ここ数日 twitter のつぶやきをまとめるトゥギャッターを見ていると、言葉をちゃんと使うことの大切さを強く感じる事が良くある。
ひとつはボブ・ディランが WIRED に寄稿した文章を解釈してから、自分の感想を少し混ぜて送り出したというつぶやきを検討・議論するものの平行線を辿るケース。もうひとつは教育者と大学生の間でやりとりされたつぶやきに対する周囲のコメントが、言葉を読んで正しい意味を導く、のではなく、言葉を読んで勝手な解釈をして憤っているという人が大量発生したケースだ。
まず前者の場合、元の発言と元の発言者(ボブ・ディラン)自身の書いていないが故に知る事が出来るはずもない内心と自分の内心を混同して、ボブは「そう思っているんだよきっと、と言い張る派」に対して、文章に書いてある事以上の意図を知る事等できない、知ろうとしたらボブに質問するしかないということで「内心そう思っているんだよきっと、なんて事を言うな」派に分かれて議論が展開されている。
このように文章の解釈の仕方にはいくつかある。「○○を言っている」のと「そういう風に言っていると思う」の2つに分けるとすると、文章を解釈するにあたって読み手の正しい態度というのは「○○を言っている」を求める事だ。これは断定であり、「~思う」は想像や思い込みだ。断定・決定や合意を受けてのみ次の段階へ議論を進める事ができるが、前提条件や定義をしっかり理解していなかったり誤解している状態では、本来なら少ない時間で済むはずなのに定義や説明を何度も繰り返さなければならないが為に、膨大なやりとりをしなければならないというデメリットがある。そして同じように、話し手や書き手も言葉の使い方に注意していないと、今度は読み手が混乱する。「こういうような意味で」とか「○○的な」という言い方と、「この意味で」あるいは「○○だ」という言い方に分けたとして、正しく伝えられるのは、やはり後者の言い方になる。
とあるつぶやき曰く「賢くみえるからタチ悪い」。これは広い意味や、抽象的なことを言って、大体の意味で間違っていないとしても、確実な意味とはズレている事だけを言い続ける人に対する感想だ。論点がはっきりしないが故に、同じような人が集まると微妙な差に拘り続けるために議論が全く進まないという無駄を産み出す。更に定義を行なう事にも自分の違和感を根拠に反対してくるため、議論そのものの価値すら失わせる危険性を指摘している。
過去の自分自身の経験から考えると、言葉のやりとりにおいて、おおまかな意味を伝えられれば大丈夫な環境の中に住んでいる人にとって、言葉の意味を正しく求めたり、意味と正しく整合した言葉を伝える、ということは退屈な作業になる。感覚的な楽しさを全てよりも優先するからだが、それゆえに、この退屈感を埋めるには言いたい放題かつ聞き漏らし放題になるのが一番簡単な方法となる。私は私、他の人は他の人。批判はすべて無視。それが私という個を維持する唯一の手段というわけである。
それを踏まえて自己に対する反省として書いておくと、自分の場合は「どうせ正確に伝わらないから、耳目を集められるかどうかは興味もないし、自分のイメージした言葉が本来の意味や自分の意図と乖離していたって構うものか」と、考えていた。これはまったく真剣ではないと言える。話し手としては「判らないお前らが悪い」「リテラシーがないんですね(苦笑)」という傲慢な態度であり、聞き手としては「お前の言いたい事は良くわからんが、こういう事だと俺が今決めた。俺の中で。ところで次の要点は?」という、やはり傲慢な態度だ。
このような真剣ではない態度による他人とのコミュニケーションには問題が起こる。それが先に紹介した後者のケースに表れている。
この学生の発言を見ていると、実際、他人へ抽象的な発言をし、抽象的な発言を受けて、理解したという事を証明せずに、わかりますという抽象的な発言をしていた。これを批判した教育者に対して学生側には言われた事を「ちゃんと判ろう」という真剣さが欠けていた。繰り返すが、ここでは内心の真剣さは問わない。内心は言葉にするまでは当然、わからないのだから。しかし文面には真剣さがなく、適当にあしらう態度は間違いなく読める。教育者は、そういった態度が一番良くないという事を、非難する言葉遣いという形式で学生に言い続けた。
教育者側の発言は、非難として受け止めたりせずに言葉の意味を調べた上で「把握しようとすれば」、一部の例外(後述)を除いて正しく伝わる事しか言っていない。そこへ、真剣でなくとも良いはずの外野が文章を斜めに読んで、自分の感想や憤りといった誤解・誤読が原因の感情をあらわにしたコメントを(特にここでは抽象的に言うが)糞を投げつけるように発言している。
このように糞を投げつける人たちは、糞が自分の口から出てもなお、それが糞だということに気が付かないという点と、糞を投げつけたという点で非常に愚かだ。真剣な言葉が感情を揺さぶったとして、それに真剣を装った糞で立ち向かおうとしたところで、その行為は真剣を振るう相手を更に真剣にさせる。糞を投げつける事しか出来ない人の周囲に「糞投げびと」仲間が勝手に寄って来て大勢で糞を投げつけようとするが、石よりも柔らかく時折液体であったりもする糞では、相手を汚すか病気にさせる事は出来るかもしれないが、最終的には相手に斬られてしまうのに。
後に残るのは死屍累々と糞累々であり、それは悪臭を発生させるだけではなく、みんなで糞と仲良くなれば死んでも大丈夫、という大変不衛生な状態への迎合だ。
ちなみに抽象的でアレだが「糞投げびと」に寄って行くような真剣師に見える人の中には、真剣の代わりにピコピコハンマーや牛蒡などの根菜で斬りつけてくる手合いも居る。それはまた後日取り上げる文章を書く時間が出来れば、取り上げたいと思う。
さておき、教育者の発言を受けた結論として学生は twitter を止める発言をした。教育者の発言と学生が twitter を止める発言の本質については、非難の仕方のまずさに対する批判を展開する箇所で、教育者がつぶやいた言葉を紹介しているので、それを参照してもらいたい。もうひとつ注目しておきたいのが、自分が非難や批判をされている訳ではないのに、糞で築いた壁を展開することに執着する者がいるという事。偽善だ、権威主義だ、といった批判の本質や根拠が「理不尽に見えた」という誤読に基づいているために、糞を大量に投げつけているにも関わらず、教育者が行なった本質的なことに対する批判は、ひとつも成し得ていない。結果として単なる個人攻撃をしているに過ぎなくなっているのだ。
このように、誤読して感情を昂ぶらせて人に噛み付く、糞を投げつけるという行為は、頭がおかしい以外の言葉では説明できない。だが感情を昂ぶらせた原因を作ったのは、斬りつけてきた真剣師のほうではないか?と、仮にそういう疑問があるとして、斬りつけられたと感じ感情を昂ぶらせたのは他の誰でもない自分であり、相手の発言を斬りつけてきたと理解してしまったのが過ちでないかを自問するのが何よりも先であるべきだ。
さて、前述の非難とは、今時人権にうるさい世の中なのにも関わらず、教育者から女子大生に対して「売春婦みたくなっている」という「ちゃんと判ってもらおう」という意図からは外れた発言だった。この非難には何故売春婦みたくなっているかを説明するための言葉が足りていないという批判はしておきたい。
件の教育者氏はこうつぶやいている。
>>発言がいつも抽象的で形式的なこと。こういう思考のタイプは徹底して具体的な言葉を使わせないと永遠のバカになる。
それが常時かどうかに関わらず、抽象的であったり形式的であったりする言葉の使い方は誤解を呼ぶ原因になる。常時曖昧であったり常套句を反射的に吐き出して居れば誤解される確率は上がるが、発言した言葉の抽象度の強さによっても誤解を呼ぶのだから注意するべきである。ただし、売春婦みたくなっている、ということを具体的に説明すると、売春婦みたくなっている学生のフォロワーが、じゃあ私は売春婦の客みたいな立場なのか?と勝手に誤解した挙句、余計な糞ピッチャーとして増殖していく事があり得るし、大学生がフォロワーを数千人持っていたという現象自体を良くない状態として説明するために、他のどの言い方が適切かは確かに悩ましい。これは想像でしかないが、覚悟があるとは言え糞の雨から身をかわすことになるのはさすがに避けたかったのかもしれない。
自分自身が真剣師となる事や、その場合に糞投げびとへ対抗せざるを得なくなるという状況は、ネット上で何かアウトプットをする限り必ず起こり得る。ネット社会の縮図としての twitter で巻き起こる議論のすべてが、誤解の為に無意味なもの、不衛生な状態になっているわけではないが、読み手として議論を眺めて居る時に糞を投げたくなる衝動が起こる事も、やはりある。またそのような心境になった時、文章を良く読む冷静さを取り戻せるように、普段から言葉の意味を追求する事に腐心したいものだ。