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yasuokaの日記: デザイン学者の書くQWERTY配列

日記 by yasuoka
D. A. ノーマンの『誰のためのデザイン?』(新曜社、1990年1月)という本を教えてもらったのだが、第6章の中の「タイプライター ― デザイン進化のケースヒストリー」(pp.236-244)がQWERTY配列に関するガセネタのオンパレードで、ものすごいシロモノだった。何点か、あげつらってみようと思う。

現在標準となっているキーボードはチャールズ・レイサム・ショールズ(Charles Latham Sholes)によって一八七〇年にデザインされたものである。このタイプのキーボードはクワーティ(qwerty)キーボードとよばれたり(アメリカで使われているものでは、上段の文字は左からqwertyの順になっているため)、ショールズ式キーボードと呼ばれたりしている。

1870年にQWERTY配列がデザインされていたなどという記録は、私の知る限り存在しない。しかも、QWERTY配列をデザインしたのは、CharlesではなくChristopher Latham Sholesだ。あるいは、Christopherの兄のCharles Clark Sholesを指しているとも考えられるが、兄のCharlesは1867年に亡くなっているので、そもそも話のツジツマが合わない。

このアルファベット順の配列が変わったのはどうしてだろうか。それは、機構上の問題に対処するためである。タイピストが速く打ちすぎると、タイプライターの活字バーがぶつかりあってからんでしまうのだった。それを解決するためにキーの位置が変更された。たとえば、iやeのような文字は続いて打鍵されることが多いので、活字バーがからみあわないようにタイプライターの中で反対側に位置するように配置された。

英語の連続する2文字のうち、「ie」+「ei」の出現頻度は第44位である(Roy Thurlby Griffithの『The Minimotion Typewriter Keyboard』(Journal of the Franklin Institute, Vol.248, No.5 (November 1949), pp.399-436)での調査結果による)。第2位の「er」+「re」や、第27位の「ou」+「uo」がタイプバスケット内で隣接して配置されているのに、「ie」+「ei」だけを反対側に配置しても仕方ない。しかも、QWERTY配列に対する誤解にも書いたが、Sholesの「Type-Writer」においては、キー配列と活字バーの配置との間に自由度があるため、活字バーの配置だけを変えることができる。「活字バーがぶつかりあってからんでしまうのでキーの位置が変更された」などというのは、根も葉もないデタラメだ。

小文字キーもつくようになった。しかし、最初は小文字一文字一文字のために新たにキーが付加されていたのであって、いわば二つの違うキーボードがあるようなものだった。初期のタイプライターの中には、大文字用のキーの配列と小文字用のものが異なるものもあった。そんなキーボードを学ぶのはどれだけたいへんか考えてみていただきたい。一年後になってようやくシフトキーが開発され、大文字小文字が同じキーを共有することができるようになったのだった。

シフト機構を有する『Remington No.2』が発売されたのは1878年のことで、大文字しかない『Sholes & Glidden Model』(1873年発売、後の『Remington No.1』)の5年後の発売だ。これに対して、大文字・小文字のキーが別々のタイプライターは、1882年発売の『Caligraph No.2』が最初で、シフト機構の発表より4年も後のことだ。「一年後になってようやくシフトキーが開発され」の「一年後」というのは、いったい何の「一年後」なのか正直さっぱりわからないし、歴史的事実に全くあっていない。

ソルトレークシティのフランク・マグリン(Frank McGurrin)という人は大胆にもキーの位置を覚えてしまって、キーボードを見ずに全部の指を使ってタイプすることを学んだのである。最初、彼のやり方は注目されなかった。ところが、一八七七年にオハイオ州のシンシナティで開かれた全国コンテストで実際その方法が優れているということが証明された。

Frank Edward McGurrinが参加したタイプライティング・コンテストは、1888年7月25日にシンシナティで開催されたものが最初だが、これはMcGurrinの呼びかけによるLouis Traubとの一騎打ちであり、「全国コンテスト」などと呼べるシロモノではない。次に参加したタイプライティング・コンテストは、1888年8月1日にニューヨークで開催されたものだが、これはMetropolitan Stenographers' Associationの呼びかけにもかかわらず、参加者はわずか4人で「全国コンテスト」にはほど遠かった。私の考えでは初の「全国コンテスト」は、1888年8月13日にトロントで開催されたタイプライティング・コンテストで、Canadian Shorthand Societyの第7回年次大会に併催されたものだ。しかし、このコンテストでは、Frank Edward McGurrinは2本指タイピストのMae E. Orrに敗退しており、McGurrinメソッドの優位性を証明できていない。そもそも、これらのタイプライティング・コンテストは、いずれも1888年に開催されたものであり、1877年に開催された「全国コンテスト」などというものは、私の知る限り存在しない。

D. A. ノーマンが、タイプライターをケースヒストリーとして扱いたいのはわかるが、それならば、タイプライターの歴史をちゃんと調査して、ウラを取ってから執筆すべきだろう。こんな、あちこちの本からガセネタばかりを集めてきたような内容で、ケースヒストリーを語ろうなどとは、手抜きにもホドがある。

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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家

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