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yasuokaの日記: James Densmoreと初期のタイプライター

日記 by yasuoka
James M. Utterbackの『イノベーション・ダイナミクス』(有斐閣、1998年11月)という本を教えてもらったのだが、第1章の「産業イノベーションのダイナミクス」(pp.21-45)で書かれているタイプライターの歴史に事実誤認が多く、読むに堪えない内容だった。以下に何点か指摘しておく。

ここで彼(ショールズ)は自分の発明を商業的に成功させるためには金銭的な力と精神的な力が必要と感じ,1869年に,押しが強く,口のたつセールスマン・タイプの人物であるジェームズ・ダンスモア(James Dunsmore)をパートナーとして雇った。

ダンスモアはないでしょ、ダンスモアは。James DensmoreとChristopher Latham Sholesは旧知の仲で、私の調べた限りでは、Oshkosh Democrat紙の1853年1月28日号(p.1, l.3-5)に、既に知り合いだった記録がある。しかもDensmoreは、Sholesのタイプライター開発に、遅くとも1868年3月には関与し始めていて、実際1868年5月1日署名のSholesのタイプライター特許の図版ページの左下には、James Densmoreのサインがある。

ダンスモアはほとんど金をもっていなかったが,気概に溢れ,そのタイプ機械に一攫千金のチャンスを感じていた。

だからダンスモアじゃないってば。当時James Densmoreは、地元ペンシルバニアでのオイル・ブームに便乗して、石油を鉄道輸送する会社を経営していた。1869年までは、まだJohn Davison Rockefellerがペンシルバニアに手を伸ばしてきておらず、かなりDensmoreは儲けていたはずだ。

しかしながら,最初に彼はショールズにその未成熟な機械の改善を求めた。ショールズは少しずつ50に上る小さな改善を重ね,そのことでダンスモアが満足できる機械を作り出せるようになった。この時点でようやくダンスモアは製造業者への売り込みを開始した。

ダンスモアじゃないって言ってるのに。しかも実際James Densmoreは、改善前のタイプライターを、あちこちに売り込んでまわっている。少なくとも、シカゴのEdward Payson Porterが経営するPorter's Telegraph Collegeへの売り込みは成功していて、Porterは、Saint Joseph Herald紙の1868年11月21日号(p.3, l.7)に、タイプライターを使った授業の宣伝広告を打っている。ここでの授業が失敗に終わってはじめて、DensmoreはSholesにタイプライターの改善を求めはじめたようだ。

ウエスタン・ユニオン(Western Union)社に対し,5万ドルともいわれる金額で独占的な製造権を売却する試みに失敗した後,ダンスモアと彼の仲間はレミントン(Remington)社の社長であるフィロ・レミントンに近づいた。

私の知る限り、James Densmoreが最初に製造権の話を持ちかけた相手は、American Telegraph Works社のGeorge Harringtonで、1870年9月頃のことだ。1872年8月頃には、Western Electric Manufacturing社のAnson Stagerにも話を持っていったが、こちらも断られている。ちなみにAnson Stagerは、Western Union Telegraph社の取締役でもあったので、それを↑は勘違いして、「Western Union社」なんて「Telegraph」を抜かして書いてる可能性もあるが、そもそもこの時点のWestern Union Telegraph社に製造部門はない。

折からの南北戦争にともなう好景気の下,レミントンは他分野への多角化を試み出していて,そのときまでに農業用機械,縫製用機械,馬引きによる火力エンジン,綿繰り機などに手を出していたが,いずれも結果は悲惨であった。

E. Remington & Sons社が農業用機械の生産を始めたのは、南北戦争前の1856年のことで、当時かなりの成功を収めている(『History of Herkimer County, N. Y.』(F. W. Beers & Co., 1879)参照)。これに対し、火力エンジン(Fire-Engine)に手を出したのは1882年のことで、かなり先の話だ。ミシンや綿繰り機(Cotton-Gin)も、James DensmoreがPhilo Remingtonに会った時点(1873年2月)では、そこそこ売れていて、売れ行きが落ち込むのは1873年9月の恐慌以後のことだ。

この『イノベーション・ダイナミクス』という本には、これ以降にも、ありとあらゆる事実誤認があるのだが、キリがないのでこの辺にしておく。それにしても、第1章だけで20以上の参考文献を挙げていながら、それでDunsmoreはないだろう、Dunsmoreは。いったいUtterbackは、これらの参考文献のどこを読んだと言うのだろう?

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あと、僕は馬鹿なことをするのは嫌いですよ (わざとやるとき以外は)。-- Larry Wall

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