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yasuokaの日記: 国際連盟における血液型の標準化

日記 by yasuoka
佐藤清の『實驗血液學』(南江堂, 東京, 1935年7月)を読んでいたところ、以下の記述にでくわした(p.60)。

Landsteiner(1901)ハ人血ヲ3種ニ分類セシガ翌年Janskyハ之ヲ四種ニ區別シ之ヲ第I型,第II型,第III型,第IV型トセリ。其後v. Düngern, Zinsser, Mossモ亦人血ヲ四型ニ區別シタガ夫等ニ相違ガアルコト右表ノ如シ。…右ノ如ク研究者ニヨリテ血液型ノ分類ガ區々タルヲ以テ1927年國際聯盟會議ニヨリv. Düngern, HirschfeldニヨルO型,A型,B型,AB型ノ名稱ヲ採用スルコトニ成レリ。

ABO血液型はなぜABCではないのかにも書いたとおり、国際連盟のCommission permanente de standardisation des sérums, réactions sérologiques et produits biologiquesが、ヒトの血液型をO, A, B, ABで表記する決定をしたのは、1928年4月のことである。『Bibliographie des Travaux Techniques de l'Organisation d'Hygiène de la Société des Nations, 1920-1945』(Bulletin de l'Organisation d'Hygiène, Vol.XI, 1945)による限り、この委員会が会議をおこなったのは、1926年10月11日~13日(ジュネーブ)、1928年4月25日~28日(フランクフルト)、1930年10月8日(ジュネーブ)、1931年6月23日(ロンドン)、1934年8月28日~30日(コペンハーゲン)、1935年9月30日~10月4日(ジュネーブ)、1937年11月17日~18日(ロンドン)、1938年10月19日~22日(パリ)であり、1927年に会議が開かれた記録はない。付け加えるなら、1902年に第4の血液型を発見したのは、Jan JanskýではなくAlfred von DecastelloとAdriano Sturliだ(Münchener medicinische Wochenschrift, 49 Jg., No.26 (1. Juli 1902), pp.1090-1095)。

一方、古川竹二の『血液型と氣質』(三省堂, 東京, 1932年1月)には、以下の記述がある(p.22)。

而して是等の血液各型の名稱につきては、今云つたヅンゲルン、ヒルシフェルド兩氏のものの外に、ジャンスキー氏と、モス(Moss)氏との唱へた名稱がある。是等を一括して表示すれば次の如くである。…上掲の如く種々に稱へられて居たのであるが、一九二七年の國際學術會議に於て、O A B ABの方を採るやうに決定したので、以後此の方が使用せられて居る。

古川竹二の言う「一九二七年の國際學術會議」が、Institut International d'Anthropologieを指しているのか、National Research Councilを指しているのか、イマイチはっきりしないが、そのいずれかであれば、1927年に「O A B ABの方を採るやうに決定した」のは事実である。

つまるところ佐藤清は、「1927年國際學術會議」と「1928年國際聯盟會議」を混同したなどして、「1927年國際聯盟會議」と書いてしまったのではないかと考えられる。ただ、1933年3月以降、日本が国際連盟を脱退してしまっていたことを考え合わせると、当時の佐藤清が「ウラを取る」ことができなかったのは、ある程度、仕方のないことなのかもしれない。

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