だったと、ビル・ゲイツは言う。
母親が稀な形の乳癌を患っているという診断が下された後、その計画は迅速になったのであろう。母は病と闘いながらも、もっと慈善活動をするよう、息子を説得した。母は1994年6月にあの世へ行った。
彼女の葬儀の日に、ゲイツ家は夕食を囲んだ。ゲイツ一世は子供達に、自分には素晴らしい約10年があったのだから、自分のことは心配するなと話した。彼は当時70歳だった。しかしながら、妻の死去後、彼は元気が無かった。
6ヶ月ほど後、息子とその嫁メリンダとテレビ電話をした時に、ゲイツ一世は再び財団のアイデアを持ち出した。彼は、金の要求を厳選し始めていて、そして分配するだろうと示唆した。
1週間後、ソフトウェア王は父親が活動出来るよう、約100億ドルを財団創設のために取って置くことにした。ゲイツ一世は後に、台所のテーブルで、地域の癌対策へ初めて小切手8万ドルを書いた。
ゲイツ一世は(間も無く再婚したのだが)初期の頃、寄附の約束は最も大切である旨の走り書きをノートによく書いたものだった。そして、息子の家へ周期的に送る段ボール製のワイン箱の中に、それらの走り書きをよく入れたのだった。その箱は、若いゲイツ氏の返書が入れられて返却された。それから、ゲイツ一世は、時には百万ドルを含む当選者に、1ページ足らずの祝福の言葉を書いたのだった。
ゲイツ一世と息子は、金を分配、数百人のスタッフを監督しながら、教育やワクチンのような領域まで、財団の活動範囲を広げている。
ゲイツ一世は、息子と嫁が舵を取るまで、世話役に徹するということを見失ったことはない、と言う。53年の後、彼は息子に場所を与えることを知っている。
「息子はいろいろなことを修正して来た。家族の力とは、それらの事柄において、彼と行き違いにならないことなのだ。何故なら、時間の無駄だからだ」と、ゲイツ一世は言う。
興味深い翻訳 (スコア:1)
翻訳有り難うございます