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日記

kazekiriの日記: VA LinuxのIPO:13ドル、23ドル、30ドル、そして 300ドルへ

日記 by kazekiri

http://shujisado.com/2017/06/16/612862/へ移転。

LinuxOneの騒動でまだコミュニティがごたついていた1999年10月8日、とうとうVA Linux Systems社がIPOを申請した。Red Hatの後に何故か間に3社が挟まれ、それぞれ印象的な結果を残したが、市場はとうとう本命がやってきたと騒ぎ始めた。

この時、Red Hatの株価は86ドル

NASDAQ総合指数は2,800程度でこの半年前と比較すると300ほどの上昇であり、市場は当時としてはまだゆるやかな上昇の途中だった。

ゆるらかに動く10月

VA Linux社のIPOの計画はRed Hatのものと規模はさほど変わらない。全体の10%ほどに当たる440万株の新規発行で一株13ドルの価格が設定され、6,500万ドルを調達するものだった。直近1年間は売上1,770万ドル、損失1,450万ドルであり、四半期毎では売上が240万ドル、320万ドル、430万ドル、780万ドルと急成長を遂げていたものの、彼らが目標としていた5年以内での10億ドルの売上に達成を見越したハードウェアビジネスを支えるために必要な設備投資やブランディングにかかる経費が継続することが見込まれ、Red Hatと比較すれば成長速度は上回っていても株価として評価するにはやや下と見るべき存在とするのが妥当だったと思う。Red Hatと異なり、ラックマウントサーバーという今後需要が増大すると見込まれるハードウェアを製品として抱え、既にこの領域ではDell、HP、Compaqなどと激しいシェア争いをしていたという点から大きな評価をする向きもあったが、まだ様子見の空気も強かった。

IPO申請直後の10月12日、VA Linux社はO'Reilly、SGIと組み、CD-ROMと書籍をバンドルしたDebianのリアルなパッケージ製品を発表した。製品とは言ってもO'Reillyの書籍付きで19ドルという破格値で、かつ利益は全てオープンソースの誕生の件でも出てきたSoftware in the Public Interest (SPI)へ寄付するというものだった。当時は大手ではVA社だけがDebianサーバーを出荷し、ある意味ではDebianはVA社の象徴の一つでもあった。しかし、当時はDebianそのものが全く市場に響かない存在である。このタイミングでそれを出してしまう空気の読まなさというか裏表のなさがLarryが率いていたVA社らしいとも言えるので一応ここに書いておくことにする。

この10月にはRed HatがRed Hat Linux 6.1をリリースし、Compaqとのサポート契約が発表された。

にわかにざわつく11月

11月に入り、にわかに空気が動き出す。Red HatはOracleとの協力を拡大し、11月5日にはCobalt Networks社が前回記事に書いたようにRed Hatを越える驚異的なIPOを達成した。Cobalt社は同社の株式の18%を占める500万株から無事に1億1000万ドルを調達し、さらに22ドルの公開価格が128ドルまで上昇したのである。同じハードウェア主体のVA社への注目がさらに高まることになる。

ちょうどこの頃、3回目の司法省によるMicrosoft独占禁止法訴訟が佳境にさしかかりつつあり、Thomas Jackson判事がMicrosoftの商行為に対して独占との事実認定を行った。この訴訟は翌年にMicrosoftを2分割する判決が出されることになるが、この一連の訴訟から発生するさざ波が、生まれたばかりのLinux市場をさらに揺り動かしていた。当時でも4,000億ドルという途方も無い時価総額であり、PC市場の独占企業が分割という流れに向かっていたのだから無理のないことではある。

11月15日、Red Hat社がCygnus Solutions社と合併するというアナウンスが出された。当時はCygnusがオープンソース業界の最強の会社と見なされており、売上規模もまだRed Hatよりかなり大きく、事業は成熟し、圧倒的な開発者陣を揃えていた。そのCygnusと合併するというニュースは、安定したキャッシュフローをRed Hatが獲得したと見なされ、市場には安心材料となった。高騰する株価を納得させるための行動をRed Hatが取っていないとする向きもこれでいったん止むことになる。

この時期、Red Hatの株価は100ドルを越えた。

この同日、VA Linux社はS-1上場申請書を更新し、10月末までの四半期の業績を反映させた。前の四半期(7月末)の売上は780万ドルでこれも急激な増加だったが、さらに1,480万ドルに倍増した。この内 240万ドルはAkamai Technologies社からの売上である。売上総利益は3四半期マイナスを記録していたが、これで200万ドルのプラスに振れ、このペースでいけば高度成長を継続しつつ、黒字化を早期に達成できるような空気も漂ってきた。ドットコムのバブルに乗ったネット企業が次々にVA Linuxのサーバーを買うだろうという確信的な空気も増していた。

11月23日、一通のメールが様々なオープンソースコミュニティに属する人々に配信された。VA Linux社のChris Dibona名義でドイツ銀行から送られたものである(全文有り)。ようはRed Hatが行った開発者へのIPO価格での購入オファーと同じことである。Debian、KDE、GNOME、GTK+、Python、GIMPといったメジャーなプロジェクトへの貢献者、VA社の社員による推薦、そして11GBのソースコードとHOWTO文書のアーカイブから名前を拾い上げられた者たちへ一斉にIPO価格でのVA Linux株の購入がオファーされた。購入可能株数は100株(確か50株ほど後に増量された)だったが、既にRed HatとCobaltが株価の大幅な上昇を見せていたことから、1,300ドルの投資がすぐに何倍にもなるという確信的な空気が出来上がっていた。なお、VA社からのオファーは米国外でも幾つかの国で有効であり、日本は国内法により50人までと制限されていたが、Debianを中心にオファーが届いた者も多かったと思う。米国外からの購入が可能ということもありVA社のオファーは世界的に大きな話題になった。多くの開発者が株の取得を考え、最終的に352,000株がコミュニティへ分配された。

この日、Red Hatの株価は140ドルを越えた。

狂乱の12月

12月に入ると、Red Hatの株価はとうとう200ドルを越えた。徐々に説明が付かない状況だと見る向きが出てきていた。

12月7日、市況の変化を踏まえ、VA LinuxのIPO価格が23ドルに引き上げられた。

12月8日、Andover.netのOpenIPOプロセスによるIPOが行われた。18ドルの価格でオークションが完了し、公開初日の終値は63ドルまで上昇した。Andover.netは発行済株式の25%以上になる400万株を売り出していたが、初日の取引は800万株を超え、Linux/オープンソース銘柄の人気がもはや疑いの余地がないものとなっていた。

この日、DellとのPowerEdgeラインでの提携を数日前に発表していたRed Hatの株価は、270ドルを越え、一時302ドルの高値が付いた。この記録がRed Hat株価の史上最高値であり、17年経過して100倍以上の規模となった現在のRed Hatでもまだ当分は届きそうもない数字である。

さらに同日、前日に約2倍に引き上げられたVA LinuxのIPO価格がさらに30ドルに引き上げられた。

そして、12月9日がやってきた。

VA Linux社CEOのLarry Augustinは自社のIPOを見届けるためにサンフランシスコのクレディ・スイス証券の支店に出向いていた。自分の家族、数名の社員、そしてLinux作者、Linus Torvaldsの家族一同も招待し、取引開始を待っていた。クレディ・スイス側は投資家からの入札状況からその頃には既に何が起きるのかは分かっていたが、Larryはあまり自社の株が置かれている状況を分かっていなかったようだ。Larryは、1年半前の「オープンソースの発明」の時にはまだ小さなPCショップのような規模の企業を経営し、コミュニティメンバーを過ごすことを好んでいた男である。自分が置かれている状況の把握に時間がかかるのは無理もないことだった。このIPOを振り返るインタビューが映画「Revolution OS」の一場面として出てくるが、映画の姿がそのままのLarryである。

正午過ぎに遅れて取引が開始された直後、VA Linux株は299ドルの初値を記録した。この瞬間、VA Linux社の時価総額は100億ドルを越えた。

その直後、320ドルの高値を付けた。この時、シリーズBラウンドに参加した日本の住友商事の当時の時価総額を越えた。

その後、株価は乱高下し、終値は239.25ドルで取引を終了した。690%の初日の上昇は、現在も未だに破られていないNASDAQ市場の最高記録となっている。

なお、この時、NASDQ総合指数は3,600を超え、二ヶ月で800ポイント上昇という異次元の世界に入っていた。

取引を見届けたLarryは自社へ戻り、社員を集め、投資家に説明したプレゼンを紹介した後、ささやかなパーティを開いた。そこに集まっていた多くの社員は自分が持っていたオプションの資産価値が高級車や家が買える値段になっていることに浮かれていた。また、この会社がさらに大きく成長していくものと皆が確信していた。

CEOのLarryの名目資産はこの時16億ドルを超え、John "Maddog" Hallは 7億ドル、そして取締役の一人であるEric Raymondの持ち株の価値は4100万ドルに達した。VAのIPO直前にSambaのプロジェクトリーダーの一人であるJeremy AllisonがVA社に入社しており、12月17日のLinux Conference '99 (横浜)のために来日していたが、そこでJeremyは「シリコンバレーで家を買う必要があったがSGIにいては買えないのでVAに移った。VAはSVLUGそのものでほぼ全員がVA社員だから、以前から自分もずっとVAにいるようなものだったしね。」ということをメディアに話していたが、多くの社員も同じ感覚だったのだろう。

また、SlashdotにはESRが投稿した「Surprised By Wealth」という記事が残されているが、彼は活動を変えるつもりはないし、たくさんのものは欲しくないとしつつも携帯電話、インターネット接続、フルート、そして銃ぐらいは買うことをほのめかし、

「So it's not strictly true that I'm wealthy right now. I will be wealthy in six months, unless VA or the U.S. economy craters before then. I'll bet on VA; I'm not so sure about the U.S. economy :-).」

という軽口も叩いている。「VA社と米国経済がそれまでに崩壊していない限り、私は6ヶ月後に裕福になるでしょう。私はVAに賭ける。私は米国経済についてはよく分かりませんけどね :-) 」という感じだろうか。今見るとまさに死亡フラグのようにしか見えないが、米国経済はダメでもVAは安泰だと信じていたのだろう。結局どちらも死亡するのだが。

その後

VA Linux社のIPOは無事に成功し、30ドルへと直前で価格変更を行ったため、予定よりも多い1億3000万ドルの資金調達に成功した。この時点ではVA Linuxの未来は明るいものが待っており、オープンソースのリーダー企業として相応しい成長を遂げるという期待感に満ちあふれていた。しかしながら、急成長しているとは言いつつも直近四半期の売上は1,480万ドルであり、利益は出ていない。そんな会社でかつ、ハードウェア主体という小回りが効きにくいビジネスで100億ドルの時価総額というのはあまりにも荷が重い評価であった。

それにしても何故、ここまでRed Hat、Cobalt、Andover.net、VA Linuxの一連のIPOは異常な高騰を見せたのだろうか? 1999年夏から2000年3月10日までの期間はドットコムバブル最後の株価の異常な上昇期間であり、NASDAQ総合指数は2,600あたりから3月10日の5,132に向けてバブル最期の輝きとなる一直線のうなぎ上りを見せていた。その途上で単純に新規性のあるワードであるLinuxとオープンソースに投機的な資金が流れ込んだだけかもしれない。

また、当時はMicrosoftへの独占禁止法訴訟の最中であり、会社の2分割が取りざたされていた時期である。ESRの「伽藍とバザール」を多くの人々がGNU HurdではなくMicrosoftとLinuxの比較だと捉えたように、 多くの人々がMicrosoftの代替としてLinuxを捉え、期待をかけていたということもあるだろう。それは目標の一つとしては正しいが、少なくとも上場した4社のメインビジネスはMicrosoftのメインビジネスであるデスクトップOSおよびアプリケーションソフトと張り合うようなものではなかった。VA Linuxが張り合っていたのは元々Sunが支配していた市場であったが、LinuxとWindows 98が比較され、VA Linuxは悪の帝国を打倒するヒッピー集団を率いるヒーロー的存在だと祭り上げられていたようにも感じる。証券会社側の手法や当時のコミュニティの異常な高揚などの細かな要因もあるとは思うが、このあたりの現実よりも過大な期待が異常な高騰を生み出したのではないかとないかと考える。

なお、この後、VA Linuxを含むLinux/オープンソース株は全面安が続き、冬の間はやや持ちこたえたものの3月10日にNASDAQ総合指数が5,132のピークを迎えた後に急激に下落していくのに合わせ、4月にはVA Linux、Red Hat(二分割を12月中に実施)の株は50ドル近辺にまで落ち込む。さらに2000年12月までには両社共に10ドル以下にまで下落し、株式のバブルは消滅した。

2000年3月にはMicrosoftとの訴訟を解決し、新たに資産を引き継いで再設立されたCaldera Systems社がIPOを果たすが、もはやかつての熱狂はそこにはなかった。このCaldera Systems(後にSCO Groupに改名)が生き残りをかけて取得したSanta Cruz Operation社からの事業に含まれていたとされていたUNIX資産(最終的にNovellに権利があると事実上確定している)が後にあのSCO UNIX訴訟問題へつながっていくことになる。

これ以降、Linux/オープンソース関連ビジネスのIPOは途絶えることになる。

次回はIPOを果たした後、事業の急拡大に挑むVA Linux社の行動を書いていく。

次回:映画「Revolution OS」について

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