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yasuokaの日記: Frank Edgar McGurrinの娘 1

日記 by yasuoka
国立国会図書館に出向いたついでに、豊沢豊雄の『一日一案発想練習365日』(実業之日本社, 1981年2月)をチェックしてきた。

タイプライターのルーツ
タイプの発明者は、ショールズ氏で、その権利を、レミントンが、一万二〇〇〇ドルで買って、実用品に仕上げた。
ときに一八七四年であった。
しかし、手で書くよりおそく、なかなか流行しなかった。
ところが、マックガリンという男が、ある夜、娘が、キイを見ないで、五本の指でピアノをひいているのを見て、
「そうだ、キーの位置をおぼえて、手の指全部を使ってたたこう――」
と考えた。
この発想で、彼は、一分間に九〇語も打てるようになった。
レミントンは、彼をとても高い月給で雇い、アメリカ中を実演させながら宣伝した。
それが大当たりしたのである。
この発想の、ほかの使い道はないだろうか。(p.120)

日日光進にもコメントしたが、Frank Edgar McGurrinに娘はいない。息子もいない。Remingtonに雇われたこともないし、宣伝巡業などということもしていない。この際だから、Frank Edgar McGurrinの経歴を、ざっと追ってみることにしよう。
1861年4月20日Michigan州Grand Rapids生まれ。1884年Michiganの巡回裁判所在任中にタッチタイピングを開発し、1886年6月30日にMichigan州Van BurenでJane A. M. Darlingと結婚。1886年から1894年までUtah準州Salt Lake Cityの第3地方裁判所に速記者として勤める。この間、1888年7月25日Ohio州Cincinnatiでのタイピング・コンテストにおいてLouis Traubを破り、1分間に96ワードの記録を叩き出したが、1888年8月13日Torontoでのタイピング・コンテストで、2本指タイピストのMiss Mae E. Orrに敗退し、1889年1月22日Cincinnatiでの再戦で、10%のハンデ付ながらLouis Traubにも敗退してしまう。1895年のUtah州憲法起草で公式速記者を務めたのを最後に、銀行家としてF. E. McGurrin & CompanyやMcGurrin & McGurrinなどの銀行をSalt Lake Cityで設立。その後、anti-Mormonの銀行家として辣腕をふるうが、1915年Salt Lake Security & Trust Companyでの社長退陣劇を機にCalifornia州Oaklandに脱出、Sequoyahゴルフ場のオーナー兼ゴルファーとして再起し、地元の名士として1933年8月17日死去。
つまり、Frank Edgar McGurrinがタイピストとして名を馳せていたのは、彼の72年の生涯のうちわずか10年ほどに過ぎない。それを、稀代のタイピストであるかのようにデッチあげて、架空の宣伝巡業までさせてしまう豊沢豊雄は、さてそれで、いったい何を「発想」できると言うのだろう?

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