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uruyaの日記: 数えずの井戸 / 京極夏彦

日記 by uruya

数えずの井戸 / 京極夏彦
★★★☆☆

直参旗本青山播磨は、こどものころから何かが足りないという思いにとらわれていた。とりたてて欲が深いというわけではなく、何をしても一部が欠けているとしか思えないのだ。十あるはずのものが九に思えてならぬ。中級旗本の家に生まれてなに不自由なく成長し、まじめに剣術にはげんで門下でも一二の腕になり、道場仲間と白鞘組などという徒党をくんでそれなりに粋がってみたりもした。父を亡くした今は家督を継いで落ち着かねばならぬのだが、この世界に何かが欠けているという思いはぬぐいされぬ。そして播磨には、庭に開いている枯れ井戸の穴が、欠落の元凶であるような思いも、またあった。
播磨には縁談が起こっている。青山家は先代が若年寄水野から引き立てを受けていたが、このたび水野は失脚することになった。かわりに抜擢を受けるのが大久保家である。縁談の相手は大久保の娘であり、それを強力に推し進めているのは播磨の叔母だった。

菊はのろまな娘である。馬鹿なのではなく、人一倍頭の回転が早いために動けなくなってしまう。棋士が手筋を読むように、一瞬に何通りもの手筋をみてしまうため、今どう動けばよいのか判断できなくなる。特に菊はものを数えるのが苦手で、数えているうちに頭の中では十や二十もどんどん先に進んでいき、どこまで数えたかわからなくなる。それは、他の者から見ればただ愚鈍なだけに見えるのだ。菊はその日も、奉公先から何度目かの暇を出された。しかしその理由は、菊が使いものにならないからというものではない。奉公先の女将が、菊が亭主をたぶらかすと苦情を言ってきたのが原因である。もちろんそれはただの悋気である…というよりも、奥手な菊が気づいていなかっただけで、奉公先の主人が菊に言い寄っていたのだ。つまり菊は、奉公先の真面目一本の老主人に道を誤らせかけるほどの、美女であった。

吉羅はこどものころから欲深かった。欲しいものはどうしても欲しいし、必ず手に入れる。ただし吉羅は馬鹿ではないので、手に入らぬものを欲しがるようなことはない。手に入らぬならば、最初から欲しくはない。欲しいものは手に入れる。それだけのことだ。幸いに大久保家は上級旗本で、裕福だ。衣服や装飾品などは数えきれぬほど持っているし、数えたこともない。
その吉羅が、欲しいものがあると父親に談判している。その「物」とは、青山播磨。何人か見た婿候補の中で唯一媚びなかった男であり、吉羅はそれを欲しいと思った。吉羅が「生きている物」が欲しいと言ってきたのは初めてのことである。青山家は大久保の政敵にあたる水野家と親しい家だが、大久保家にとってもこの縁談にはうまみがあった。それは、青山家に伝わるという家宝、十枚揃いの姫谷焼きの皿である。それは来たるべきとき、老中への献上品として力を発揮するだろう。しかし今ひとつ踏ん切れぬのは、その皿が実際に存在するという確証がつかめないからである。

吉羅は、家風を学ぶと称して青山家に乗り込み、皿の存在を確認することになった。
菊は、ある事情から裏で支援している十太夫の斡旋で、青山家に奉公することになった。
そして登場人物たちのめぐりあわせはひとつの悲劇を生み、巷に流布する怪談が生まれた。

─────

「邪心野心は闇に散り、残るは巷のあやしい噂」
というおはなし。

主要人物三人と、もう三人の視点で話は展開します。他の三人とは、まず目上のものに褒められることを唯一の喜びとする青山家用人、十太夫。何もかもがおもしろくないと感じている、播磨と同門で互角の腕をもつ冷や飯食い、遠山主膳。そして菊と幼なじみの米搗き、三平。六人の視点×三セット+αという構成。
「皿屋敷」という、人口に膾炙した怪談が生まれる経緯を描くのが主題ですね。播州、番町はいうにおよばず、日本全国に類型数知れぬ怪談形式の「おはなし」。このおはなしがどういうかたちで形成されていったか。なるほどねえ、この正体の知れぬおはなしらしい落し方。納得。

八百ページ近い分厚さですが、リーダビリティの高さはかなりのものです。自分のペースの目安として、序盤60p/h中盤以降80p/hを越えたら読みやすい、切ったら読みにくいというのがあるんだけど、余裕で倍速以上出ました。ほとんどが六人の心象を描くことに費やされており、読む人によってはくどいと思うかも。作家ってベテランになってくるとだいたい読みやすさと引き換えに長ったらしくなってきますよね。あれどうしてでしょうかね。

印象としては巷説シリーズを長編にしたような感じかな。傑作ラブストーリー伊右衛門には遠く及ばないし、小平次にも届かないと思うけど、待ちに待った最新長編であり、一定の水準ではあると思いました。

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皆さんもソースを読むときに、行と行の間を読むような気持ちで見てほしい -- あるハッカー

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