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日記

kazekiriの日記: Red Hat、Cobalt、Andover、そしてLinuxOne?のIPO 6

日記 by kazekiri

http://shujisado.com/2017/06/08/612646/へ移転。

1999年、シリコンバレー周辺地域はバブルに浮かれていた。インターネットが少しずつ利用を広げる内にインターネットが世界を一変させるという過度な期待が先行するようになり、また当時の金融政策の影響もあって、利益の裏付けどころか製品およびサービスすら存在しないプレゼン一枚だけであってもネット関連というだけで莫大な資金調達が可能になり、黒字が全く見込まれなくても株式公開が行われるという状況になっていた。.comというドメインサフィックスからそれらのベンチャーはドットコム企業とも呼ばれていたが、このネットベンチャーに投下される資金による設備投資によってIT関連機器とサービスへの需要が爆発し、古参のシリコンバレー企業の株式も高騰していった。また、加熱するネット企業の起業により極度の人材不足が発生し、人材確保のためにおしゃれな社屋とオフィス家具、レクリエーション用の設備、無料の豪華ランチといったものが浸透し始め、また大量に流入する起業家、投資家、開発者、その他の人々によって周辺地域の経済を加熱させていた。

今のサンフランシスコと全く変わらないという声が聞こえてきそうだ。しかし、当時のネット人口は現在の数十分の一程度であり、人々はYahoo!ディレクトリと群雄割拠の検索エンジンを頼りに中身のないサイトを巡るネットサーフィンを行っていた時代である。近年も莫大なベンチャー投資がサンフランシスコとシリコンバレー周辺地域に注がれるようになってきているが、バブル状態だと言われることもある現在と同規模の投資が1999年から2000年に かけての時期にも行われていたことは驚きでしかない。つい最近、とうとうS&P IT指数がドットコムバブル期の高値を越えたが、この推移を見れば、当時の異常さが分かってくるのではないだろうか。

現在のユニコーン企業の異常さは他に語るべき人がいると思うので、ここでは当時のドットコムバブルという時代背景を踏まえ、オープンソース関連のIPO(新規株式公開)を追っていく。

先陣を切るRed Hat

1999年、ドットコムバブルの風に吹かれ、生まれたばかりのLinux/オープンソース関連企業にもIPOを目指す機運が出てきていたが、その先陣はRed Hat社が務めることになる。

Red Hatは1994年にMarc Ewingが作成したLinuxディストリビューションであるが、翌年にはごく小さなソフトウェア販売の会社を経営していたBob Youngがそれを商標権ごと買い取った。このあたりが現在のRed Hat社の起源である。当時としてはそれなりに使いやすいパッケージシステムを備えており、1996年に出されたRed Hat 4.0以降は北米を中心に世界的にもメジャーな存在になっていたと思う。日本では日本語環境のための追加パッケージであるJEがSlackware用であり、JEの後継プロジェクトであるPJEが1997年にRed Hat対応を行うまではシェアは抑えられていたが、それ以降は標準的な地位になったと言って良いだろう。欧州ではSuSEが勢力を伸ばしていたが、Red Hatの影響を受けてその構造を取り入れており、また1998年に出現したMandrakeは元々はRed Hatをベースにしたものであった。北米でもNovellの混乱から生まれたCaldera社がIPXベースのネットワークOSとも言えるようなCaldera Network Desktopを出していたが、これもRed Hatをベースにしていたように思う。このようにRed Hatの影響を受けた多くのディストリビューションも出現し、シェアが最大というだけでなくLinuxディストリビューションのリファレンス実装的な側面も出てきており、業界の先頭を走る存在だと見なされるようになっていた。なお、現在ではメジャーの一角とも言えるDebianは、Wichert Akkermanがリーダーの時代の1999年にリリースされたDebian 2.1(Slink)でやっとAPTが含まれたという状況であり、フリーソフトウェア支持者からは熱狂的な支持があったが、"一般的"なLinuxユーザーが使用できるものという空気はそれまではさほどなかった。

ビジネスの状況としては、1996年2月度までのRed Hat社の売上は100万ドル以下であり、赤字体質であったが、前述のRed Hat 4.0あたりからは売上が急増するようになり収支が拮抗してきた。そして、1997年に米国有数のメディアコングロマリットであるLandmark Media Enterprises社を率いる富豪のFrank Batten一族から最初の投資を得ることになる。この後、1998年の夏頃にCaldera社との合併の噂が流れるといった外部から見るとごたついていると思われていた時期もあったが、1998年9月と1999年2月から4月にBatten一族、IntelならびにBenchmark CapitalとGreylockという有名なベンチャーキャピタルが加わった追加投資を相次いで行い、それらを通してIBM、Compaq、Oracle、Novell、Netscape、SAPあたりも少数ではあるがRed Hatの株主に加わることになった。この時期の売上は1998年度が500万ドル、1999年度に1,000万ドルとなり、大きな赤字も出さずに獲得した投資を着実に事業の拡大へつなげられていたように思う。

彼らはLinuxディストリビューションという枠内では既に支配的な地位だと見なされており、オープンソースムーブメントに乗ってLinux採用が勢いを増していく中、Red HatはIPOを目指すことになる。インターネットが一般にまで広まれば無料でネットから手に入れることができるOSでどうやって利益を出していくのだ?という素朴な疑問も根強くあったわけだが、SuSEやMandrakeのような手法を北米の大資本が使えば容易にトップの地位をひっくり返される可能性もあったし、そもそも当時の空気の中では業界のナンバー1起業がIPOを目指さないという選択はなかっただろう。1999年6月、Red HatはIPOを申請した。

1999年夏頃にはIPOバブルの行き過ぎが懸念されるようになっており、芳しくない結果となるネット関連のIPOも出てきていたが、最初のLinux企業の株式公開はオープンソースムーブメントの熱狂に乗って大きなトピックになろうとしていた。公開日の8月11日に向けて徐々に投資家からの人気が高まっていることが明らかになってきており、さらにオープンソース開発者らにIPO価格での購入権をオファーするという行為の話題性も人気の高まりに寄与していた。

なお、Red HatはLinuxカーネルやその他のソフトウェアの開発者、パッケージ、マニュアルへの貢献者らの5,000人程度にIPO価格での購入をオファーしたとのことだが、このような試みがそもそも過去になかったため、オファーメールがスパム扱いされたり、オファーを受けても指定されたE*Trade社のシステムから参加する資格がないと閉め出される者が続出する(Slashdot)という事態も発生し、一部のコミュニティがカオス状態に陥った。(お前はVA社のボードメンバーとしてオプションを持ってるだろ!と言いたくなるが、)Eric Raymondまでもが E*Tradeのシステムから排除され、混乱に拍車をかけることになる。運良くE*Tradeシステムでの手続きを通過していた者も、人気の高まりを受けて公開日直前にRed HatがIPO価格を10-12ドルから12-14ドルへ引き上げたことで悲劇を招くことになる。価格変更によりE*Tradeシステムでの再確認が必要になったのだが、8月11日の公開日はLinuxWorld Expoの開催日であったためその連絡に気が付かない者が出てきたのである。オープンソースムーブメントに関するドキュメンタリー映画「Revolution OS」ではRed HatのIPO当日のLinuxWorld Expoのフロアのシーンが出てくるが、VA社CEOのLarryが自社で設置したEmail Gardenにて来場者にRed Hatの株価を尋ね、嬉しそうにみんなRed Hatの株価をチェックしていると言っているのは、このような背景もあったからである。なお、最終的には1,000人以上の者がIPO価格でのRed Hat株の取得ができたようだが、しばらく印象が悪さがつきまとうことになった。

何はともあれRed HatのIPOは8月11日に無事に行われ、初値は48.50ドル、終値は52ドルで取引を終え、Red Hatは1億ドル近い資金を得ることになった。LinuxWorld Expoが終了する週末までに80ドル台にまで株価は上昇し、販売価格の5倍に達するという大成功を見せたのである。

Red HatのIPOの成功によりVA社は以下のような知見と感覚を得た。

  • 人々はLinuxとオープンソースムーブメントが市場へ出て行くことを歓迎している。
  • オープンソースコミュニティは自分達が金銭的にも報われることは悪いことではないと考えている。
  • VA LinuxはRed Hatよりもうまくコミュニティへ還元しなければならない。

この時点で市場は次のIPOとしてVA Linux社がすぐにでも来ることを予測していた。そして、それがLinux株の本命になるという期待もかけていた。

意外な伏兵、Cobalt Networks

1999年9月、Red Hatの株価は100ドルを超えるようになり、そろそろVA社の番だと市場が思っていた頃、意外な会社がLinux IPOの二番手としてIPOを申請した。Cobalt Networks社である。

Cobalt社は1996年に創業したローコストなサーバーアプライアンス製品を製造販売していた企業である。日本ではよく売れたのでCobalt QubeとCobalt RaQという製品を覚えている人も多いだろう。MIPS R5000系のチップのマシンにRed Hat Linuxが組み合わされ、サーバーアプリケーションの設定が容易になる特徴的なUIが搭載されていた。また、何よりも鮮やかなコバルトブルーの筐体が目を引く製品だった。

最初の製品となるCobalt Qubeは1998年に出荷であり、つまりそれまでは売上はなかった。売上を計上したのはIPO前の6四半期だけであったが、IPO前の1年間では100万、200万、260万、500万ドルと四半期売上を伸ばしていた。 このほとんどの売上はパートナー会社からの間接販売であり、海外売上が非常に多く、全体の30%近くを日本の売上が占めていた。その多くは日商エレクトロニクス社の販売によるものである。事業活動も製品の完成以降は販売網の構築に注力していたように見受けられ、オープンソース企業というよりも当時の新興のネットワーク機器の会社により近かったかもしれない。

このように書くと順調なビジネスには見えてくるが、IPO申請時期までに2,000万ドル以上の損失を記録しており、売上の数字よりも多くの損失を出し続けるような状態であり、通常であれば将来を見通しにくかった。Cobalt社は1996年から1999年にかけて3回の投資ラウンドをこなし、総額で4,800万ドルの資金を得ていたが、当時の残存のキャッシュや幅の広がりを考えにくいビジネス形態を考えるとこのタイミングでIPOするのが投資家には最善だったのだろう。

ともあれ、Red Hatの余韻が残る市場ではドットコム企業ともオープンソース企業とも取れるCobalt社のIPOは非常に人気が高まり、16ドルの当初価格から直前に22ドルにまで引き上げられ、11月5日の公開日には128ドルで取引を 終えるというRed Hat社を越える大成功を見せた。

CobaltのIPOの成功によりVA社とクレディスイス証券は以下のような感覚を覚えた。

  • 同じハードウェア会社のCobaltが成功したのだから、VAはさらにもっと大きな成功ができるに違いない。

なお、2000年9月にSun Microsystems社によるCobalt社の買収が発表され、Cobalt社はわずか1年だけを上場会社として過ごし消滅した。1億ドルの資金を調達して上場後もさほど変わらないペースで損失を計上し続け、一度も黒字化を見通すことはなかったが、20億ドルという金額での売却は投資家と経営幹部には大成功と言えるのだろう。さらに悪化し続けた当時の市況を考えると、ここしかない時期にIPOを果たし、ここしかないタイミングで売り抜けたとも言える。Sun社で立ち上げられたCobalt社の製品ラインは2003年、早々に廃止されることになるが、1998年の当初からCobalt社を支え続けていた日本のファンによって一部のツールがオープンソースとして残った。

え?マジで?、Andover.net

Cobalt社がIPOを申請した翌週、早くも3社目のLinux/オープンソース関連?の会社のIPOが申請された。VA社ではなく、Andover.net社である。これを予測していた者がいたという記憶は私にはない。

Andover.netは1992年に創業し、1996年まではごく零細なソフトウェア販売業の会社だったようだ。1997年から全面的にWebメディアにビジネスを移行し、主にWindows系の(自由ではないほうの)フリーウェアの情報やIT系ニュースサイトを運営していた。転換社債の発行で資金を調達し、少しずつサイトの拡大と運営サイトを増やしていったが、どれもが個人サイトの域を出るような規模のものではなく、Andover.netという名を知る者はほぼいなかった。

1999年にAndover.netは自社でメディアを育てるのではなく、転換社債を元手に既に成長しているサイトを買収する方向に舵を切った。そして6月にSlashdot.orgを買収することに成功してしまう。オープンソースに関わるあらゆる歴史的な出来事が何故かSlashdot.org上で議論されてしまうという流れになっていたことから、そのムーブメントに乗ってサイトが成長してしまい、それによってサイト運営が創業者のRob MaldaとJeff Batesの手に負えなくなっていたというタイミングが重なったことで、Andover.netは自社の小さなメディアを凌駕する規模のサイトを獲得することに成功したのである。

この勢いでAndover.net社は、同月にGIFアニメ、アイコン、クリップアートなどの販売とオンライン上でのGIF製作ツールなどのサービスを提供していたAnimation Factoryというサイト群を買収し、8月には主にオープンソースソフトウェアの更新情報サイトであるFreshmeat.netを買収、10月にはLinux/オープンソース関連のネタにフォーカスしたグッズを販売するThinkGeek.comを買収した。この数カ月間の買収が事実上のAndover.netのビジネスの全容に近いものになるわけだが、この一連の買収劇の最中である9月16日にIPOを申請したのである。

つい3ヶ月前までほぼ無名の会社であったため、誰もが驚くIPO申請ではあった。しかし、800万ドル程度の累損があったものの、既にそこそこの規模に成長しているメディアとEコマースのサイトを取得していたことで、広告市場が崩壊しない限りは安定したキャッシュフローが得られることが確実であるのは良い材料だった。また、何よりもSlashdot.orgを買収したことでオープンソースというムーブメントがあることを知ってしまった経営幹部は、Andover.netが「Linux/オープンソース関連情報Webサイトの訪問者の50%を握るリーダー企業である」というメッセージをしきりに流すようになっていた。この言説はコミュニティ層であればそのままスルーしてしまうが、当時の市場には良く響いた。何故ならRed HatがIPO時に明らかにしていたビジネス戦略の内、割と具体的な内容が書かれていたのはredhat.comのポータル化による広告戦略ぐらいだったからである。そのため、Red Hatのポータル戦略はSlashdot.org、Freshmeat、Linux.comよりもはるかに小さなページビューしか獲得できていないのにうまくいくわけがないと批判する向きもあったのだが、Andover.netのIPOに際しては逆にそれが追い風となって作用した。オープンソースビジネスが何であるのかという問いへの回答がまだ市場に対してなされていなかった時代だからこそ、単なる小さなWebメディア企業がLinux/オープンソース関連株になったのである。

Andover.netのIPOは、OpenIPOネットワークを介したダッチオークション形式で行われた。稀な手法であるが、投資とはあまり縁もない多数の個人も株を欲しがるという読みもあったのだろう。当時としては多い発行済株式の25%が売りに出され、12月8日に18ドルでオークションは完了し、公開初日の終値は63ドルまで上昇した。Andover.netは無事に5,000万ドルを越える資金を手に入れることになった。

Andover.netのIPOの成功によってVA社とクレディスイスは以下のような感覚を覚えた。

  • Andover.netのメディアよりもよりオープンソースの本質に近いメディアを運営しているのだから、VAは当然のように大きな成功を果たすだろう。

一体何が起きている!?、LinuxOne

Andover.netによるIPO申請の翌週9月22日、早くも4社目のLinux企業?によるIPOが申請された。今度もVA社ではなく、LinuxOneという企業からであった。誰も知らない会社だった。

S-1申請書によれば、LinuxOneは当年の3月に設立したらしい。キャッシュは150,000ドルほどが残っているらしいが、売上はゼロであり、販管費の計上はない。従業員が10名と書かれていたが、事業の形跡が伺えないものであった。彼らの主張によれば申請当月の9月にLinuxOneというLinuxディストリビューションを公開したということだったが、同社のwebサイトから辿れるFTPスペースに置いてあったのは確かRedHat Linuxそのものだったようなかすかな記憶があるが、Mandrakeだったかもしれない。ともかく彼らのディストリビューションではないことは明らかだった。Webサイトについても当初はごくわずかな書き込みが存在したことは記憶にあるが、数日後にはコンテンツ全て消されていた。

全く実態がないようにしか見えない会社ではあったが、LinuxOneは「自社のディストロが世界で最も人気のあるディストロになることを信じている」と申請書では明記していた。また、LinuxOneのIPOの計画は300万株を一株8ドルで公開するというものであったが、「公開価格は、当社が約2,300万ドルを調達するために任意に設定したものであり、資産、収益、簿価、その他の価値基準とは何ら関係がありません」と堂々と書かれていたのも味わい深いものであった。さらに、S-1申請書の戦略面等についての多くの箇所がRed Hatの申請書をそのまま拝借しているようであり、やる気のなさが垣間見えるものであった。

当然のようにLinuxOneのIPO申請にはあちこちで論争が発生し、それ以上のプロセスを進むことはなかったが、一歩間違えばほぼ実績がないビジネスであってもIPOが可能であることを示した事案だった。何しろ他のどの会社も直前で赤字を計上し、今後もビジネス拡大のために赤字を継続するという前提でIPOを達成したわけである。

ともかく、この事件はLinux/オープンソースバブルの一つのネタとして象徴的に語られることになった。

そして絶頂へ

LinuxOneの騒動でまだコミュニティがごたついていた10月8日、とうとうVA Linux Systems社がIPOを申請した。Red Hatの後に何故か間に3社が挟まれ、それぞれ印象的な結果を残したが、市場はとうとう本命がやってきたと騒ぎ始めた。

長くなったので次回へ。

次回:VA LinuxのIPO:13ドル、23ドル、30ドル、そして 300ドルへ

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