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なぜナチスを阻止できなかったのか…?

日記 by yosuke

備忘録。ここの続き。

さて。私はネットに溢れている、この詩と称する物をテンプレート化した物言いのほとんどが大嫌いだ。
理由は二重の意味で間違って使われているからだ。

第一に、持ち出される場面が大抵の場合不適切である。
マルチン・ニーメラーでさえも、このテキストの中で明確な犯罪者に対する対処を挙げているわけではない。私は、それが犯罪であるかどうかは是々非々で対処すべきであり、"次は自分かもしれない"という根拠不明な不安だけで、あらゆる行為を擁護すべきではないと考える。文脈として、"それが犯罪であるのかどうか"という議論が必要な場面に対してこの言葉を持ち出すのは、思考の停止でしかない。

二番目。嫌いな理由としてはかなり小さいが、備忘録としてはこちらがメイン。
おそらく、日本でこの言葉を引用しているのは、愛・蔵太の少し調べて書く日記 2005/09/10のエントリを孫引きで基にしているものが多いのだろう。このエントリ自体で言及されている内容自体はかなりのレベルであると思う。ただ、本人も"少し調べて書く日記"と言っている通り、それ以上のことはそれを使う人間が調べるべきことだろう。彼自身が現状の中身のない使い方を奨励しているわけでもないし。
さて。のエントリで愛・蔵太氏も"とても参考になります"、"全部試訳してみたいぐらい"と言ってリンクしている、Niemoller, origin of famous quotationを読んでみよう。まあ、当時からも追記はなされているはずだが。
"I am often asked…"で始まるセンテンスを読むと、実際問題として正確に彼がどう言ったのかは議論の余地があることがわかる。ここで挙げられている候補の中で共通しているものは、対ナチスとして非常に分かりやすいユダヤ人しかない。
で、そのユダヤ人についてだが。ここで、Harold Marcuseはこのページからわかりやすいようにリンクをしていないのだが、彼のサイトの下には、Martin Niemöller was antisemitic-- does it matter?と題するページがある。ページのタイトル通りニーメラー擁護派的な彼であっても、ニーメラーが初期にはナチスの支持者であったこと、アーリア人の優位性を信じ反ユダヤ的思想を持っていたこと、どんなに早く見ても1935年に教会で行なった説教まではその思想を持ち続けていたことは否定できない。
つまり、

つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。

なんて消極的な態度を取ったような言い方は嘘に近いのだ。ついでにWikipediaのMartin Niemöllerに関する記述も参考になるかも。

しかし。前述のHarold Marcuseのページには、教訓にすべき言葉がしっかり書かれている。

Rather, the what is important is that he was one of the few Germans who was personally able to overcome it and admit his past error--that is what his famous quotation is all about.

結局、過則勿憚改ということである。もし、マルチン・ニーメラーの言葉を使うのであれば、この精神こそ忘れてはならないものではないだろうか。

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